ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

チェロを弾くための椅子

2019-05-02 | アメリカ事情

 therecord.com: Cello chair for This Old Thing column

 

 

 

 

人生では、思いがけず、宝のような時間を持つことがある。素晴らしく心に響く音楽を耳にしたときや、生涯の友となる人に出会えたときなどがそうした宝だと思う。小ぶりの良い年代を重ねたドイツ製のチェロを探しあてたとき、それは私達の末娘にとって、大きな意味があり、その相性も良く、実際にそのチェロで数々のコンサートをこなしてきている。下のアリ・ゴールドマンさんの話を読み、私達家族にも、こうした経験があるのを思い起こした。

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私はいつもチェロの豊かで甘美な音を愛している。コンサートに行き、もしチェロを持ってして私がそのような素晴らしい音楽を作ることができたら、どんな感じになるだろうと思う。しかし、1970年代後半のニューヨークの若いジャーナリストとして、私は自分が演奏できるとは想像もしていなかった。


ある日、任務と任務の間を突進していた私は誤って事務所ビルの間違ったドアをノックした。もじゃもじゃの白い髪の年配の男性がドアを開けると、その彼の後ろに、濃い色をしたチェロと、竪琴のデザインのある木製の椅子が成す劇的な場面があった。


しばらくの間、私は何を探していたのかを忘れていた。私は尋ねた、「あなたはチェロをお弾きになりますか?」


「はい」と彼は言った。 「あなたは私の生徒になりたいのですか?」


「はい」と、ほとんど何も考えずに私は答えた。


数日後、最初のレッスンに到着したとき、ハインリッヒ・ヨアヒムという名前の先生に、あのとき、とっさに「はい」と答えたのだが、私は自分が学べるのかどうかわからなかったと言った。 「自分が音楽家であるかどうかわからないのです」と私は言った。 J氏(Mr. Joachim のJからそう呼んだ)は、鍛錬と楽器への献身で、私が一人の音楽家になれる、と私に保証した。


私はかつて美しい声を持っていた、と彼に言った。私は自分の属していたシナゴーグでソロを歌い、先詠者になることを夢見ていた。しかし、思春期に声を失った。 「チェロが、」J氏は、約束した、「あなたに声をお返ししますよ。」


私はチェロを買い、毎週のレッスンに行き始めた。驚いたことに、レッスンは音楽から始まったのではなかった。それはお茶を飲んで始められた。 「私のアリはいかがお過ごしでしょうか?」J氏は尋ねる。彼は私の仕事や興味のあること、そして私の野心について知りたがっていた。


チェロに、こぎつけると、それは楽器とのただの出会いではなかった。 「あなたは、美しい女性を抱くようにチェロを抱きしめてください」と彼は私に言った。私は腕を首の周りに、そして脚を楽器の本体の周りに置いた。 「今すぐ弾いてください」と彼は言った。 「ただ音を聞くのではありません。音をお感じなさい。手、太もも、胸の振動を感じてください。」


私は着実に進歩した。チェロのテクニックと共に、J氏は私に音階、音色、メロディー、そしてハーモニーについて教えた。私はチェロで大人のトリオとして、後にはアマチュアのオーケストラで演奏するのに十分によくなった。


「私のために演奏してはいけません」とJ氏は今でも常に言うだろう。「通りの向こうにいる人々のために演奏なさい。遠くまで聞こえるように弾くのです。」


J氏は1910年にドイツで生まれ、11歳でチェロのためにおもちゃを一切放棄した。彼はベルリンの音楽院で学び、後に政府主催の室内楽団に参加した。オーケストラの団員がヒトラーに忠誠を誓う必要があると言われたとき、ユダヤ人の血筋が半分だったJ氏はグアテマラに逃げた。彼はやがてニューヨークにたどり着き、結婚し、家族を育て、そしてレオナルド・バーンスタインの下でニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団などの主要なオーケストラで演奏した。


私は政治、学校、そして交通をカバーする記者だった。 レッスンを受けている間に、時々音楽とは何ら関係のない記事を私が持っていくと、彼はそれらを批判していたものだ。 「もっと感情を、」と彼は要求していた。


結婚して家族を養うようになるまで、私は7年間彼の許で勉強した。 私はレッスンを止めたが、私たちは連絡を取り合っていた。


2002年にJ氏が亡くなったとき、私は彼の子供たちと緊密な関係を保っていた。 そして、私が中年になりチェロに戻ったとき、私はJ氏が「あなたが美しい女性を抱きしめるようにそれを抱きしめてください」と言ったことを思い出した。


J氏の長男、アンドリュウは2014年に亡くなった。その後まもなく、アンドリュウの未亡人サリーから電話があり、特別な贈り物があると言われた。 大きな箱が数日後に到着し、その中にはJ氏の、あの背もたれに竪琴の飾りがある木製の「チェロの椅子」があった。私はJ氏の椅子によく座る。 私は彼の音楽の音には決して追いつかないが、そこに座ってお茶を飲むのである。



これはニューイングランド音楽院でチェリストで、また教師として45周年を迎えたローレンス・レッサー氏。 

Photograph by Andrew Hurlbut


 

コメント (3)
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