ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

ほんのわずかな

2020-09-14 | わたしの思い

 

 

 

夜半に突如鳴り響くサイレンは、たとえその時家族全員が同じ家の中にいても不安を起こさせる。けれどあの響は、助けがくると言う響だから、すぐにどうか救える命でありますように、具合の悪い方が一刻も早く必要な治療と処置が取られますように、と小さく口の中で言ってしまう。どこのどなたかわからないが、いつサイレンを聞いてもそう思う。宵闇の中でどれほど苦しい方は心細いことだろうか。そしてそのご家族は、と就寝時にも考える。

夜半に突然かかってくる電話も、まず心臓が床に落ちるようなショックを感じつつ、間違い電話だとホッとする。でもそれが警察や病院からだと、どれだけ辛いことだろうか。友人夫妻は、そんな電話をつい一週間前に受け取った。その夜8時過ぎ、遠く離れた州の大学町周辺のハイウェイで、友人夫妻の最愛の末娘が正面衝突事故で即死した。まだ21歳で、彼女の友人姉妹の上が運転し、妹は後部にいて、友人の娘はきちんとシートベルトを締めて、助手席に座っていた。何がどうなってそうなったのかわからないが、正面衝突で、彼女だけが即死だった。相手側の運転者も、同乗の姉妹一人はシートベルトなしだったにも関わらず、在命して即時病院へ送られた。

その末娘がまだお母さんのお腹にいる頃から私たち家族は、「彼女」を知っていた。姉3人、兄1人の家庭に、降って湧いたように、生まれてきたのだった。勿論両親も姉兄も、クリスマスプレゼントのように、彼女が生まれてくるのを待ち望み、生まれれば、本当に慈しみ、愛してきたのを知っている。この家族には、こうした突如としてやってくる理不尽が、以前にもあり、父方の祖父は、強盗によって殺害されている。だからと言って、勿論そうしたことに慣れているわけではなく、家族の試練が再びやってきたのを傍観するしかない私たちは、それでも最善を尽くして、哀悼の意を表し、できることはなんでもし、常に今この家族に必要な少しでも平安な気持ちを祈る。

この家族は、それでも平安を感じている。悲しみは限りなくとも、平安が心にあるのがよくわかる。クリスチャンであり、その信仰が平安をもたらしている。ほんのしばしの別れであるのを、知っている。

義理の父が長い癌との付き合いの果てにひっそりと息を引き取った時、その葬儀の後の埋葬で、わたしは自分でも驚くほどの涙を流した。それは単に夫の父親としてではなく、その人柄を失うことに大きな悲しみを覚えたのだった。それでもあの時、わたしは、平安も心の底にあるのを知っていた。しばしの別れ、だけだと。

21歳と言う年齢があまりにも若過ぎて、あれもできたのに、これもできたのに、と悔やむ心が痛む。それなのに、肉体を失った彼女が、泣き崩れる家族の真ん中で、両手を広げて皆を抱きしめているのを感じる。その可愛らしい頬には美しい微笑みを浮かべて。

そうね、また会えるものね、ほんのしばしのお別れだけね、マッケンジー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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4 コメント

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悲しみ (マンマ♪)
2020-09-14 10:23:19
人は深い悲しみの中で生きていかなければなりません。いろいろなことがありますね。

クリスチャンの世界では「おはらい」という儀式はないのですか?
この世にいること自体が原罪。受け入れるしかないのでしょうか。
日本における神仏融合の世界では度重なる禍は神社やお寺に行っておはらいをしていただいたりしますが。。。

私もままちゃんと同じように、義理の母91才でが亡くなった時に私だけ大泣きしていました。それこそ存在を失った悲しみだったのです。義理母は本当に私によくしてくれました。今でも考えると胸が詰まります。

今の私にとって、しばしのお別れというより、未来に向けて頑張る姿を見守って欲しいです!!
(長くなってすみません。)
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心配 (ハブグレジュンタのマミー)
2020-09-14 21:48:52
おはようございます。お友達のご夫婦、人生最大の悲しみを経験し、お慰めの言葉もありません。子供を持つ親にとって子供を失うと言うことは、自らも死んでしまう気持ちとなると思います。私も娘が遠くに住んでいるので、往復の道のり、いつも非常に心配です。
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コメントをありがとうございます (ままちゃん)
2020-09-15 02:24:38
マンマさま

肉体的死とは、精神が死すべき体から分離することです。アダムとイブの堕落のために、すべての人々は、神から離れて肉体的な死を被る状態で生きています。けれど、多くの人が「原罪」と呼んでいることで、人間が非難されることはありません。言い換えれば、エデンの園でのアダムとイブの神の意志に従わなかったことについて、わたしたちは、その責任を負いません。そして、イエスキリストの贖罪を通して、救い主はエデンの園での罪の代価を支払いました。彼は私たちに復活の保証と、私たちの忠実さに基づいて、私たちが天父の前に永遠に住むことができるという約束を与えてくださいました。イエス・キリストなしでは、私たちの罪からの復活も救いも不可能です。彼は、私たちの罪のために苦しめられたので、私たちが許しを祈り、変化しようとするとき、私たちは清くなることができます。彼はまた十字架上で死に、その死から蘇りました。イエスの死に対する権力は、イエスを信じるかどうかに関わらず、すべての人が復活することを意味します。イエスのために、死は終わりではありません。
悲しむ親と愛する人が救い主とその計画に信仰を持っている場合、イエスが彼に信仰を持つ者の悲しみを負い、聖霊を通して彼らを慰めるので、死の刺し傷は和らげられます。 キリストを通して、傷ついた心は直され、平和が不安と悲しみに取って代わります。
救い主についてイザヤが述べたように、「確かに彼は私たちの悲しみを負い、私たちの悲しみを運んだのです……そして彼の打たれた傷によって私たちは癒されます」(イザヤ書53:4–5)。
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コメントをありがとうございます (ままちゃん)
2020-09-15 02:36:37
マミーさま

亡くなったお嬢さんは私の子供たち皆知っていて、その姉たち、兄とも仲良しでしたので、ショックなことでした。スエーデンの次男さえ、知らされて、早速お悔やみを発送していました。

死は、生まれることと同じ、自然なことですが、瞼に浮かぶのは、生まれた時や幼いころやらばかりで、切なくなります。でも上記のマンマさんへのお返しに書いたように、友人家族と同様わたしたちも信仰があり、希望もあります。何故今このように逝かねばならなかったのか、その疑問はいつか私たち自身がこの世を去る時にわかるのだろうと思います。
お嬢さんの研修も、早く無事に終えられるといいですね。皆さまのご無事をいつも祈っています。
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