ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

再びヴィンセント その2

2021-06-15 | 私の好きなこと

(Image credit: The Samuel Courtauld Trust, The Courtauld Gallery, London)

ヴァンゴッホの「包帯された耳のある自画像」1889年 Credit: The Samuel Courtauld Trust

背景に日本画からの影響がある。

 

 

オーストラリアで生まれたブルックは、日本に移転したときはまだ子供だった。彼の父親であるジョン・ヘンリーは、横浜を拠点とする英字新聞、ジャパン・デイリー・ヘラルドの記者兼ディレクターを務めていた。父は最終的に「横浜の駐在員社会で重要な地位を占めるようになった」と小寺教授は展覧会のカタログ「ゴッホと日本」で述べている。

しかし、ブルックの伝記の残りの部分をつなぎ合わせることが大きな課題であることが判明した。 2年間の研究の後、小寺教授はなんとか神戸市立外国人墓地でこの芸術家の墓を見つけることができた。驚くべきことに、宝塚に住む教授の自宅からわずか30分の距離である。

「ブルックは58歳で何も持たずに神戸に引っ越してきたのです」と教授は言った。 「それはとても悲しい話です。」

同様に、ブルックの仕事の痕跡を見つけるのも困難だった。数年前、教授はカリフォルニア州ラグナビーチのレッドファーン・ギャラリーがE.W.ブルックというアーティストの絵画を販売したことを示す記録を見つけたが、そのギャラリーの所有者は誰がそれを購入したか思い出せないと述べた。 E.W.ブルックの作品は、ロサンゼルスでの2014年の不動産売却記録に登場したが、彼の実際の作品は雲隠れしているかのように探しにくく、また見つけにくいとわかった。

小寺教授は、メイン州からの知らせでブルックの絵がアーティストがいたとされる場所と関係がない場所にある可能性があることに、誰よりも驚いた。ブルックの日本女性と子供のこの作品はまだ完全には認証されていないが(ブルックの他の作品と比較できるものが他にほとんどないため、特に注意が必要な作業となる)、こうした初期段階での兆候は非常に有望である。

この作品の紙に透かしが見つかっており、ゴッホや他の多くの芸術家が使用する高品質の紙を製造したイギリスを拠点とする会社、J・ワットマンの製品であることがわかっている。

小寺教授によると、絵の内容もブルックが描いたものだと言う。帰国後も調査を続ける中、ブルックが住んでいた横浜で、画家の娘と思われる「ウメ・ブルック」と記された墓を発見した。

 

横浜根岸の外人墓地にあるウメ・ブルックの墓石:享年1912年4月12日

URLhttps://www.findagrave.com/memorial/145598089/ume-brooke

 

メイン州で見つかった水彩画の日本女性におぶわれている小さな少女は、6歳で亡くなったブルックの子供で、女性は彼女の母親である可能性が非常に高いと彼は言った。

ブルックに関する検索のターゲットの1つは、ブルックの生活のどこかで、ゴッホとの交友の証拠がさらに増える可能性を追うことである。おそらく、かつてはアーティストからの贈り物であった未発見の作品でさえも隠されている可能性がある。しかし、教授は横浜のブルックの家が1923年の地震【関東大震災】とそれが引き起こしたひどい火災によって破壊されたことを発見し、ブルックの作品も焼滅してしまったかもしれず、それには、今までの期待がへこんでしまった、と言う。

そして今、いくつかの楽観が再浮上したのである。ブルック作品がありそうにもなかったメイン州に見つかったように、どこか思いも掛けないところで、災害や時間によるダメージを逃れて存在しているのではないかと言う可能性が彷彿するのだ。

「これは画期的なことかもしれません」と小寺教授はメールで、「この画家とゴッホの晩年に新たな光が当たるのかもしれないのです」と強調しながら述べた。

*******

付記:

この記事を読み、早速私は手元にある横浜外国人墓地埋葬者リストを開いてみた。観光客がよく訪れる元町の外国人墓地には、ブルックの両親が眠っている。ブルックの赤子、と言う墓石もあるが、これはE.W.ブルックの子供ではなく、別の子供のようで、実際小寺教授は横浜のもう一つの外人墓地、根岸墓地にウメ・ブルックは眠っていると述べた。早速Findagrave.comサイトへ行くと、上記のウメ・ブルックの墓所の写真があった。華やかにさえ見える元町の墓地のような観光はされないが、数多くのウメ・ブロックや、彼女の母親のような日本女性はひっそりとこの墓地にいる。

私はさらにAncestry.comの先祖データサイトで、ブルックは二人の兄がカリフォルニア州中部の小都市ストックトンと南カリフォルニアのサン・ディエゴに住んでいたことを見つけた。そう大昔のことではなく、その二人の子孫は、ブルックの他作品について知っているかもしれないし、また近隣のギャラリーやアンティクショップにメイン州での件のようにひっそりとしまわれていたり、コーナーの壁に飾られているかもしれない。ストックトンは私の住む市から近いし、サン・ディエゴは運転して6時間だが、夫や私が行くことは結構あるのだ。この次のちょっとした遠出の際には、そうした店を覗いてみたいものである。

 

540ページのこの目録本は、私の系図調査にとって一つの大事な道具でもある。

 

”武志”氏による撮影

横浜市中区仲尾台のもう一つの外国人墓地:横浜根岸線山手駅の近くの高台にひっそりとある。

 

 

 

 

 

 

 


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