ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

加州の謝罪

2020-03-03 | アメリカ事情
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アリゾナ州ポストン収容所:バラックスではこうしたシーツやキルトで「壁」を作り、他家族と隔てた狭い我が家を作った。

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1月28日に州議会議員アル・ムラツチと6人の共著者によって紹介されたこの決議案には、カリフォルニア州の「第二次世界大戦中の日系アメリカ人への不当な包摂、除去、投獄を支持する過去の行動」に関する文言が含まれている。この期間中に日系人の公民権と市民の自由を支持せず、擁護さえしなかったが、カリフォルニア州議会の司法委員会は2月に全会一致で法案を承認した。

 

日本が1941年12月に真珠湾攻撃を起こしたことがきっかけで、ルーズベルトの大統領命令は、敵関係のある外国人やスパイとみられる者から米国を守る戦略的な動きとして正当化された。しかし、この「政府の行動」は、人種差別的なヒステリーとパラノイアに拍車をかけたとして長い間批判されてきた。1980年に連邦委員会がルーズベルトの決定を「政治的リーダーシップの失敗」と宣言した。

 

JACL(Japanese American Citizen League)によれば、当時から「日系アメリカ人は、アメリカに対するスパイ行為または妨害行為の罪で起訴されず、有罪判決も下されなかった」のである。それでも、彼らは単に「敵の顔」を持っていたために、標的にされた。

 

1988年、共和党のロナルドレーガン大統領は、全米を代表して日本に祖先を持つ人々に謝罪し、収監された各個人に20,000ドルの賠償金を付与する市民自由法に署名した。 その30年後、ニューヨークタイムズ紙によると、合衆国最高裁判所は1944年の判決、つまり「コレマツ対アメリカ合衆国の判決」(日系アメリカ人を抑留する決断)を却下したのである。

 

この新しいカリフォルニア州の法律には金銭的な補償は含まれてはいないが、戦争中の州の犯した罪、日系アメリカ人の投獄を支援し、国境の内外での日系アメリカ人への偏見を助長したことを認めている。
CNNのハーミート・カウア記者によれば、ルーズベルト大統領の決断は、「政治的指導者の大失策である」と連邦委員会は宣言したわけである。また、この法案には、1913年と1920年の州の外国人土地法を含むカリフォルニアの歴史における州の犯した過ちが詳述されており、アジア系の人々が土地を購入またはリースすることを禁じ、1940年代に日本の祖先を持つアメリカ人の公民権をさらに剥奪したことも書かれている。

 

参考:SmithonianMag.com 2/19/2020 

 

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南加に住んでいた頃、その郡に新しい歴史博物館を作る計画が始まり、私はおよそ100人あまりの日系人農家の方々と日系人コーナー設立のため奉仕したことがある。もう40年近い昔のことだが、その頃でも、すでに日系一世の方々はほぼ亡くなり、二世の方々も高齢に差し掛かっていて、その世代と三世、四世もすでに日本語を読み書きすることもなく、習字やレタリングの好きだった私はそのコーナーに置く看板をデザインしたり、昔日の日本パスポートや様々な日本語の古書類を英訳することを任されたのだった。又博物館開館にあたって、運営等に関する費用を工面するのに開いたバザーでは、たまたまフィードロット(肉牛肥育所)を経営する白人家族と知り合いで、牛一頭分の肉を寄付してくれ、それで牛丼を作り、販売したものだ。又日系人によるクックブックに出ていた栗饅頭や大福も作り、それらはすべてあっという間に売り切れてしまった。

 

その歴史博物館の日系人コーナーでの設えを長い間一緒にやるうちに、多くの日系人の方々と知り合いになり、昔の苦労話などをたくさんお聞かせいただいた。もともと私は、人の話を聴くことが大好きで、それが知られると、多くの方々がお話してくださった。収容所時代のことは、多くは、「もう過ぎ去ったことだから、」と遠慮がちにおっしゃり、苦労したことよりも、そんな生活の中でも野球チームを作って楽しんだり、手工芸品を作っては殺風景で、狭く、埃っぽかったバラックのカーテンで仕切られただけの「我が家」に飾ったり、また庭園を砂漠に作り、楽しんだ、などをお話してくださった。去年引退した大学の同僚の一人は、生物の教授だったが、その伯母が、収容所でレース編を楽しんでいた、と貴重なその作品、大概はかなりな作品をわざわざ見せてくれた。

 

その中で、メリーという名の日系二世の婦人は、一言「地獄でしたよ」と苦々しくつぶやかれたのを忘れない。メリーが収容されたのは、最初の子供が生まれたばかりの、若い妻・母親時代で、夜その娘がミルクが欲しくてよく泣き、長屋のようなバラックには、何家族も住んでいたので、外へ出るしかなく、その子を抱きながら、苦労して泣き止ませたと言った。メスホール(食堂)の人々にミルクを頼んでも、時間外にはキッチンを開けはせず、陽のあるうちに粉ミルクや牛乳を取りにくるように、と言うばかりだったと、憤りながらはなしてくれた。私は、その頃、第二子が生まれ、授乳中であったから、メリーの災難が余計身に染みて感じられたものだ。

 

ヤフーニュースでの上記の記事に関してみなさんがコメントを書かれている中で、おひとりが、「それでも住んでいた所(つまりバラックス)はかなり広く、当時の日本にいた日本人からすれば、快適だったのでは。」と書かれていたが、もう78年も経た今だから、当時を想像できないほどお若い方だろうと思った。

 

私もまだまだ生まれてはいなかったが、10あった収容所のうち、アリゾナ西部の砂漠にあるアメリカ原住民居留地内に作られたポストン収容所の跡地へ、うちからほぼ三時間運転して、1984年頃私は行ったことがある。その時には何も残されていなかったが、たくさん列をなしていたバラックスの一つは、ある教会が買い取ったそうで、その教会の敷地に置かれていた。その教会には誰もいず、そのバラックの中を見学することはならなかったが、外側からでも狭く、かなり窮屈そうであったのは、覚えている。こうした列車のような長いバラックスは、中は家族と家族を隔てる壁はなく、かろうじてカーテンが使われていたにすぎず、勿論プライバシーはなかった。そしてポストン以外の収容所でも、マンザナールやワイオミング州のハートマウンテン、ユタ州のトパーズも荒廃した砂漠地にあり、冬は凍え、夏は暑い、そんなところだった。そうしたところに日系人はほぼ4年住まわされていたのだった。そうした環境で、スパイとみなされて、鉄条網の張り巡らされたグラウンドで生活してきた人々は、解放された後、実はあまり多くを語らなかった。

 

戦争が終わり、収容所を後にした人々は、そのままその収容所のあった州に居ついたものもいたが、ほとんどは加州へ帰ったりした。私の検眼医は、御両親が隣人だった日系人家族の経営していた商店を戦争中ずっと守り続けたことを話してくれた。この検眼医はユダヤ系の白人だが、その御両親は、日系人を差別・阻害せず、非常に好意的でまた親切でいらしたのだろう。その日系人家族はその後もワシントン州の街で商店を営み、その子供たちはみな教育を受けて立派になった、と言う。

 

収容所にいた頃、アメリカ合衆国に忠誠を誓い、陸軍に志願した日系人の二世部隊と呼ばれた第442連隊戦闘団はGo For Broke (最後まで戦う)という言葉をモットーを用いたのがよく知られ、映画や本になったが、怖い者知らずのように戦い抜き、他の部隊ができなかったダカウのユダヤ人救助・解放を達成したことでも有名である。その部隊に所属して戦い、無事に(幸運にも)アメリカに戻ってきた日系人とも私はお知合いになった。まさに英雄であったが、彼もまた戦争時のことについては多くは語らず、今は仲の良かった奥様と共に墓所で休まれていらっしゃる。

(参照:http://www.goforbroke.org/learn/history/military_units/442nd.php

 

そうしたお話を伺った方々の大部分は、すでに逝去された。そして私はいつも思うのだ。フランクリン・デレノア・ルーズベルトはその従兄のテッド(セオドア)・ルーズベルト(共和党大統領)と異なり、民主党党員として生涯を過ごした。原子爆弾投下の指令を下したトルーマン大統領も民主党である。1838年にアメリカ原住民移住法、つまりニュー・エコタ条約をアンドリュウ・ジャクソン大統領は、実践・実行し、15000名のアメリカのチェロキー族原住民をオクラホマへ追いやり、そのうちの4000人は途上で死んだが(有名なTrail of Tears涙の道である)、ジャクソンもこれまたアメリカ初の民主党大統領であった。そうしたことを踏まえて、何故現在多数の日系議員たちは民主党に属するのを固執するのか不思議でならない。黒人奴隷を解放したのは、共和党のリンカーン大統領で、さらに1988年に戦時中抑留された日系人に謝罪し、例え一人二万㌦でも賠償金を支払うようにしたのは、共和党の大統領レーガンである。

 

コメント (2)
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