『歴史憧憬エッセイ―』(4)“古代政変・磐井の乱”
西暦527年継体朝に古代最大の国内反乱が起きた。それが磐井の乱である。場所が朝鮮半島だけに九州と新羅・南加羅が関連する外交含みの叛乱であった。磐井の乱に関して諸説があって真偽説が古来より根強く囁かれていた。
詳しい記述が語られているのが『日本書紀』で『筑後風土記』には「官軍が急に責めてきた」とか『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼があったので殺した」と簡単に語られているだけで、詳細な『日本書紀』の記述には脚色されて信頼性が欠ける説など様々である。その『日本書記』に基づいて経緯を辿れば、ヤマト王権の近江毛野は6万の兵を率いて新羅に奪われた南加羅・㖨己呑を取り戻そうと任那に向かった。この計画を知った新羅は筑紫の豪族、筑紫国造磐井に内通し、ヤマト軍の進路を妨害するように要請した。磐井は挙兵し付近の火の国、豊の国を制圧、倭国と朝鮮半島の海路を封鎖、ヤマト軍と抗戦をした。ヤマト王権は更に援軍の物部麁鹿火を将軍として派遣された。反乱が起きて翌年には物部麁鹿火が率いるヤマト軍と磐井軍が筑紫三井郡で交戦し、激しい戦いの内に磐井軍は敗北、磐井は麁鹿火に斬殺されたと言う。この磐井の乱の起った要因に朝鮮半島への出兵に地元の豪族への負担に不満が噴出、また派遣先の朝鮮半島の新羅にとってヤマト軍の進行の歯止めを掛けたい思惑が一致したためと思われている。ヤマト王朝にとって国内平定と朝鮮半島の両局面の対応が大きな課題であったようである。
西暦527年継体朝に古代最大の国内反乱が起きた。それが磐井の乱である。場所が朝鮮半島だけに九州と新羅・南加羅が関連する外交含みの叛乱であった。磐井の乱に関して諸説があって真偽説が古来より根強く囁かれていた。
詳しい記述が語られているのが『日本書紀』で『筑後風土記』には「官軍が急に責めてきた」とか『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼があったので殺した」と簡単に語られているだけで、詳細な『日本書紀』の記述には脚色されて信頼性が欠ける説など様々である。その『日本書記』に基づいて経緯を辿れば、ヤマト王権の近江毛野は6万の兵を率いて新羅に奪われた南加羅・㖨己呑を取り戻そうと任那に向かった。この計画を知った新羅は筑紫の豪族、筑紫国造磐井に内通し、ヤマト軍の進路を妨害するように要請した。磐井は挙兵し付近の火の国、豊の国を制圧、倭国と朝鮮半島の海路を封鎖、ヤマト軍と抗戦をした。ヤマト王権は更に援軍の物部麁鹿火を将軍として派遣された。反乱が起きて翌年には物部麁鹿火が率いるヤマト軍と磐井軍が筑紫三井郡で交戦し、激しい戦いの内に磐井軍は敗北、磐井は麁鹿火に斬殺されたと言う。この磐井の乱の起った要因に朝鮮半島への出兵に地元の豪族への負担に不満が噴出、また派遣先の朝鮮半島の新羅にとってヤマト軍の進行の歯止めを掛けたい思惑が一致したためと思われている。ヤマト王朝にとって国内平定と朝鮮半島の両局面の対応が大きな課題であったようである。