れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
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平安後期 15章-6 「荘園公領制」☆

2014-03-06 | 平安時代
(1)荘園公領制
荘園と、公領のそれぞれの支配制度が確立して成り立った制度

【公領での支配階級の発達】
①「延久の荘園整理令」で、荘園と公領の区別がついた。

②公領の口分田が「名田」となり、有力田堵(退官国司や有力者)が土地を請け負う。

③有力田堵は、周りの貧民たちを巻き込んで「大名田堵」となっていく。

④大名田堵は、自分で土地を開墾して「開発領主」となっていく。

⑤開発領主が、郡司、郷司、保司として「在庁官人」として国衙の仕事(徴税)をする。

⑥国司が、開発領主(在庁官人)の領主を承認する。

こうして、公領では、朝廷→国司→在庁官人(郡司、郷司、保司)→名主(田堵)→下人・所従
の支配階級が出来ていった。

⑦中には、受領(国司)が、開発領主の領土を侵略し、権利を奪う争いが起きる。

⑧そこで、開発領主は、受領層(領家)に開発領土を荘園として寄進する。

⑨さらに、受領より身分の高い寺社や上級貴族(本家)へ、発領土を寄進する者も出る。

⑩開発領主は、領家や本家より、「荘官」に任命されて、荘園内の税徴収を請け負う。

こうして荘園内では、
本家→領家→荘官(開発領主)→名主(田堵)→下人・所従 という支配階層が出来る。

【支配階級 まとめ】
公領:朝廷-----知行国主-----国司------在庁官人-------名主-----下人

荘園:     本家--------領家------荘官-----------名主-----下人


(2)荘園公領性の課税システム

太田文
人頭税の時に、「戸籍」を作って管理したように、
土地税の時は、「太田文(おおたぶみ)」で土地、田畠の数量を把握、管理した。

公田官物率法
人頭税(租庸調)から、地税(官物)にかわっていく際、
国司が自由に決める課税率(官物加徴)が横行し、
農民の反発を招いた為、
国司の判断での税率を禁止し、全国一律の税率とした。

一国平均役
伊勢神宮や、内裏の増設運営費として、荘園も公領も一律同じ税を課した。

【租庸調にかわる税】
租のかわりに、年貢(米や絹)
調のかわりに、公事(特産品や、布などの手工業製品)
庸のかわりに、夫役(労働力)

【別名(べつみょう)】
新規開墾した土地の、開墾者の世襲を認めた。

平安後期 15章-5 「知行国制度」

2014-03-05 | 平安時代
(1)知行国制度
知行国制度とは、国の所有を認められた知行国主が、国司の推薦権と、その国の収益を
得る権利を持つ制度。

知行とは
4年任期の国司の推薦権と、その国の税の収益権のこと

知行国主
一国の知行の権利を持ち、その地の国司推薦権を持つ、高級貴族のこと。
当初は、皇族限定だったのが、摂関家、有力貴族、寺社、受領、武士へと拡大していった。
知行国主の推薦する国司は、知行国主の親族か側近者である。


(2)知行国のなりたち

①9世紀~10世紀、公地公民が崩れ、院宮家(上皇、皇后、中宮、東宮)に、それに見合う禄を
与えることが難しくなった為、期間限定で国の所有(国司の推薦権と税の全額収入)を認めた。

②10世紀~11世紀、院宮家に限定されていた権利が、藤原摂関家をはじめ、有力貴族や有力寺社
にも広がった。
ただし、院宮家のように全額収益ではなく、朝廷への公納分を差し引いた分が、収益となる。

③11世紀の院政期に、「知行国制度」は急激に増加し、院政を支える基盤となる。
鳥羽上皇は、莫大な知行国を持ち、摂関家は2~3ヶ国を所有するようになる。
また、受領から公卿の仲間入りした「院近臣」も、元々の国を所有するようになる。

④こうして、公領はあたかも知行国主や国司の私領になり、
税の徴収役人である国司、受領の地位が利権化していった。

12世紀の平安後期の平家の繁栄時は、平家一族が30カ国以上の知行国を有し、富を得る。
その後、鎌倉時代に武士が土地を代々継ぐ、封建制度の基盤となっていくことになる。


(3)知行国のややこしポイント

※「遙任国司」と「知行国主」の違いは?
国司はもともと、京に住む文人貴族(公家)が任命されて、現地に赴任していたが、
現地赴任は、親族や側近に任せて、そのまま京に住み続ける国司のこと。
ちなみに、現地赴任する国司の「目代」は、全国司に対する現地赴任者ではなく、
国司のランク(守→介→じょう→目」の最低ランクである「目」の変わりに赴任
するので「目代」と称される。

知行国主は、国司より位が高く、今まで朝廷か院だけであった国司任命権を、
推薦権という名で与えられた、土地の支配者。


※「知行国」と「荘園」の違いは?
荘園は開墾した土地など、領主の私有地であるため、国への納税をしないため、
荘園が増えることは、国にとっては、困ることとなる。

知行国は、国が制度として、高級貴族に禄(給与)のかわりに与えた国のこと。
税はあがってこないが、国の資金としてみられている。



山川出版「詳細日本史研究」P124

平安後期 15章-4 「院政の仕組み」☆

2014-03-04 | 平安時代
(1)院政
院政とは、上皇や法皇となってからも、現天皇に代わって政治をおこなうこと。
それまで摂政・関白が行ってきた「摂関政治」の衰退に伴って出来た政治形態。


・もともとは、自分の系統の皇位継承(父方尊属)の為に出来た。
・藤原摂関家の支配力をそぐ為の政策。
・引退後も、天皇家の家長として権力を持ち続ける。
・律令国家トップの天皇を抑え込むことで、国家そのものを掌握した。
・「治世の君」とよばれた。
・上皇の住まいや、本人を「院」と呼び、院から政治を指揮したため、院政という。

白河上皇が始め、鳥羽上皇、後白河上皇の時に[承久の乱]で終止符を打たれるまで、
1086年~1221年の136年ほど続いた。

白河上皇の院政は、自身の即位後わずか4年で、
8歳の息子「堀川天皇」に即位した時から、
堀川天皇の急死を受けて、孫の「鳥羽天皇」、
ひ孫の「崇徳天皇」までの3代天皇、43年間続いた。

※テスト頻出部分
・後三条がきっかけで、白河が院政を始めた。
・白河上皇が「堀川天皇」に譲位した。
・白河-鳥羽-後白河の3人の院の名前。
・白河院政が、もっとも長い期間。
・約136年程
・承久の乱で終わる


(2)院政の仕組み
【院】
上皇の住まいを院と呼ぶことから、上皇の政治を院制と呼ぶ。

院庁
院の仕事をする役所、政治機関。
天皇直轄で政治を執る内裏、朝廷より力を持つ。

院司(いんし) 】
院庁で政治をとる役人で、上皇が直接指名した為、村上源氏が多い。

院宣(いんせん) 】
天皇の私文命令書が「宣旨(せんし)」であるのに対して、
上皇の私文命令書が「院宣(いんせん)」である。

上皇からの直接の命令をうけた院司が出し、天皇の「宣旨」より効力が上。
私文書であるが、上皇の直接の意志として、「院庁下文」より格上で、効力が強い。

院庁下文(いんちょうくだしぶみ) 】
天皇が、太政官を通じて出す公式文書の「詔勅(しょうちょく)」に対して、
上皇が、院庁を通じて出す公式文書が「院庁下文」である。

天皇、内裏、朝廷、宣旨よりも、上皇、院庁、院宣、院庁下文の方が
権力と効力を持つよりになり、朝廷政治に大きな影響を与えていくようになる。

【院近臣(いんのきんしん)】
院の側近やとりまき連中で、摂関時代は四位、五位と身分の低い中~下級貴族だが、
乳母の縁故や、院への荘園寄進、経済奉仕などを通して台頭してきた。

ほとんどは大国の国司であったが、一部に有能な実務官人も含まれる。
政治を執るべき摂関家が没落し、院近臣が政治に割り込み、院の思うままに
なっていくことを『愚管抄』は嘆いている。
源平の武士など、院近臣の対立が、のちの[保元の乱]につながっていく。

※宣旨、院宣、院庁下文、任人折紙の区別をはっきりつけておくこと。

※院司と、院近臣の区別をはっきりつけておくこと。
院司は、院庁で働く役人で、院近臣は院の側近など、とりまき連中。



(3)父方尊属の皇位継承
摂関政治の頃は、天皇の母方の祖父(外戚=母方尊属)が統治したのに対し、
院制は、天皇の父方の祖父(父方尊属)である院が統治した。
その為、院は「治天の君」とよばれた。

白河院、鳥羽院は、この父方尊属を維持する為、
兄弟への横の譲位ができないよう、皇太子(東宮)の弟達を早くに出家させた。

(4)院制の財源確保
国府が集める通常の納税は朝廷に入るので、院は、独自の経済ルートをもっていた。

①院宮分国制
②院分国
③知行国
④院近親
⑤荘園
⑥寺院のとりこみ
⑦国司のとりこみ

①【院宮分国制(いんぐうぶんこくせい)】
院、女院、中宮、斎宮らの皇族の者に、特定の国を与える制度で、
その国からの収入を得る権利を持つ。

荘園の拡大による税収減で、その位に見合うだけの禄の給付が
難しくなった為、一国の支配権を与えたのが始まり。
これが、高級貴族にも広まり、知行国となっていった。
鎌倉時代に、院宮分国は、知行国と同一化する。

平城天皇----大和国を与える
宇多天皇----信濃国と武蔵国を持つ
鳥羽天皇の皇后、美副門院---越後国

②【院分国(いんぶんこく)】
院自身が、その国の支配権、収益を得る院の分国。
知行国主、国司は別にいて、公納物を院庁に収納する国。

③【知行国(ちぎょうこく)】
上級貴族を、「知行国主」として、一国の支配権を与え、
その国の収益を、国からの禄のかわりとして取得させたもの。
「知行国主」に選出されるよう、院に経済的奉仕を求めた。
※別途詳しく

④【院近臣(いんのきんしん)】
摂関時代は下級貴族だった、乳母の一族や、武士、大国の国司などが、
院からの「成功」「重任」を期待して、せっせと院にワイロをおくり、
荘園の寄進や経済奉仕をしたのが、院の財源の一部となった。
平清盛も、院近臣である。

「成功(じょうごう)」--------院より国司に任命されること。
「重任(ちょうにん)」--------国司に再任されること。

⑤【荘園】
「知行国」が国から与えられた支配地であるのに対して、荘園は私有地。
後三条天皇が荘園整理令を出したが、白河天皇~鳥羽天皇の時代には、
荘園の寄進がすすみ、院へ寄進が集中するなか、有力貴族や有力寺社への
寄進も増大していく。
  ↓
寄進を受けた院は、近親女性や信仰する寺社に、さらに寄進した。
  
鳥羽上皇が、娘の八条院に寄進した八条院領は、100箇所、
後白河法皇が、長講堂に寄進した、長講堂領は、180箇所あった。
  ↓
鳥羽上皇時代に、不輸不入の権が一般化され、警察権の排除にまで拡大されて、
荘園の独立性が、さらに高まっていく。

⑥【寺院のとりこみ】
院による「熊野詣」や「紀伊詣」が院の財源になるのは、当時の寺社が、
その地域のとりまとめ的立場で、地元であがる貿易、輸送、流通業務に
深くかかわり、莫大な商業収入があり、それを院に取り込んだ。
(その商業権は、のちに楽市楽座で奪われる)
※院と仏教の関係は、「14章-3」で詳しく

⑦【国司、受領のとりこみ】
国主導の公地公民では、国司が徴税や管理を請負い、莫大な収入を得ていたが、
藤原摂関家の荘園拡大、不輸不入の権の乱用により、収入源を断ち、
また地方での農民との衝突が絶えなくなり、藤原摂関-荘園時代にストレスを抱えた
国司が少なくなかった。

そこで、藤原家の権力をそぎ、荘園を公地に戻す、後三条-白河時代の政治を
国司、受領達は歓迎し、そうした国司達を取り込んでいく。

-----国司、受領が院政を歓迎した理由-----
・「延久の荘園整理令」での荘園の権利縮小と、公領の拡大
・「荘園公領制」による、公領と荘園の区別の明確化。
・国司、受領の権限の復活
・藤原摂関家の弾圧と人事権の剥奪
・低~中級貴族からの、積極的登用

(4)人事権の掌握
白河上皇の院制の強みは、なんといっても、人事権の掌握にあった。
次期天皇の指名権を持ち、院司、側近、国司受領レベルの人事まで掌握し、
かつて藤原摂関家が握っていた権力と資金源を、遥かなる権力で、院が握るようになる。

人事権を握ることで、院からの利益を欲する者達をとりこみ、
巨額のワイロを受け、任命した者の得る利益を、院が吸収していく。

任人折紙
上皇が希望する人事について書いたメモを、天皇や摂政に渡し、人事を指揮する。
メモ自体は私的文書であるが、院の直接的な意志として、重んじられた。
院からの指示を受ける私的な院御所の院司(職員)を、公的な太政官と
することで朝廷組織を掌握した。

藤原閑院流
白河院制に目だってきたのが、藤原新勢力の「藤原閑院流」で、
その代表が「藤原公成」であった。
藤原北家(摂関家)と、摂関職の座を争う。

村上源氏
白河上皇の妻、堀川天皇の母「藤原賢子」は、関白藤原師実の養女であるが、
村上源氏の代表格である「源顕房(あきふさ) 」の実娘である。

この「源顕房」を右大臣として、左大臣、左右近衛大将、
大納言5人中3人、衛府6人中5人を、村上源氏が占めた。

清和源氏
藤原純友の乱や、平忠常の乱の平定など、地方での朝廷への反乱を
鎮める追捕使や将軍として派遣するなどして、院政に必要な人材となっていく。

桓武平氏
清和源氏ほどめざましい活躍はなかったが、力を巨大化させる清和源氏の
対抗勢力として使われた。





山川 詳細日本史図録P83~84

















平安後期 15章-3 「72代白河院  つづき」

2014-03-03 | 平安時代
(1)なるべくしてなった院

43年間も院制を執った白河上皇であったが、実は、そこまで院制をしたくてがんばったわけでは
なく、時代の流れの中で、なるべくしてなっていった側面もあった。


【後三条天皇】
藤原道長時代真っ只中、天皇の氏名権を握る中、藤原家の外戚でない後三条が即位したのは、
「藤原頼通(よりみち)」の娘たちが、悉く、皇子を産まなかったために、後三条にまわって
きた結果であった。

【藤原家の血をひく白河天皇】
後三条の第一皇子である「白河天皇」の母は、藤原道長の孫娘にあたるので、
白河天皇は、外戚ではないものの、藤原摂関家の血をひく天皇であった。

父帝後三条は、白河天皇の後を、村上源氏系の母を持つ弟達にするよう、立太子させているが、
白河天皇は、この異母弟の立太子が気に入らなかった。

【父帝の急死】
父帝が、白河天皇の後見人であり、長く生きていれば、どこかのタイミングで、
村上源氏系の弟に譲位させられていたはずだが、その父帝が譲位後5年で急死し、
白河天皇は、自由に政治を執ることが出来るようになった。

【中宮賢子の急死】
寵愛していた中宮賢子が、急死する。
悲しみに明け暮れた白河天皇は、賢子の残した子供達を寵愛することに執着する。

【東宮の急死】
父帝が決めた東宮である弟、「実仁親王」が、当時流行の天然痘で急死する。
父帝の遺言通りであれば、下の弟を立太子させるべきを、約束を破棄し、
8歳の息子を立太子させると同時に、譲位し、白河系の天皇の筋道を立て、
息子「堀川天皇」の後見人として、院より政治を執り続けた。

【関白、藤原師実】
院制といっても、初期は藤原摂関家が、関白職を執り続けていたし、白河上皇も
それを認めていた。170年の伝統は、そう簡単には覆らない。

後三条即位と同時に、東宮であった「後三条」と「白河」をいじめていた
「藤原頼通(よりみち)」は引退し、息子の「藤原師実(もろざね) 」が、
白河-堀川時代の関白職に就いていた。
「藤原師実」は、堀川天皇の母「藤原賢子」の父とはいえ、養父であった為、
外戚になるほどの関係性はなかった。
藤原師実は、トラブルなく白河上皇の下で、堀川天皇を助けて政治を執っていた。

【関白、藤原師通】
堀川天皇が成人後、「藤原師実」は息子の「藤原師通(もろみち)」に関白職を譲り、引退。
「藤原師通」は政治的に有能な関白で、天皇成人後も口だしする白河上皇と距離をとりつつ、
堀川-藤原師通コンビで、政治を執っていたし、白河もそれを見守っていた。

だが、1099年に、「藤原師通」が急死することで、藤原摂関家は窮地に立たされる。
師通の息子「藤原忠実(ただざね)」は若干22歳で、政治的能力に乏しく、とても
摂関家に政治を任していられる状態ではなかった。

白河上皇は、この若き関白の業務的ミスに激怒し、藤原忠実の権限を2度も停止させている。
さらに、この「藤原忠実」から関白を後継した息子の「藤原忠通」もまた、政治的に
未熟であり、藤原摂関家は、実は自ら摂関職を台無しにした側面もある。

こうして、藤原摂関家が機能せず、天皇は若すぎて、白河上皇は政治の表舞台に
でざるをえなくなる。

【堀川天皇の急死】
1107年、堀川天皇が29歳の若さで急死する。

【孫、鳥羽天皇】
堀川の第一皇子「宗仁親王」は母を生後間もなく亡くし、白河上皇が引き取って
0歳で白河上皇の手によって立太子している。
だが、堀川天皇は、この立太子に反対であった。
その堀川天皇の死によって、鳥羽天皇は5歳で即位することとなり、祖父の
白河上皇が、がっちりと後見人として院から政治を執った。

【ひ孫、崇徳天皇】
5歳で白河の手によって即位した鳥羽天皇は、21歳で白河法皇の手によって、
譲位し、息子の「崇徳天皇」が即位する。

だが、崇徳天皇は、鳥羽天皇の嫁「待賢門院(たいけんもんいん)」が白河法皇と
不倫して出来た子であるとの噂があり、鳥羽は崇徳を「叔父子(おじこ)」と呼んで
避けていた。





平安後期 15章-3 「院制をはじめた天皇、72代白河天皇」☆

2014-03-03 | 平安時代
(1)第72代白河天皇

父「後三条天皇」が、藤原摂関家より嫌がらせを受ける不遇の東宮時代、
その子である貞仁(さだひと)親王こと白河天皇もまた、不遇の時代を送っており、
父同様の、打倒藤原摂関家の意志を強く引き継いでいた。
母は藤原系で、藤原公成の娘、藤原道長の孫娘の「藤原茂子」。

1068年、20歳で父帝より譲位、白河天皇として即位。
1073年、父帝後三条上皇、病死。
1081年、神社参りに、武士の護衛をつける
1083年、「後三年の役」始まる
1084年、中宮「賢子」死去
1085年、東宮で弟の「実仁親王(さねひと)」病死。
1086年、9歳の息子「堀川天皇」を立太子と同時に譲位、自身は院となり、院政を執る。
1087年、「後三年の役」終わる

1096年、溺愛の娘が病死、出家して「融観、白河法皇」として院制を続ける。 
1097年、源義家の昇殿
1099年、堀川天皇時世の関白「藤原師通(もろみち)」病死。

1107年、堀川天皇29歳で病死、孫の「鳥羽天皇」が5歳で即位。
1108年、平正盛が、源義親を討伐/延暦寺の強訴を源平両氏で防ぐ
1113年、平忠盛、夏焼大夫の討伐で出世
1115年、待賢門院が、天皇の中宮になる
1119年、平正盛、賊平真澄の追討で出世
1123年、ひ孫の「崇徳天皇」即位
1129年、白河法王、77歳で崩御   


(2)白河天皇まとめ
①院制をはじめる
②堀川天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の3代天皇で院制をとる。
③武士の起用---源氏(源義家)、平氏(平正盛)を側近とする
④鳥羽離宮を造営
⑤六勝寺の初めを作り、熊野詣など、仏教を信仰する
⑥南都、北嶺などの強訴多発

(3)院制
父帝後三条天皇の土台
藤原摂関家の権力を失墜させた後三条天皇は、僅か4年の在位で「白河天皇」に譲位する。

摂関政治が、天皇の母方尊属(外戚)による統治であったのに対して、
院政は、天皇の父方尊属にあたる、上皇(院)が統治した。
院は、天皇より強き存在として、「治天の君」とよばれ、
天皇はまるで東宮のごとき扱いであった。

父「後三条」からの早すぎる譲位は、、藤原摂関家の復権を阻止する為、
先帝が次の天皇の後見人として政治を執る、父方尊属の制度を敷いたものだとも考えられている。
白河天皇の後を、村上源氏系の母を持つ白河天皇の異母弟で2歳の「実仁親王」を東宮にすえ、
脱藤原外戚天皇の路線形成を図ったが、早くに病死する。

白河上皇の院制
1086年、わずか9歳の子を73代「堀川天皇」として譲位し、自身は院から政治の実権を握る。
堀川天皇の死後、その子で孫の74代「鳥羽天皇」の時も、院から政治を握り、
ひ孫の75代「崇徳天皇」までの3代天皇、43年間院制を執り続けた。

天皇即位争いを起こさせない為、東宮以外の兄弟は早くに出家させている。

白河上皇の43年間の院制に続き、
鳥羽上皇、後白河上皇と、院制は100年余り続くこととなる。

天皇、内裏、朝廷、宣旨よりも、上皇、院庁、院宣、院庁下文の方が
権力と効力を持つよりになり、朝廷政治に大きな影響を与えていくようになる。


(4)僧兵と、天下三不如意
平安時代も寺社の勢力、権力が強く、かつ各寺院には屈強な僧兵を囲い、
僧兵による強訴が度々あり、白河上皇を悩ませた。
特に 「山法師」とよばれる、比叡山延暦寺の僧兵は、勝手な理由に
かこつけては日吉山王社の神輿を担いで都に乗り込み、強訴を繰り返した。

平家物語の源平盛衰記』に、白河上皇が
鴨川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
と嘆いたという逸話がある。

これは、『天下三不如意』とよばれ、京都市内を流れる賀茂川の氾濫、すごろくの目と、
山法師=比叡山延暦寺の僧兵の3つは、自分の意図に従わないもの、
という意味。上皇の権力の大きさと、山法師への苦慮がうかがい知れる。


(5)『中右記』にみる白河上皇
中右記(ちゅうゆうき) 』とは、平安時代の右大臣「藤原宗忠」が、1087年~1138年に
書いた50巻から成る日記で、院制時代を詳しく伝えている。
白河上皇には反発的だが、堀川上皇には手厚くしてもらい、恩義を感じているらしい。

「白河法皇は、後三条院崩御後、天下の政をとること五十七年〈在位十四年、位を避りて後四十三年〉、
意にまかせ、法にこだわらず、除目・叙位を行い給ふ。
古今未だあらず。
威四海に満ち天下帰伏す。幼主三代の政をとり、斎王六人の親となる。
桓武より以来絶えて例なし。
聖明の君、長久の主というべきなり。
但し理非決断、賞罰分明、愛悪を掲焉とし、貧富顕然なり。
男女の殊寵多く、すでに天下の品秩破るなり」

白河上皇が、いかに型破りな人物であったかが、うかがい知れる。

(6)白河院と最愛の中宮、賢子
賢子(たかこ)は、源顕房の娘で、左大臣「藤原師実(もろざね)」の養女である。
白河天皇とは非常に仲睦まじく、深い寵愛を受けて、
2人の皇子と、3人の内親王に恵まれた。

しかし、賢子が28歳の時に流行していたはしかに感染し、病死する。
通常、病気になった中宮は、実家に引き取られるのが慣例だが、
白河天皇はそれを許さず、傍で病気の治癒を祈り、息をひきとる時も
賢子の手を握って見送り、その亡骸を3日3晩離すことはなかったという。

白河天皇は、悲観のあまり、政治や公式行事に出ることもなく、
法勝寺に阿弥陀仏と常行堂を建立し、ひたすら賢子の供養に勤めていた。

(7)息子への譲位にこだわる白河天皇
中宮賢子の死の翌年、弟で皇太子の「実仁(さねひと)親王」が病死すると、
白河天皇は、精力的に動き出した。

父帝「後三条天皇」の遺言では、天皇譲位は兄弟の順に継ぐよう言い渡されてあり、
皇太子は、弟の「実仁親王」が父帝によって立てられていた。
その皇太子が亡くなった場合、本来はその下の弟である「輔仁親王」を皇太子とする
はずであったが、白河天皇は先帝との約束を破棄してそれを許さず、
8歳の息子の「善仁(よしひと)親王」を、立太子と同時に、堀川天皇として譲位した。

堀川天皇は、中宮賢子の子である。

(8)側近を固める
白河上皇は、堀川天皇の後見人として、院から政治を執る仕組みを作った。
当時の摂政は、中宮賢子の養父「藤原師実」であったが、養父は外戚に当たらないとして、
摂政藤原家を軽んじた。

院庁別当には、左大臣:大江匡房
大納言:白河上皇の母方の叔父、藤原実季(さねすえ)など、
上皇の近親者や、乳母の近親者5人を含んだ。

さらに、近臣として、乳母の関係者を取り立てたり、
親衛隊として、「北面の武士」を組織して、身辺警護にあたらせた。

こうした、身分の階級に拘らず、白河上皇の気持ち1つで動く院の政治に
対して、人々は敏感に反応し、我先にと白河上皇に贈り物(賄賂)を贈った。
平正盛も、うまく白河上皇にとりいった一人である。

(9)鳥羽離宮
白河上皇は、陸路と水路の交わる、朱雀大路の真南の位置に、
新しい都を作って、移り住んだ。その地を「鳥羽離宮」と言う。


(10)女堤子内親王と祇園女御
白河上皇は、中宮賢子の忘れ形見として、第一皇「女堤子ていし(やすこ)内親王」を、
他の皇子、皇女とは別として深く寵愛し、郁芳門院(ゆうほうもんいん)の称号を与えた。

しかし、1096年、京都中が田楽に狂っている最中、田楽が大好きだった女堤子内親王
が急死した。白河上皇の落胆は激しく、剃髪出家するほどであった。

出家後の白河法王は、放蕩三昧に明け暮れ、人妻であった「祇園女御」を寵愛するように
なり、妃や中宮にも劣らぬ権威を振るうようになる。

(11)待賢門院璋子

祇園女御を寵愛していた白河法王は、「藤原公実」に美しい娘が生まれたと知り、
祇園女御の養女として貰い受けた。
しかし、法王はその幼女である「待賢門院璋子」を懐に入れて寝る程の寵愛ぶりで、
後に、白河法皇と待賢門院璋子の関係は、公然たる秘密となっていく。

のちに璋子を、孫の「鳥羽天皇」の妻として入内させるが、入内後も法王との
関係は続いたとみられ、璋子の産んだ「顕仁親王、のちの崇徳天皇」のことを、
夫の鳥羽天皇は「叔父子(おじこ)」と呼んで嫌い、のちの天皇系統に影響を及ぼしていく。




平安後期 15章-2  「延久の荘園整理令」☆

2014-03-02 | 平安時代
(1)それまでの荘園整理令
過去、何度荘園整理令を出しても、朝廷の藤原摂関家が骨抜きにしてしまい、
残ったわずかな公地に、重税を課す為、農民が荘園に逃げ出し、
政府の財源は常に逼迫した状態であった。


902年------醍醐天皇の『延喜の荘園整理令』
      ・最初の荘園整理令
      ・勅旨田の禁止
      ・院宮王家の荘園の原則禁止
      ・ただし「券契(証拠書類)」があり、国務の妨げにならないものは公認する。

1040年------「長々の荘園整理令」国司らが団結して荘園停止を訴えるが、失敗
1045年------後冷泉天皇の『寛徳の荘園整理令』
       ・以後の荘園整理令の基準になる
       
1065年------「治暦の荘園整理令」
  ↓
1069年------後三条天皇の『延久の荘園整理令』

(2)延久の荘園整理令

延久の荘園整理令の特徴
①「大江匡房」が発案し、後三条天皇が公布した、荘園整理令。
②藤原摂関家の排除
③記録所の設置
④宣旨枡の公布
⑤厳しい審査基準
⑥国司の権限の強化
⑦有力貴族、有力寺社も免除なしの審査
という特徴がある。
⑧『愚管抄』に荘園整理令の記述あり

・今までの荘園整理は、国司に委ねられていた為、摂関家の権力に逆らえず、
また任期切れが近づくと、国司免判を乱発して財をなす者もいて、実効があがらなかった。
・審査員に、藤原摂関家の者を入れなかった。


【3つの令】
(1)寛徳二年(1045)以降の新立荘園は全て停止。
・1045年を基準としたのは、時の関白「藤原頼通」が荘園整理を行った年なので、
一応顔を立てて、それ以降のものを審査対象とした。

(2)1045年以前のものであっても、立券不分明なもの、立券荘号の書類がそろってないものは全て停止。
・審査官から藤原家を外し、天皇側近者とする。
・荘園領主には、証拠書類の提出を義務づける。
・国司からも、報告書をあげさせる。
・藤原摂関家、有力寺社荘園も、審査対象とし、特権をゆるない。
・設立の手続きに不備不明がある荘園は、没収。

(3)二つの条件を満たしていても、国司が妨げになると判断したものは停止。
・国司の権力の強化

記録荘園券契所
・略して「記録所」という機関を中央に設置し、荘園の認可をする機関。

それまで国司まかせだった荘園存続についての審査を、中央政府機関でするようになった。
実務に当たった官人には、後三条天皇のブレーンで、受領経験者の「大江匡房」を中心に、
受領出身の学識者や、反摂関の貴族を任命した。
 荘園所有者に提出させた「券契(荘園が認可された根拠となる書類)と、実態を調べて、
存続審査をした。

岩清水八幡宮などの大神社の荘園や、藤原摂関家直轄荘園、
1045年の後冷泉天皇の荘園整理令以前からある荘園など、
今までアンタッチャブルであった荘園にもメスが入った。

延久の宣旨枡(せんじます)
「斗枡法(としょうほう)」を公布し、「度量衡の統一」として、国家公定の統一基準を公布した。
この枡の基準は、太閤検地でも使用された。



(3)荘園整理令の効果
○荘園と、公領の区別がつくようになった。
○公領が増えた
○藤原摂関家の勢力を抑え、天皇が復権した。

これにより、国務の妨げとなる私有荘園を没収し、
藤原摂関家と、天皇の立場が逆転した。

のちの12世紀に、鳥羽院政期に「荘園公領制」へと続く。

当時の関白である「藤原頼通」の荘園は大目に見たが、
それ以外の摂関家領荘園は、厳しく整理された。


(4)国内新区分と在庁官人
人頭税から、土地税に変わったのを受け、国内区分を、>郡、郷、保
にわけ直し、
それぞれ地方の退官した元国司や、地元有力者などを郡司、郷司、保司に任命し、
国司の下で、国衙の在庁官人として、担当地区の徴税をさせた。

※国司と在庁官人のちがいは?
国司は、元々京に住む高級官人が任命され、国の支配者階級となる。
在庁官人は、地元有力者を、国衙の職員として雇用すること。
国司が天下りの県知事とすれば、国衙は県庁で、在庁官人はコネで入った地元の職員、のようなもの。


山川 詳細日本史図録P82







平安後期 15章-1 「摂関家を失墜させた、71代後三条天皇」★

2014-03-01 | 平安時代
(1)第71代 後三条天皇
藤原氏の勢力をそぎ落とした、天皇復権の光

【後三条天皇と、藤原摂関家年表】
藤 1017年-----後一条天皇即位/藤原道長が、息子の頼通に摂関職を譲る
原 1036年-----後朱雀天皇即位
栄 1045年-----後冷泉天皇即位
華       (後三条が即位できないよう、24年間東宮にとどめられる)

後 1068年-----後三条天皇即位/関白藤原頼通引退
三 1069年-----「延久の荘園整理令」
条 1072年-----こ価法、斗枡法(宣旨枡)/白河天皇に譲位
時 1073年-----院蔵人所を設置/後三条院死去   

【後三条天皇の経歴】
後朱雀天皇の第2皇子で、母は三条天皇の娘「禎子内親王」。
先帝である「70代後冷泉天皇」の、母違いの弟である。

後冷泉天皇に皇子が生まれず、また後三条に嫁がせた藤原家の娘達にも皇子ができず、
藤原家の外戚による摂関政治が、ここで終焉する。

後三条天皇の即位は、藤原摂関家にとっては、大変ショッキングなことであった。
それは、宇多天皇以来、171年ぶりの、藤原家を外戚としない天皇であったからである。

しかも、後三条天皇こと「尊仁親王」は、23年という長い東宮時代を経て、
即位した為、即位時33歳で、摂関を必要としなかった。
東宮時代に、時の摂政関白である「藤原頼通よりみち」は、尊仁親王(後三条)
の即位を阻もうと、長年にわたり、数々の嫌がらせをしてきた。
(皇太子が継承するはずの秘宝・[壷切御剣つぼきりのみつるぎ]を渡さない等)


だが、嫌がらせにもめげず、その間、打倒藤原摂関家を掲げ続けた「尊仁親王」は、
1068年、後三条天皇として即位した。
同時に、「藤原頼通」は失意のうちに摂関を辞め、関白職を弟の「藤原教通のりみち」に譲る。

「たけき御心にて おはしまし」と称される気の強い後三条天皇は、
その才能と行動力を如何なく発揮して、藤原摂関時代を終わらせ、天皇親権を取り戻した。

【譲位】
後三条天皇は、わずか4年で息子の「白河天皇」に譲位し、翌年40歳で崩御した。
早い譲位は、藤原摂関家の勢力を押さえ込むため、自身が息子の後見人となるつもりで
あったのでは、と考えられている。


【後三条天皇まとめ】
・藤原摂関家の、外戚ではない。
・成人してからの即位だったので、独自政治を執れた。
・東宮時代、藤原摂関家から嫌がらせを受け続けて、打倒藤原だった。
・本人が非常に気が強い。
大江匡房という優秀ブレーンがいた
藤原摂関家を排除し、自身の気に入った役人を登用した。
「延久の荘園整理令」を出した。
宣旨ます を作った。

(2)役人の登用
それまでの朝廷の役人は、代々藤原摂関家で占めていたが、
後三条天皇は、自身の東宮時代を支えた反藤原勢力者を登用した。

学者の大江匡房(おおえまさふさ)は、
『延久の荘園整理令』を発案した、後三条天皇の側近中の側近である。

他には、「藤原実頼」、「藤原能信」や村上源氏の「源師房」「源経長」らがいる。


(3)延久の荘園整理令

「大江匡房」が発案し、後三条天皇が公布した、荘園整理令。(詳しくは次項)

当時の寺社や貴族、豪族の大きな収入源であり、権力の基盤である荘園にメスを入れ、
容赦なく荘園を没収したことで、強大な藤原摂関家の勢力を収入基盤から崩していった。

((5)国内新区分と在庁官人
人頭税から、土地税に変わったのを受け、
国内区分を、郡、郷、保にわけ直し、
それぞれ地方の退官した元国司や、地元有力者などを郡司、郷司、保司に任命し、
国司の下で、国衙の在庁官人として、担当地区の徴税をさせた。

※国司と在庁官人のちがいは?
国司は、元々京に住む高級官人が任命され、国の支配者階級となる。
在庁官人は、地元有力者を、国衙の職員として雇用すること。
国司が天下りの県知事とすれば、国衙は県庁で、在庁官人はコネで入った地元の職員、のようなもの。