れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
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平安中期 13章-7 「空也と源信」

2014-01-07 | 平安時代
(1)空也
醍醐天皇時代から続く、天変地異や、平将門の乱などが続く物騒な世の中で、
「空也」は奈良時代の行基のように、各地を歩き、庶民に仏法を説き、
感慨施設などの土木工事を手伝い、人々の信仰を集めていった。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、というわかりやすい仏法は、
庶民達に受け入れられ、常に市に立った空也を「市聖(いちのひじり)」と呼んだ。


比叡山延暦寺で戒を受け、963年に加茂川の川原で大般若経を供養し、万燈会を催した。
961年ごろ、京都に「西光寺(さいこうじ)」を建てて住み、ここで一生を終えている。

西光寺は、後に「六波羅密寺(ろくはらみつじ)」と呼ばれ、京都の東山のふもとにある。
この寺には、鎌倉時代に彫刻家「運慶」の弟子「康勝(こうしょう)」という人が、
『空也上人像』を作っている。
これは、空也の口から南無阿弥陀仏の5文字が小さな阿弥陀仏となって出ている姿である。



(2)源信
空也に続いて現れたのは、「源信げんしん」であった。
源信は「恵心僧都えしんそうず」とも呼ばれた、奈良県出身の人である。
比叡山で天台宗を勉強し、『往生要集おうじょうようしゅう』という書物を書いた。
この本は、この世で良い行いをした人が、極楽へ行けるという浄土教の教えを理論的に
まとめ、またなぜ南無阿弥陀仏を唱えるのか、なども書かれてあり、
後の仏教に大きな影響を与えた。
中国に送られて、中国でも愛読されたという。

混沌とした「末法」の世で、救いの道しるべとして、受け入れられていく。
藤原氏の鳳凰堂の極楽浄土信仰は、空也や源信がひろめた「浄土教」の影響を受けている。



(3)末法思想
末法思想とは、平安頃に流行った思想で、仏教の一つの考え方から出た予言的なものである。
この世は、ある時期から世が乱れ、救いのない悪国の時代が始まる、というものである。

釈迦が死んでから1000年間は正法として人々は幸福の時代、
次の1000年間は像法といい、まだ釈迦の力が残っていて、
この2000年が過ぎると、1万年は末法という、仏の救いのない時代になる思想。

実際、末法突入といわれた1052年頃から、地震噴火、天変地異、飢饉が起こり、
いよいよ現実のことと、信じられるようになり、人々は死後の極楽に思いを馳せる
ようになっていく。
文化、芸術面でも、来迎図など極楽浄土信仰の思想が見える。



平安中期 13章-6 「摂関時代終盤 69代後朱雀、70代後冷泉天皇」

2014-01-06 | 平安時代
(1)第69代 後朱雀天皇
藤原摂関家の外戚の縁を切った天皇

先帝で兄の「後一条天皇」と同じ、一条天皇と、藤原道長の娘「彰子」の第3皇子。

当初、「後一条天皇」の東宮は、三条天皇の子「敦明親王」であったが辞退、
道長によって、後一条の弟の「敦良親(のちの後朱雀天皇)」が立太子された。

子に恵まれなかった先帝「後一条天皇」と違って、後朱雀天皇は東宮時代から
子をもうけており、道長の6女「嬉子」との間に、のちの「後冷泉天皇」を、
三条天皇の娘「ネ貞子内親王」との間に、のちの「後三条天皇」をもうけていた。

しかし、藤原家の娘「嬉子」は、産後2日で死亡しており、
中宮の座についたのは、藤原家の娘でない「ネ貞子内親王」であった。
(ネ貞子内親王は、道長の孫に当たるが、これでは藤原家が外戚にはならない)


【藤原頼通の画策】
そこで、道長から関白職を受け継いでいた、長男「藤原頼通」や弟「藤原頼宗」が
娘や養女を、後朱雀天皇に入台させるも、ついに皇子は誕生することはなかった。
この、娘が皇子を生まない、ということが、藤原摂関家の崩壊を決定づけることとなる。


後朱雀天皇自身は、藤原摂関家の傀儡天皇であった。

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(2)第70代 後冷泉天皇
藤原摂関家最後の天皇

先帝「後朱雀天皇」と、藤原道長の娘「嬉子」の子で、道長の外孫にあたる。
1045年に即位。

後冷泉天皇は、宮中で蹴鞠や歌合せなどの遊興の日々を送り、政治を執ることはなかった。
当時政治の実権を握っていたのは、道長の息子達で、
長男「藤原頼通」が関白・左大臣、
次男「藤原教通」が右大臣、
異母兄弟の「藤原頼宗」が補佐に当たっていた。

在位中、陸奥国で「前九年の役」が起こっている。

次に譲位した異母弟の「後三条天皇」が、藤原摂関家の権力を失墜させるため、
170年近く続いた藤原摂関時代、最後の天皇となった。





平安中期 13章-5 「道長時代の天皇達、67代三条・68代後一条天皇」

2014-01-05 | 平安時代
(1)第67代 三条天皇
【道長の圧力に屈した失明の天皇】

冷泉天皇と、藤原兼家の長女:超子の子で、冷泉天皇の第2皇子。
父は精神病、母は7歳で亡くなり、後ろ盾は薄弱であったが、外祖父:藤原兼家に容姿がそっくり
であったため、兼家の寵愛を受けて育った。

一条天皇は兼家の孫、であり、もう一人の孫である「居貞おきさだ親王=三条天皇」も東宮にしたい
兼家の後押しで、11歳で立太子する。
一条天皇より4歳年上であった為「さかさの儲けの君」と呼ばれていた。

1011年、一条天皇の崩御を受けて、36歳で即位。
すでに中宮も多くの皇子もいたが、道長は次女:妍子(けんし)を中宮にたてて、再度1帝2后とした。
しかし、妍子(けんし)が女児「禎子内親王」しか生まなかったこと、三条天皇が先の后を優遇したこと、
天皇親権を望んだことなどから、道長と対立した。

三条天皇が、仙丹(不老長寿の薬といわれるが、水銀などが入り人体に有毒といわれる)を飲んだ直後
に失明し、道長は、眼病を理由に、再三譲位を迫り、圧力に屈する形で譲位する。

三条天皇は、譲位の条件に息子の「敦明親王」を東宮にするよう約束したが、
道長に嫌がらせと圧力に屈して、東宮辞退した。


(2)第68代 後一条天皇
【藤原道長の絶頂期の天皇】

藤原兼家の絶頂期を支えた一条天皇と、道長の娘彰子の子で、道長の孫にあたる。

道長にとって、初の天皇外戚をもたらす男子の誕生に、狂喜乱舞したという。
その後一条天皇(敦成親王)を即位させるため、道長は三条天皇を天皇からひきずりおろした。

9歳で即位した後一条天皇は、摂政で祖父である道長に従うだけの、覇気のない傀儡であった。

道長の娘で、自身の叔母にあたる「威子」を中宮としたが、皇子をもらけないまま29才で病死した。



平安中期 13章-4 「摂関時代の天皇達、64代円融・65代花山・66代一条」

2014-01-04 | 平安時代
(1)第64代 円融天皇

【藤原摂関家に翻弄された天皇】
円融天皇は、第62代村上天皇の第5皇子で、第63代冷泉天皇と同じ母をもつ弟。
母は、藤原師輔の娘「安子」。

同母兄の「為平親王」が、源高明の縁者であることから、藤原摂関家は為平親王を遠ざけ、
円融が皇太子となった。その後[安和の変]で、源高明は失脚させられる。

冷泉天皇の寄行による退位で11歳で即位し、大叔父「藤原実頼」が摂政となる。
実頼亡き後、藤原師輔の長男「藤原伊尹」が摂関の跡を継いだ。
伊尹亡き後は、その弟の「兼通」その死後は弟の「兼家」が引き継いだ。

兼家とは折り合いが悪かったが、兼家の娘「詮子」との間にのみ皇子「懐仁親王=
のちの一条天皇」が生まれていた為、次第に権力は兼家に傾いていく。

円融時代は、徹底して藤原氏の摂関地位争いが続き、その争いに巻き込まれた形で、
花山天皇に譲位する。

(2)第65代 花山天皇

【藤原摂関家の策略で出家させられた天皇】
冷泉天皇と、藤原伊尹の娘の子で、外祖父藤原伊尹の力によって、生後10ヶ月で立太子、
17歳で即位し、19歳で退位している。

父、冷泉天皇の血のゆえか、花山天皇も乱心の振る舞いがあったと言われ、
その一方、優れた芸術の才能があったとも伝えられる。
後ろ立ての伊尹は、摂政1年で死亡している。

退位は、寵愛していた女御が懐妊中に亡くなり、失意に沈んでいる時に、
藤原兼家の次男:藤原道兼が、花山を騙して出家させ、兼家の孫である
「懐仁親王=のちの一条天皇」に強制譲位させた。
花山がこの策略に気付いた時は、あとの祭りであった。


(3)第66代 一条天皇

【藤原兼家の栄華と、平安宮廷文化を開花させた天皇】
64代円融天皇と藤原兼家の娘「詮子」の子で、円融天皇唯一の皇子である。

兼家が、外戚となる手がかりになる孫であり、兼家-兼道親子による花山天皇出家の策略で、
7歳で即位する。摂政は、当然外祖父の「藤原兼家」。

一条天皇の身辺は、栄華の絶頂を極めんとする藤原北家(兼家一族)で固められ、
父兼家の死後は、長男:道隆、次男:道兼、三男:道長が内覧の地位を継いでいる。

一条天皇には、はじめ藤原道隆の娘「定子」が中宮としていたが、
藤原兼家の娘「彰子」を後から中宮として入内させた。

定子には「清少納言」がつき、『枕草紙』を、
彰子には「紫式部」がつき、『源氏物語』を書き上げ、宮廷女流文化が花開いた。


















平安中期 13章-3 「藤原道長の栄華」☆

2014-01-03 | 平安時代
(1)藤原道長の家系

藤原摂関家の「藤原兼家」には、3人の息子と、2人の娘がいて、その末っ子が
道長であった。

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(2)道長の子供達
967年、道長は、当時の左大臣「源雅信」の娘「倫子」と結婚する。
当時、まだ若く、身分が低かった道長との結婚を、源雅信は反対だった。
左大臣の娘といえば、天皇の女御にもなれる立場であったからだ。

道長と倫子は、4人の女子、2人の男子をもうける。

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(3)道長の氏の長者への道

【氏の長者とは】
氏の長者とは、名門の家のトップで、官職、氏として所有する荘園、邸宅、
氏神(春日大社)、氏寺(興福寺)などを伝領、管理する権力を持つ。

【父の影響、スピード出世】
968年、道長が権中納言へスピード出世した。
これは、摂政である父「兼家」が息子達の身分を、露骨にひきあげたからで、
摂関家の子のスピード出世は、この頃から激化する。

【長男道隆の時代】
990年、父「兼家」没。
長男「道隆みちたか」が摂政を継ぎ、道隆は娘「定子」を一条天皇の中宮とし、
息子「伊周これちか」を20歳の若さで権大納言として、
弟「道長」より出世させて、長男道隆の一族で朝廷を固めようとした。

【次男道兼の7日関白】
995年、疫病(はしか)が空前の勢いで蔓延する中、長男「道隆」が糖尿病で死亡。
道隆の息子「伊周」が摂政を継ぐ気でいたが、国母である「東三条院詮子」が、
一条天皇に直談判し、兄弟で順に摂関職を継ぐよう交渉した結果、
次男「道兼」が摂政となった。

しかし、その次男「道兼」は、関白就任時には、すでに疫病感染しており、
関白就任後7日目に死んでしまった為、「7日関白」と揶揄された。


【三男道長の時代到来】
道兼の次の関白を、「伊周」は一条天皇の妻の兄という立場から狙っていたが、
ここでも、一条天皇の母、道長の姉である「詮子」の発言力で、
道長が次の関白の座を射止めた。
兄2人が病死したことで、三男だった道長に、摂関の地位が回ってきた。


(3)道長の栄華

【道長、内覧に就任】
995年、道長に『内覧』の宣旨がくだされた。
地位は摂関と同格であるが、政治的立場として、外戚になるまでは
内覧の方が都合がよかったものと考えられる。

【ラッキーな長徳の変】
その後、ライバルだった甥の「伊周」と「隆家」は女性関係で、
花山天皇に矢を射ったとして失脚し[長徳の変]、
道長の邪魔をする物は朝廷内に存在しない、唯一無二の権力者となる。

(4)長女彰子と一条天皇
999年、道長の長女「彰子」が一条天皇に入内することとなった。
一条天皇には、すでに兄「道隆」の娘「定子」を中宮として第一皇子もいたが、
道長は、「彰子」も中宮とし、一人の天皇に二人の中宮という異例の事態を作りだした。


その頃、定子は父を亡くし、兄は失脚し、後ろ盾がおらず弱い立場であった。
その定子を支えたのが、『枕草紙』で有名な清少納言であった。
だが、翌1000年、定子は僅か25歳で息をひきとり、彰子が実質的な中宮であった。


1005年、中宮「彰子」に紫式部が付き、『源氏物語』を著す。
また『紫式部日記』には、「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人」と
書かれてある。光源氏のモデルは、道長であるという噂もある。

その後彰子は、二人の男子、敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)
を産んだ。道長は、孫皇子が生まれた時は狂喜乱舞であったという。
次期天皇の外戚として確固たる地位を固めていった。

彰子は、亡くなった定子の子「敦康親王」を我が子同然に育て、
立太子は我が子より先に第一皇子である敦康親王であることを願ったが、
父道長は、それを許さなかった。

(5)次女妍子と三条天皇
道長は、長女彰子のおかげで地位はあったが、これまで結びつきの薄かった、
当時の東宮(皇太子)「居貞親王=のちの三条天皇」との縁戚を持つため、
次女:妍子を嫁がせている。


三条天皇は、道長の姉「超子」の子であるので、甥である。
妍子は、道長の3人姉妹の中でも特に美人で、派手好きな女性だったと言われる。

だが、三条天皇にはすでに中宮と4人の息子もおり、
妍子も中宮とする1帝2后とたが、妍子が娘「禎子内親王」しか生まなかったので、
この縁戚は成功したといえない。
(この禎子内親王が、のちの院制を築く後三条天皇への続く)

1011年、一条天皇没、三条天皇即位。道長は内覧の立場を継続。

内覧であった道長は、天皇親政を希望する三条天皇と、深刻な対立が生じていった。
だが、宮廷内外のほとんどの者は、天皇よりも道長に従い、三条天皇は分が悪く、
しかも眼病を患ったことを理由に、幾度も道長に退位を迫られている。
追い打ちをかけるように、2度の内裏の火災が起こる。

1016年、三条天皇は苦渋の中で、譲位する。
道長は、ただちに孫で9歳の「後一条天皇」を即位させている。

(6)道長、摂政へ
1016年、道長は、三条天皇に強引に譲位させ、彰子の子で
まだ9歳の敦成親王を、「後一条天皇」として即位させ、ついに摂政になる。

だが翌年には摂政の地位を息子の「頼道」に譲り、自身は太政大臣として、
後一条天皇の弟の「敦良親王=のちの後朱雀天皇」を皇太子とした。

この年、道長が義父より譲り受けた屋敷、「土御門殿」が京都市内の大火により
焼失しているが、2年後には、以前にも勝る豪邸を築いている。
それには、頂点を極めた摂関家に取り入っておこうとする、国司や受領、
官僚達が、我先にと、国政や納税を怠ってでも、道長へ貢物や労力を贈った。
道長への貢物を積んだ牛車や人の列が、通りを埋め尽くしたとも言われている。


(7)三女、威子
道長は、太政大臣も2カ月で辞め、前太政大臣という自由な身分で、
1018年、長女彰子の子で、孫である「後一条天皇」に、三女威子を入内させた。
孫と娘の結婚である。

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(8)この世をば 我がよと
1018年の威子入内の宴席で、道長は
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」と詠んだ。

意味:この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 
満月のように 何も足りないものはない。

道長に唯一反抗できる立場にあった、小野宮実資は返歌を断り、その場にいた
皆で道長の歌を何度も複唱したが、実資はあまりの傲慢さに呆れかえっていた。

小野宮実資の『小右記』には、「一家に三后を立つ、未曽有なり」と記されている。

(10)道長の晩年
しかし、晩年の道長は、病に冒され、道長は末法思想と相まって、
阿弥陀信仰(浄土信仰)への傾向していく。

【金銅藤原道長経筒】
1007年に道長が奈良県吉野の金峯神社詣の際に、地中に埋めた、
厚手で大ぶりな円筒形経筒である。
経塚とは、この世に弥勒仏が出現するとされる遠い未来まで、
経典を保存するために経箱や経筒を埋めたもの。

【道長の出家】
1019年、道長は東大寺で出家し、阿弥陀堂(無量寿院、のちに法成寺と呼ぶ)を建立。
ここでも、国司や官僚達が、道長の為に力を惜しまずに働いた。

1022年、法成寺完成。後一条天皇、三后、東宮揃っての豪勢な会であった。

【道長没】
1027年、阿弥陀堂の中に屏風を張り巡らせ、その中に横たわり、
9体の仏の手から伸びた蓮の糸を握り、仏に見守られながら浄土に旅立つ形を
とった最期であった。62歳没。

(11)日記

御堂関白記-------998~1021年、道長の日記

②小右記(しょうゆうき)
978年~1032年の道長の時世を、冷静な目で書き残していたのは、
「藤原(小野宮)実資(さねすけ)」である。
実資は、藤原実頼という藤原北家直系として、傍系である師輔系の
道長の権力に屈することなく、筋を通した生き方をした人であった。

③権記(ごんき)-------藤原行成が972~1027年の日記

④西宮記(さいきゅうき)-------源高明

⑤北山抄(ほくざんしょう)-----藤原公任











































平安中期 13章-2 「藤原兼家の辛抱」

2014-01-02 | 平安時代
(1)藤原師輔の子供達

「藤原忠平」の死後、子の「藤原実頼」から、弟の「藤原師輔」へ
摂関家は移っていった。
師輔が実権を握ったのは、娘の入内、そして皇子の出産による
「外戚」の立場を得た事による。

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藤原師輔には、1人の娘と、3人の息子がいた。
長男:伊○(これただ)
次男:兼通(かねみち)
三男:兼家(かねいえ)
長女:安子(村上天皇の皇后、冷泉帝、円融帝の母)


【長男:これただ】
父「藤原師輔」の死後、長男「藤原これただ」が摂政を継いだが、
972年にこれただ死亡し、次男:兼通と、三男:兼家で跡継ぎ争いとなった。

【次男:兼通】
次男:兼通より、三男:兼家の方が位が高く、兼家が有力視されていたが、
兼通は、姉で皇太后である「安子」より「年の順に摂関職に就くように」と
いう言葉を引きだしていた為、これを楯として、次男「兼通」が円融天皇の
摂政に就いた。


5年後、次男:兼通が病死し、いよいよ三男:兼家の番かと思った矢先、
死ぬ前に兼家が、従兄弟の「藤原頼忠」に摂関職を譲る宣言をしていた。
おまけに、兼通により、兼家は右大臣から治部卿へ大幅に官位を落とされ、
子供達の官職も剥奪された。
これより、10年、藤原兼家の辛抱の時代が続く。

【三男:兼家】
花山天皇の皇太子に、兼家の娘詮子が、円融天皇との間に産んだ
「懐仁親王」がたてられたところから、兼家の運が急上昇する。


(2)花山天皇の出家
藤原兼家一家による、花山天皇追い出しの策略

花山天皇が、寵愛していた女御の死に落胆していた時、兼家の次男「道兼」が
花山天皇をそそのかして、山科の元慶寺(花山寺)でこっそりと出家させた。



こうして、なかば強制的に花山天皇に譲位させ、
兼家の孫である「懐仁親王」が「一条天皇」として即位し、
藤原兼家は、10年の辛抱の末に、やっと摂政の地位を手にした。

これが、その後栄華を極める「藤原道長」の父である。




平安中期 13章-1 「63代冷泉天皇と、安和の変」

2014-01-01 | 平安時代
(1)第63代 冷泉天皇

62代村上天皇と、藤原師輔の娘「安子」の子。
村上天皇の第一皇子には、藤原菅根の孫「広平親王」がいたにも関わらず、
第二皇子の冷泉天皇が、生後2ヶ月で立太子されている。
また、数々の奇行から、即位に反対する者もいたが、押し切って即位した。
これは、当時の藤原一族の中でも、「藤原忠平一族」が際立って権力が強かったことを
示していると、考えられる。

【冷泉天皇の奇行】
皇太子時代より、精神に問題があるといわれていた。
・足が傷つくこともかまわず、一日中鞠を蹴っていた。
・父帝村上天皇の手紙に対して、男根の図を描いて送った。
・番小屋の屋根の上に、座り込んでいた。
・場をわきまえず、大声で歌う。

【摂政】
冷泉天皇自身が政治を執ることが出来ず、病気として、藤原忠平の子「藤原実頼」が
摂政として、政治の実権を握る。

関白・左大臣:藤原実頼
   右大臣:源高明

(2)安和の変
[安和の変]は、969年に起きた藤原氏による「源高明」をターゲットとする他氏排斥事件。

冷泉天皇の次期皇太子の候補は、冷泉天皇の弟である「為平親王」と
その下の弟「安平親王」の2人が候補にあった。

だが、年長者であり、次期皇太子の有力候補であった「為平親王」は、
その妻の父が右大臣「源高明」であり、為平親王が天皇になれば、
源高平が外戚となるため、藤原氏としては、源高平を失脚させる必要があった。

969年、源高明が冷泉天皇の謀反を計画している密告があり、源高明は流刑となった。
この事が、藤原北家の摂関常置のきっかけ、
藤原家による、国政の完全支配体制の完成であった。




「藤原実頼」と「藤原伊尹(ふじわらのこれただ)」がたくらんだ説が有力。