歴史の足跡

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『歴史エッセー』(8)古墳時代の不思議

2014-06-15 07:43:05 | 例会・催事のお知らせ
『歴史エッセー』“古墳時代の不思議“
古墳時代は弥生時代から3世紀半から7世紀の大和朝廷成立までの約400年間とされている。日本の古墳、墳墓はエジプトと並んで規模の大きな王墓である。しかし日本の古墳が何時どのように誰の墳墓か実態が解明されていない。日本の史記である『記紀』に、その記述が残されていない。中国の史記に照らし合わせ検証しようにも西暦266年から413年にかけ倭国の記述が欠落し「空白の4世紀と言われている。我が国の古墳時代には「前方後円墳」大部分を占め、ヤマト王権と深く関連性があると思われている。年代別は古墳時代前期・中期・後期・末期に分類できる。前期には大和古墳群の中に卑弥呼と目される『箸塚古墳』(280M)他柳本古墳群の『西殿塚古墳』『行燈山古墳』などがある。地方の首長の古墳に甲府・岡山・広島にも存在をする。古墳中期には大阪府の仁徳天皇陵(大仙古墳)486M・応神天皇陵(誉田御陵山古墳)420M・岡山の造山古墳360Mなどがある。古墳時代後期には大阪府は今城塚古墳190M・河内大塚山335Mなどがある。日本の起源を探る上でも、こう言った古墳を形成されていた時代が大和朝廷・大和王朝の成立と考え良いかもしれないが、巨大な仁徳陵を造成した時代の人口はどの位日本列島に暮していたのかと考える場合、正確な国勢調査をしたわけでもなく、地域も確定されている訳でもないので確実な根拠・資料に欠け、諸説があるが、一般学者の推測ではじき出された人口は縄文時代末期で6,7万人に位、弥生時代で60万人くらい飛鳥時代で450万人くらいとして考えた場合、2,300万人くらいと考えても良いのではと思はれる。勿論畿内を中心とし九州までの地域とした人口と考えてよいだろう。そんな場合世界でも巨大墓の類に入る仁徳陵(大仙陵)486Mの古墳を国力を結集し造られた理由と仁徳天皇陵とされているが大王の祭祀は誰なのか、何故このような巨大古墳を造らなければならない理由何か、中央とされるヤマトから河内地域に何故作られたのか、謎は残る。年代別に卑弥呼と比定される「箸塚古墳」大和中心の古墳から、古墳中期の河内から岡山・群馬などの地方の首長まで、大和王朝の支配の拡大を示すものとして、巨大古墳は国力の誇示と権力の威厳を表わすものと考えられる。何万人の工事に従事する人員の徴用を出来、支配者の絶大な権力を確立されたことを表わしている。また3世紀末から7世紀前期までとされている古墳造成から、今日の世紀まで400M近い古墳の丘陵が崩れずに存在する工事工法が如何に優れていたことを教え伝えるものである。こう言った造成工事を技術は大陸の大量流入によってもたらされて日本の風土・地理土壌に合ったものに培われた。墳墓も独自の前方後円墳が造らされた。しかしそれらに関する記述などは詳細に残されておらず学者・研究者の推測ばかりが先行するのが日本の古代世界社会の考古学である。