歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

奈良・法華寺~光明皇后と女性の活躍

2023-01-11 07:32:42 | 奈良県
奈良の旅は、聖武天皇の后、
光明皇后(光明子)の面影を追うことが、実はテーマ♪

となれば、光明子安宿媛(アスカベヒメ)と呼ばれていた、
幼い日を過ごした屋敷は外せません。

それが、奈良・佐保法華寺
大和三門跡の1つとして知られる尼寺です。
もともとは、光明子の父、藤原不比等の屋敷でした。

千人の垢を洗ったという、光明子の有名な浴室(↓)に心惹かれ・・・
何より、光明子を模したという、十一面観音立像に、
レプリカといえど感激。
いつまでも向き合っていたいようでした。

広大なお庭は、四季折々の花も楽しめるとか・・・



藤原不比等は、平城京遷都に合わせ、この広大な屋敷を新築しました。


ここで、不比等の娘、安宿媛(アスカベヒメ) 首親王(オビトシンノウ)が、
子ども時代を過ごしています。

首親王、後の聖武天皇は、文武天皇不比等の娘・宮子の子。
母・宮子が、出産後、体調を崩していたために、
祖父・不比等の家で育てられました。
聖武天皇光明皇后は甥と叔母の関係でもあるんですねw)

首親王は皇子ですから、おそらく別棟暮らし。
安宿媛と、一緒にに住んでいたわけではないでしょうけれど、
二人が同じ屋敷で、子ども時代を過ごしていたことに惹かれます。

幼い二人が、憎からず互いを意識していたであろう、
ほのかな恋の舞台、不比等邸が法華寺になったのねぇ・・・♥

ところが、それだけじゃなかったんです!
旅から戻り、勝浦礼子『古代・中世の女性と仏教』(山川出版)を読んで
驚愕!
法華寺は、尼寺という以上に、かつて、女性の活躍の場だったのです!!

本日は、その覚え書きです。



【日本初の僧尼、善信尼】
そもそも、この本を読み始めたのは、藤原宮を訪ねた折に知った、
善信尼について、もっと知りたかったからです。
善信尼藤原京よりも、ずっと前の時代の人ながら)

時代は、ずいぶん、さかのぼりますが・・・
まず善信尼について触れておきます。

善信尼は、584年に、他の女性二人とともに
渡来僧について仏教の修行をします。

この頃は仏教が入ってきたばかりのこと。
在来の神を重視する勢力からの圧力で、
善信尼ら女性3人は弾圧され、むち打ちの刑も受けました。

やがて、蘇我馬子が自らの病気平癒祈願のため、天皇に要請した結果、
善信尼らの仏教活動が再開されます。

やがて、馬子の骨折りもあり、
善信尼らは、学問尼として念願の百済への留学もかないました。
これが、日本初の僧尼、おまけに留学生。

つまり、日本の最初の仏教僧尼は尼・女性だった、
・・・と、「日本書紀」に書かれています。

その後の、僧と尼の格差、あるいは女人禁制の場の存在を
考えると、信じられませんが・・・
とにかく、古代の仏教の先鞭をつけたのは尼、女性だったことに
驚かされました。



(いずれも絵はがき。林屋拓翁 「光明皇后『御影』」と法華寺の「十一面観音立像」。立像は光明皇后が蓮池を歩く姿を模したとされる)


【古代における僧尼】
その後、仏教は、国の政策として受け入れられ、隆盛を極めていきます。

奈良時代の頃、僧尼は寺院で活動するだけではありませんでした。

天皇や皇族の「宮」、貴族の「家」に住みこんでの、
活動もしていたのです。

天皇、貴族からの僧尼へのニーズは、さまざま。
政治・宗教的に意見を聞いたり、子ども達の教育を委ねたり・・・
また病気治癒のための経典・講読などなど・・・

その必要性から、自分の「宮」や「家」に僧尼を住まわせ、
あるいは頻繁に招いていたのです。

これらの僧尼の活動の様子は、
出土した「長屋王木簡」「二条大路木簡」などから明らかになりました。


注目したいのは、「僧尼」と、併記されていること。

その後、尼の留学が続いたとの資料はないので、
善信尼に続く女性の留学は、なかったのかもしれませんが・・・
実務の場では活動していたのです。
「僧」も「尼」も、それぞれの場所で・・・

古代は、女性の地位が意外と高かったというのは
なんとなく知っていました。
男女の格差、不平等が目立ってくるのは、もっと後のことですものね。

古代の尼の中では、試験によって、僧よりも高い評価を得た者が
多いそうで・・・
ここからも古代の僧尼、極論すれば男女の平等性が
今よりも高かったらしいことが伺えます。

「男女の平等性」といえるのは、僧尼の世界だけではありません。

宮人の中には、光明子の母・橘三千代のように、後に出家して
尼となることもありました。
三千代は、今で言う、凄腕のバリキャリ!)
宮廷では、尼と宮人ら女性が活躍していたことが伺える例でしょう。

一方、僧とともに働いたのは男性の官人です。
宮人と尼の女性ワーカーと、官人と僧という男性ワーカーが
仕事を分担しながら活動していました。

女性は宮中、つまりは奥向き、男性は政治的な表向き・・・
という分担が気になるといえば、なりますけれど・・・
それぞれが、それぞれの役割をこなして互いに認め合っていたのでは?
と、考えたいと思います。



(阿弥陀浄土院跡 光明皇后が病がちとなった頃、造営に着手。
生前に間に合わず、一周忌法要が行ったとされる。かつての法華寺敷地内)



【法華寺】
寺以外で、僧尼が活動していた場が、
このような皇族や貴族の「宮」や「家」にあった仏教施設です。

その、本主(本来の所有者)が亡くなると
「寺」に造り替えられることも多くありました。
法華寺」もそのひとつで、「宮」から「寺」になったのです。
つまり、法華寺は、宮廷の性格を残した尼寺といえましょう。

始まりは、父・藤原不比等が亡くなり、
光明皇后が、その屋敷を相続したことからです。

天平17(745)年には「旧皇后宮」から「宮寺」という尼寺にし、
宮廷で活動していた尼の活動拠点となりました。
天平19(747)年に、「法華寺」と名を改めています。

初期の頃の法華寺は、本主・光明皇后による、
「皇后宮」の中の尼寺で、
伽藍も、邸宅を一部寺院化した程度の仏教施設で
まさに「宮寺」。

ところが、756(天平勝宝8)年、夫・聖武天皇が亡くなると、
光明皇后は変わります。
同い年の夫婦ですから、自らの老いを意識し、自身の死後も
考えざるをえなかったはずです。

宮寺「法華寺」を公的な「官寺」、名実ともに「総国分尼寺」たるに
ふさわしい寺となるよう、大造営に踏み切りました。
これができたのは、光明子が、父・不比等、母・三千代から
莫大な遺産を受け継いでいたから、国家財政を圧迫することなく
可能だったのです。

こうして、法華寺は、光明子の宮の仏教施設から
本格的な尼寺へと整備されました。

実際に、法華寺にお参りし、
さらに、それから平城京歴史公園の脇を通り
ミ・ナーラとなっている、長屋王の屋敷跡までを歩くと、
けっこうな距離です。
グーグルさんによると、それぞれの敷地の端からでも1.3キロでした。

このほとんどが法華寺の敷地だったことを思えば、どれほど広大か・・・
この中で、宮人や尼らの女性が、いきいきと活動していたのかと思うと
胸が熱くなるようでした。


(左が平城京歴史公園 見えないが、中央の奥に法華寺がある。)


【女性の活躍と、その後】
このように、尼も僧とともに活躍できた、古代ながら・・・
仏教の経典には差別的な女性観は、存在していました。
8世紀頃までは、仏教に携わる女性は、この差別を
それほど深刻に受け止めていなかったようでした。

流れが変わってゆくのは、
聖武天皇光明皇后の娘・称徳天皇の死後のこと。

古代には、推古天皇以来、女性天皇が立つことは珍しくありませんでした。
法華寺華やかなりし頃も、聖武天皇こそ男性ですが、
その前は、元明天皇元正天皇と続き、
聖武天皇の跡を継いだのも娘の称徳天皇
女性天皇ばかりでした。

また、光明子のように、財力も権限も持った皇后もいたのです。
となれば、女性である、尼や宮人が活躍するのは
当たり前だったのでしょう。

ところが、称徳天皇孝謙天皇の重祚)以後、
男性天皇である、光仁天皇桓武天皇
よほど道鏡の存在に懲りたのか、称徳天皇道鏡の政治政策を
ことごとく変えていきます。

有名な「ナクヨ坊さん平安京」の794年は、まさに、そのとき。

桓武天皇は「皇后の地位を制限」「宮廷における女性の役割を縮小」
「男性の僧を中心とする政策を推し進め」るなどしました。
9世紀以後は、わたしたちが歴史で習った、
天台宗真言宗など僧中心の宗派が成立」します。

そういった中で、「宮尼の役割は低下の一途」をたどり、
「日本に仏教が受容されなかった当初はあまり問題にならなかった、
僧尼の不平等な関係も明らか」(全て勝浦26頁)になっていき・・・

古代の面影は、次第に薄れていくのでした。


・・・と、ざっくりと、奈良時代の仏教文化が華やかな、
聖武天皇光明皇后の時代を、まとめてみました。

奈良時代は、女性も、のびのびと活動できたのだなぁと、
仏教の世界から知ることができました。


実は、この記事をまとめるのに、門外漢ゆえ
ものすごく時間がかかってしまいました。
それで、この程度の記事なのが、お恥ずかしいです。

間違いや勘違いなども、あることと存じます。
どうぞ、素人のことと、お許し下さいませ。

もし、また奈良を旅する機会があったら、
こういったことを念頭に歩いてみたいなぁと思っています。

なお、最後に、大事なことを、ひとつだけ。
「女性天皇」と「女系天皇」は違います。
わたしが触れたのは、あくまでも「女性天皇」です。
昨今、話題の「天皇問題」について触れるものではありません。
あしからず!

****************************
最後まで、お読みいただき、どうもありがとうございました。
冒頭画像は法華寺です。

◆参考
●勝浦礼子『古代・中世の女性と仏教』(山川出版)
●瀧浪貞子『光明子 ー平城京にかけた夢と祈り』(中公新書)
他、各寺のパンフレットや現地の案内板を元に、まとめました。

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