れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
☆は山川出版「詳細日本史研究」に対応しています。

平安後期 15章-16 「源平の争い・後編」

2014-03-16 | 平安時代
(1)鎌倉に本拠地をおく源氏
関東一円の豪族、武士団を配下においた源氏の棟梁「源頼朝」は、
鎌倉に本拠地をおき、そこから戦いの指揮をとった。

[富士川の戦い]の時に、[平治の乱]で生き別れた異母弟の「源義経」
が駆けつけていた。
源頼朝は、自分は動かずに、弟の「源範義(のりよし)」と「源義経」を
出兵させて、平氏と戦う戦法をとる。

(2)源義仲と、倶利伽羅峠の戦い
1183年、平清盛の死後に平氏を継いだ「平惟盛(これもり)」は、
10万の大軍で、源義仲の追討に出た。

当初こそ平氏軍が押していたが、源義仲の策で、越中(富山県)の
倶利伽羅峠(くりからとうげ)に追い込まれたうえ、奇襲を受けて大敗北をきっした。
源義仲の奇襲とは、松明を角につけた牛の大群に、平氏軍を負わせて、
谷底に追い落としすものであった。

大打撃を受けた平氏は、源義仲が京に追ってくる前に、
三種の神器と、安徳天皇を連れて、京を出て西国へ逃げた。

(3)源義仲の追討
平氏の大軍を破った勢いで京に入った「源義仲」の一行は京の都で略奪などの乱暴狼藉を
働き、「後白河法皇」と対立して、半ば強制的に自分を征夷大将軍に任命させた。
当初、後白河法皇は源義仲に平氏追討を命じていたが、[水島の戦い]で平氏に大敗し、
後白河法皇は、源義仲を見限り、鎌倉の源頼朝に、東海道・東山道の支配権を譲るかわりに、
源義仲を討つよう命じた。
源義仲は、頼朝の命を受けた「源義経」に討たれて、朝日将軍と揶揄された。

(4)一の谷の戦い
源氏が内乱を制していた頃、平氏は西国で力を盛り返し、福原の旧都に陣を構えて、
京を狙うまでになっていた。

後白河法皇は、平氏が持ち逃げした三種の神器の奪還と、平氏討伐を計画し、
平氏へは休戦の命令と講和の手紙を出して、平氏に大幅な武装解除をさせて気を緩ませておき、
一方で、鎌倉政権の源氏を使って、平氏へ大規模な軍を派遣した。

平氏追捕の任を受けた「源範頼」は5万の大軍を率い、「源義経」は1万の小軍をつれて、
摂津の福原に向かった。
源義経は、山道をすすみ、ひよどり峠でさらに軍を分けて、僅か70騎の小隊で、
平氏の陣の裏手の山道をすすんだ。

途中、武蔵坊弁慶が地元の狩人の青年に道案内を頼み、一の谷の裏まで到達する。
道案内の者が「この崖は人馬は超えれません」と言ったが、
義経は「鹿が通えるのなら、馬も通えよう」と言い、
断崖絶壁の崖をくだり降り、平氏の陣へ背後から突撃した。

驚いた平氏は、ちりぢりの海へ逃げたが、源氏軍の「熊谷直実(くまがやなおざね)」が
平氏の大将に「敵に後ろをみせるのか」と問うと、引き返して対峙した。
しかし、熊谷が汲み取り、首を取ろうと敵の顔を見ると、まだ16歳の平敦盛であった。
熊谷にも、同年代の息子がいたが、泣く泣くその首を斬り、後に手厚く供養したという
逸話も残っている。

源義経の奇襲作戦の前に、後白河法皇による作戦が敷かれており、
後白河の作戦勝ちによる勝利が大きい。
この戦いで、平氏は大打撃を受けるが、三種の神器の奪還は失敗に終わる。


(5)屋島の戦い
[一の谷の戦い]のあと、平範頼は鎌倉に帰り、功績を認められて出世した。
源義経は、平氏の逆襲を恐れる京の法皇や貴族の依頼もあり、京に残って、
都の軍事と治安維持を請負い、後白河法皇から検非違使に任命され、昇殿も許される
ほどに、法皇の信頼を得ていた。

この後、義経は平氏討伐から外されるが、
源頼朝が、義経が自分の許可を得ずに出世したことに怒って、平氏討伐軍から外したとの説と、
在京貴族や法皇の依頼で、京の守備に就かせたという説がある。

平氏は、四国の讃岐屋島を本拠地として、内裏を置く。
後白河法皇の命を受けて、源範頼が屋島を攻めようとするも、水軍の調達が出来ぬまま、
軍は疲弊していった。そこで、源義経に平氏討伐の命がくだった。
義経は水軍の調達をすませ、船頭も嫌がる暴風雨の中を僅か5隻、150騎で四国に渡り、
陸側から屋島を攻めた。
平氏は海側からの攻撃に備えていたため、陸側の攻撃にひるみ、海に逃げる。
夕刻の休戦時、平氏側より、美女の乗った1隻の小船が進み出て、竿先の扇子に弓を射よと
挑発した。
これを源氏側の「那須与一」が切腹覚悟で見事射止め、源氏も平氏もやんやの大騒ぎであった。
しかし、鎌倉方より援軍が到着し、再び合戦となり、平氏は壇ノ浦へ逃げることなる。


(6)壇ノ浦の戦い

1185年4月、屋島を追われた平氏は、山口県の関門海峡、壇ノ浦での決選の準備を進め、
大型唐船に兵を乗せ、安徳天皇や女御らを小舟に乗せて源氏の水軍を待ち受ける。

関門海峡は潮の流れが早く、海流を知り尽くした平氏は、海流に乗って源氏を責めた。
だが、潮の流れが反転すると、今度は源氏が平氏を激しく責め、平氏は壊滅状態となる。
勝負がついた事を悟った「平知盛」は、安徳天皇の乗る小舟に乗り移った。
「二位尼」は安徳天皇を抱きかかえ、三種の神器を持って、海に身を投げた。
「建礼門院」や他の平氏達も後に続いて海に身を投げたが、建礼門院は源氏によって
助け出され、捕虜となる。
三種の神器のうち、鏡と勾玉は回収できたが、宝剣は、海に沈んでしまった。


(7)戦後

壇ノ浦で平氏を壊滅し、建礼門院や平氏の捕虜を連れて凱旋した「源義経」を、
後白河法王は大歓迎し、義経とその御家人を任官した。

「源範頼」と「梶原景時」は九州に残って、平氏残党の処理をしていた。

源義経は、任官の件や、梶原景時からの密告の手紙によって、「源頼朝」の
怒りを買って、対立を深めていくことになる。



※ユーチューブ【NHKその時歴史が動いた・壇ノ浦の戦い】