(1)空也
醍醐天皇時代から続く、天変地異や、平将門の乱などが続く物騒な世の中で、
「空也」は奈良時代の行基のように、各地を歩き、庶民に仏法を説き、
感慨施設などの土木工事を手伝い、人々の信仰を集めていった。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、というわかりやすい仏法は、
庶民達に受け入れられ、常に市に立った空也を「市聖(いちのひじり)」と呼んだ。
比叡山延暦寺で戒を受け、963年に加茂川の川原で大般若経を供養し、万燈会を催した。
961年ごろ、京都に「西光寺(さいこうじ)」を建てて住み、ここで一生を終えている。
西光寺は、後に「六波羅密寺(ろくはらみつじ)」と呼ばれ、京都の東山のふもとにある。
この寺には、鎌倉時代に彫刻家「運慶」の弟子「康勝(こうしょう)」という人が、
『空也上人像』を作っている。
これは、空也の口から南無阿弥陀仏の5文字が小さな阿弥陀仏となって出ている姿である。
(2)源信
空也に続いて現れたのは、「源信げんしん」であった。
源信は「恵心僧都えしんそうず」とも呼ばれた、奈良県出身の人である。
比叡山で天台宗を勉強し、『往生要集おうじょうようしゅう』という書物を書いた。
この本は、この世で良い行いをした人が、極楽へ行けるという浄土教の教えを理論的に
まとめ、またなぜ南無阿弥陀仏を唱えるのか、なども書かれてあり、
後の仏教に大きな影響を与えた。
中国に送られて、中国でも愛読されたという。
混沌とした「末法」の世で、救いの道しるべとして、受け入れられていく。
藤原氏の鳳凰堂の極楽浄土信仰は、空也や源信がひろめた「浄土教」の影響を受けている。
(3)末法思想
末法思想とは、平安頃に流行った思想で、仏教の一つの考え方から出た予言的なものである。
この世は、ある時期から世が乱れ、救いのない悪国の時代が始まる、というものである。
釈迦が死んでから1000年間は正法として人々は幸福の時代、
次の1000年間は像法といい、まだ釈迦の力が残っていて、
この2000年が過ぎると、1万年は末法という、仏の救いのない時代になる思想。
実際、末法突入といわれた1052年頃から、地震噴火、天変地異、飢饉が起こり、
いよいよ現実のことと、信じられるようになり、人々は死後の極楽に思いを馳せる
ようになっていく。
文化、芸術面でも、来迎図など極楽浄土信仰の思想が見える。
醍醐天皇時代から続く、天変地異や、平将門の乱などが続く物騒な世の中で、
「空也」は奈良時代の行基のように、各地を歩き、庶民に仏法を説き、
感慨施設などの土木工事を手伝い、人々の信仰を集めていった。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、というわかりやすい仏法は、
庶民達に受け入れられ、常に市に立った空也を「市聖(いちのひじり)」と呼んだ。
比叡山延暦寺で戒を受け、963年に加茂川の川原で大般若経を供養し、万燈会を催した。
961年ごろ、京都に「西光寺(さいこうじ)」を建てて住み、ここで一生を終えている。
西光寺は、後に「六波羅密寺(ろくはらみつじ)」と呼ばれ、京都の東山のふもとにある。
この寺には、鎌倉時代に彫刻家「運慶」の弟子「康勝(こうしょう)」という人が、
『空也上人像』を作っている。
これは、空也の口から南無阿弥陀仏の5文字が小さな阿弥陀仏となって出ている姿である。
(2)源信
空也に続いて現れたのは、「源信げんしん」であった。
源信は「恵心僧都えしんそうず」とも呼ばれた、奈良県出身の人である。
比叡山で天台宗を勉強し、『往生要集おうじょうようしゅう』という書物を書いた。
この本は、この世で良い行いをした人が、極楽へ行けるという浄土教の教えを理論的に
まとめ、またなぜ南無阿弥陀仏を唱えるのか、なども書かれてあり、
後の仏教に大きな影響を与えた。
中国に送られて、中国でも愛読されたという。
混沌とした「末法」の世で、救いの道しるべとして、受け入れられていく。
藤原氏の鳳凰堂の極楽浄土信仰は、空也や源信がひろめた「浄土教」の影響を受けている。
(3)末法思想
末法思想とは、平安頃に流行った思想で、仏教の一つの考え方から出た予言的なものである。
この世は、ある時期から世が乱れ、救いのない悪国の時代が始まる、というものである。
釈迦が死んでから1000年間は正法として人々は幸福の時代、
次の1000年間は像法といい、まだ釈迦の力が残っていて、
この2000年が過ぎると、1万年は末法という、仏の救いのない時代になる思想。
実際、末法突入といわれた1052年頃から、地震噴火、天変地異、飢饉が起こり、
いよいよ現実のことと、信じられるようになり、人々は死後の極楽に思いを馳せる
ようになっていく。
文化、芸術面でも、来迎図など極楽浄土信仰の思想が見える。