れきしぱうち

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平安中期 12章-7 「人頭税から、土地税へ」☆

2013-12-07 | 平安時代
(1)公地の税収の変化
人頭税から、土地税への変化

【班田収受の崩れ】
・荘園の増加で、公地そのものが減少した。
・戸籍制度が崩れ、税をかけるべき労働年齢の男子の数が把握できなくなった。

【公営田・勅旨田】
荘園の増加で、残った僅かな公田からの収入だけが、国司・朝廷の財源となった。
口分田からの税収が入らない為、823年に国の直営荘園が設置された。
それを公営田、官田という。

それとは別に、天皇家の荘園として勅旨田があり、
荒廃した土地を開墾し、国司が管理、経営していた。

【土地税への変換】
公地公民制では、男子への課税であったが、土地に課税することで、
老若男女全ての人から、徴収することができるようになった。

土地に税をかけるにあたって、「名」と「田堵」制度ができる。

田堵(たと) -----土地にかけた税の負担責任者で、指導的立場の農民。
       次第に、一族が世襲した口分田を集めて、農業経営をするようになる。

名(みょう) -----土地税をかける田の単位
      
大名田堵(だいみょうたと) ----大規模な「名」の代表田堵で、有力農民。
              大規模荘園内にも、大名田堵はいた。


受領は、地元の有力農民である田堵(たと)に、受領が管理する土地の耕作を
請け負わせ、租庸調に匹敵する、独自の税を徴収した。

国司が、祖の税率を高めて徴収し、それで庸・調を買って調達し、
中央朝廷に、租庸調として収めていた。

税-----官物(かんもつ)または年貢(ねんぐ)
庸役---臨時雑役(りんじぞうやく)

しかし、僅かな口分田・直営田から、国の税を取ろうとする為、
国司からの厳しい税徴収に耐えかねた農民が、どんどんと荘園に逃げ込む
悪循環がおこった。

(2)荘園内の税制
荘園内にも、独自の税収制度が成立していく。

名(みょう)--------土地区分の単位

名田(みょうでん) -------荘園内の、農民自身の名前をつけた土地

名主(みょうしゅ) -------名田を持つ農民

大名主 -------農民である名主の中でも、大規模な土地経営する名主のこと

「荘官」---------荘園内の名を管理、徴税する役人

藤原北家←荘園主←荘官←大名主(大規模小作人)←名主(小地主)←小作人(農民)

また、荘園内でも、荘民に対して租庸調に匹敵する、独自の税を徴収するようになる。
年貢(ねんぐ)・・・租と同じ、米を出す
公事(くじ)・・・・調と同じ、特産物を出す
夫役(ぶやく)・・・雑徭と同じ、労働力を出す


(3)王朝国家への変換
大化の改新以来、戸籍台帳を元に、男子に対して税を課していたのが、
国司の怠慢や荘園への逃げ込みで、戸籍の虚偽が横行し、役に立たなくなった。

農民の人数を把握して、税を課すこ人頭税に無理が生じた為、
平安中期には、土地面積に対して課税する土地課税体系に変わっていった。

こうした階級的な支配体制を、「律令国家」と区別して王朝国家とよぶ。

(3)武装化する農民
国司が仕事をしなくなり、私腹の為の取り立てに耐えかねた農民が、
荘民になったり、盗賊になったりし、地方の治安が悪化していった。
治安が悪化すると、ますます中央貴族は、自分で赴任せずに、受領まかせと
なり、地方政治の乱れは加速していく。

荘園の奪い合いや、盗賊からの自衛の為、郡司や荘主が、一部の農民に
武器を持たせて自衛団をつくっていった。


それが、武士団となり、次第に由緒ある家に武力が集結していくようになる。


平安中期 12章-6 「延喜・天暦の治」☆

2013-12-06 | 平安時代
(1)延喜・天暦の治の流れ
900年代に行われた、醍醐、村上天皇による、最後の公地公民への政策である。

崩壊していく公地公民制度、律令制度を取り戻すべく、
合計3回の天皇親権による政治政策がとられている。

①【寛平の治】-----宇多天皇と菅原道真による、律令回帰への政策。
②【延喜の治】-----醍醐天皇と藤原時平による
③【天暦の治】-----村上天皇

と流れが続いており、ここでは900年代は②と③について。

902年----『延喜の荘園整理令』を出し、公地公民、班田収受の再建をはかる。

902年-----『延喜格式』の編纂、『日本三代実録』の再編

914年----12年に1度の班田収受が、天候不順、荘園の乱れの為行われず。
     醍醐天皇が『意見封事(いけんふうじ)』を提案する。
     国司の権限を強めて、私営田領主に対抗した。

988年-----尾張国「藤原元命」の悪性を訴える『解文』が出る。

天皇親政の理想的良政とうたわれた【延喜・天暦の治】であるが、
実際は、班田収受の本格的な崩壊による、古代律令政治の限界を
思い知った時期である。

(2)延喜の治
延喜の治とは、醍醐天皇による天皇親政の治世のこと。
延喜は、醍醐天皇時の元号。

【戸籍制度の崩れ】
調と庸は、男子にしか課せられない為、作為的に戸籍に男子を少なくし、
実態と戸籍がかけ離れたものになっていた。
その為、戸籍を基とする、班田制がなりたたなくなっていた。

【左大臣 藤原時平】
摂関をおかない天皇親権といわれているが、実際の政務は、
左大臣「藤原時平」が執っていた。
時平は、妹の隠子を醍醐天皇の中宮としており、天皇との親戚関係はあった。

基本的に、宇多天皇の「寛平の治」を引き継いだ、
公地公民、班田収受の律令回帰を目指している。
最期の律令制のあがき・・・でもある。

【延喜の荘園整理令】
902年に出された荘園の禁止令で、「院宮王臣家」と呼ばれる
天皇に非常に近い貴族の荘園を禁じた。

→しかし、朝廷トップの藤原家が最大の荘園主であるこの時代、
令には「諸国の妨げとならない荘園は認める」との例外規定があったため、
その例外を根拠として、むしろ堂々と荘園が拡大されていった。

【延喜格式の編纂】
格式とは、律令法の補助法令であり、醍醐天皇が、藤原時平に命じて編纂させた。
「三大格式」の最期の1つ。(弘仁格式・貞観格式・延喜格式)

【日本三代実録の再編】
宇多天皇が、編纂を命じた歴史書で、「六国史」の6番目。
宇多天皇、菅原道真不在となり、中断していた作業を、
醍醐天皇が藤原時平に命じて、作業再開させて完成させた。

【意見封事】
醍醐天皇が、部下の意見を直接聞く制度を発案した。
本人が手紙を密封して、太政官外記局に出すと、
そのまま天皇に届き、天皇自らが封を解く制度。

この制度をまともに使ったのは、914年、文章博士だった「三善清行」くらいであり、
12か条にも及ぶ手紙で、現行の政治の問題点を天皇につきつけている。


→この意見書には、三善清行が国司にっなった備中(岡山県)の
とある村の実態をあげて、この村は7世紀には2万人もの兵が集まる人口が
あったが、8世紀に税を支払っている者は1900人程、9世紀には70人ほど、
三善が赴任した9世紀末には、税を負担する者はわずか9人であったが、
その9人も次の国司のときには、とうとう0人となった。
村人がいなくなったのではなく、全て荘園の民として、荘園に税を払っている、
とのことであった。
この手紙は、いまだに宮内庁に保管されている。

(3)天暦の治
村上天皇らよる天皇親政で、父醍醐天皇の『延喜の治』を手本とした。
延喜の治で、権力強化した国司の横暴を取り締まる令が多い。

【天暦の治】
・950年、税(調庸雑物)の量に基づく、受領の功績評価

・963年、税の期限内納入を厳格化

・宣命、勅、叙位下名などの部類選集を「内記局」にさせる

・任期を過ぎても交代しない国司を罰する

・受領や郡司に、帯刀を許可する

・966年『新儀式』が出来る

(4)国司の権限強化
公地公民、班田収授が事実上立ち行かなくなっている事に対し、
朝廷は、方向転換せざるをえなかった。

醍醐天皇と藤原忠平は、地方での権力を強大にする私営田領主(荘園主)に対抗して、
国司の権限を強化させた。

それまでは、中央から派遣された国司が行政にあたり、
税の徴収は地元の郡司がしていたのだが、郡司が荘園主と手を組んでいった為、
中央から派遣した国司に、税の徴収と納入を請け負わせ、一国の統治を任せた。
朝廷は、儒教的、道徳的な考えを持つ官僚を選抜し、地方の立て直しを任せた。
こうした、素晴らしい人材を「良史」とよんだ。

これにより、国司の役所であ 国衙(こくが) が、地方拠点として、
重要な役割を持つようになる。

(4)国司の横暴
しかし、国司の権力を強化した事で、今度は国司が利益をむさぼっていくようになった。

【受領(ずりょう)】
任国に赴任した国司のうち、最上席の長を受領と呼ぶ。
中央では、五位か四位程度の身分の低い官僚であったが、
いったん地方ではトップに立ち、巨利をあげる事ができる立場となった。

【成功(じょうごう)】
国司に選任してもらえるよう、藤原摂関家など有力者に対して、
私財を出して、朝廷儀式や、藤原家邸、寺社の建築を助け、
その見返りとして、国司の地位を得ること。

【重任(ちょうにん)】
同じ国の国司に、何度も任命してもらうこと。

【遥任国司(ようにんこくし)】
国司に任命されたにもかかわらず、自分は中央にいて、かわりに
「目代(もくだい)」と呼ばれる使者を地方に派遣して、一定の収入をえる者。


(5)国司の悪政を訴える農民
『今昔物語集』や『小右記』には、国司の暴挙ぶりと、それを訴える農民の様子が
たびたび描かれている。

【解文(げぶみ)】
地方郡司や、百姓達が、無謀を働く国司の事を朝廷に訴えた文書の事。

①988年の『尾張国 郡司百姓等 解文』は、
尾張守であった藤原元命は、田の面積の何倍もの税を徴収する、
利息を追徴する、法外に安く買い叩く・・・
などなど暴挙を、農民達が31か条もの訴状にして、朝廷に訴えた。
元命は国司を解任されたものの、特にこれといったお咎めは受けてはいない。

②信濃守 藤原陳忠
受領の貪欲さを物語る話として、藤原陳忠が、事故で谷に落下したが、
はいあがる途中に、崖のはえていた平茸を採ることを忘れなかった。

③大宰府 藤原惟憲
持つ財宝は数わ数える事もできず、九州2島の物を底ざらいに剥奪していった。


(6)国司に対する法令
【国司への規制】
①遙任の禁止----------任地に赴任せず、代理の者を現地に派遣することを禁止。

②帰国を促す----------任期を過ぎても交代、帰京しない国司を罰する。

③税の納入期限の厳密化

④納税量による、国司の評価

【地方機関の整備】
税所(さいしょ)、調書(じょうしょ)、修理所、厩所などの機関が整備される。

【地方に対する役人の配備】
検田使(けんでんし) --------田の検査、測定をする役員。荘園の検査、測定もした。
検非違使(けびいし) --------違法を検察する天皇の使者の意味で、治安維持の役人。
追捕使(ついびし) ----------反乱鎮圧の為の、軍事的役割の役人。

押領使(おうりょうし) ------地方警察の役割。国司、郡司の中で武勇に秀でた者が兼任した。

収納使(しゅうのうし)

(7)破綻する延喜・天暦の治
しかし、朝廷の第一人者である藤原北家の荘園での権力が止まらぬことには、
荘園拡大を禁止する法も無力であった。

国司の権限強化は、受領を歴任する階層が固定化し、受領が豊かな私財築くという矛盾を生んでいき、
また豊かになり、武力を持った地方豪族の、朝廷に対する反発を招くことにも繋がっていった。

都での権力争いの影で、地方自治は確実に揺らいでいった。

藤原摂関をおかずに、天皇親政を執った「醍醐天皇」と「村上天皇」は
必死に律令制度へ戻す努力を続けたが、体制の崩れを戻すことはついに出来ず、
「律令国家」から、土地を有する者の支配階級で出来た「王朝国家」へと、
変換を遂げていくこととなる。

(8)11世紀の国司と荘園
その後、11世紀後半になると、受領は京に住み、藤原摂関家に使えて、経済的奉仕をすることが、
主な仕事となっていく。

管轄する現地には、受領が派遣した「目代」が「留守所(るすどころ)と呼ばれる機関を国衙につくり、
目代が、地方豪族から地方役人を選んで、地方自治にあたるようになる。

こうした地方役所を在庁(ざいちょう) といい、地方役人を在庁官人ちいい、世襲された。




山川出版「詳細 日本史研究」第3章-3「荘園と武士」P111~
中央公論社「マンガ 日本の歴史」9巻、10巻

平安前期 12章-5 「荘園の発達と、藤原摂関家」☆

2013-12-05 | 平安時代
(1)荘園の発達
荘園とは、貴族や寺院が私有地として広げた土地。

8世紀(奈良時代)------貴族や大寺院が、自ら開墾した墾田地系荘園

10世紀(平安中期)-----国司が荘園を管理して、荘園主と対立し、武士が発生する

11世紀~(平安後期)---雑役免系荘園・寄進地系荘園・国免荘・官省符荘
           不輸不入の権

(2)8世紀、初期の荘園
【奈良時代の荘園】
8世紀の奈良時代では、口分田が不足した723年に、新しく開墾した土地は
三代だけ権利をもてる『三世一身法』が出された。

743年には、開墾した土地の所有を永年認める『墾田永年私財法』が出た
結果、貴族や寺院や豪族が、農民を使って開墾した私有地(荘園)を広げていった。

これら自ら開墾を指導した荘園を「墾田地系荘園」とよぷ。

開墾が金持ちに有利だったのは、開墾に必要な鉄製の農具が、官位を持つ貴族にのみ、
朝廷から半年ごとに支給されたためである。官位によって、鍬の本数がかわる。
(官位一位---140本/半年  官位二位---100本/半年 など。)

【平安中期の荘園】
10世紀の平安中期ごろには、金持ち同士で土地を奪い合った結果、
口分田の公地の農地や、共有の山川までも、荘園に組み込まれていくようになる。

次第に、皇室までも荘園を持つようになり、天皇の名のもとに開墾した地を
「勅旨田(ちょくしでん)」といい、役所が開墾した地を「公営田(くえいでん)」
とよぶ。

こうして荘園が増加すると、税収が入らず、国の財政が逼迫していく。

分け与えられた口分田は、公地に戻らず、農民の間で世襲されていった。

また、公地の土台であった戸籍制度は、国司の怠慢により、虚偽内容が横行し、
制度そのものが成り立たなくなっていた。

(2)国司と受領
【国司】
朝廷は、地方の班田収受や律令を維持する為に、朝廷から4~6年の任期で
国司を任命して、地方自治と律令の維持を任せた。
国司には「守もり」→「介すけ」→「掾じょう」→「目」の四等官の階級がある。

【遥任国司(ようにんこくし)】
国司の最高官位の「守」は高級貴族で、基本、都に居て現地には赴任せず、
代わりの者や、下の位の者が現地赴任した。
京に残って、赴任しない国司の事を遥任国司(ようにんこくし)という。

【受領(ずりょう)】
現地赴任する国司の中の現地最高責任者を受領ずりょう という。

国衙の実質的な最高権力者として、権力と財力を蓄えていった。
国司の最低位「目」の代わりに、現地赴任する者を「目代」という。

国に一定率の税を納めれば、あとは自分の私財とできたり、
班田収受がなりただず、徴収した税を、我が財産として蓄財するなどして、
国司、受領は、豊かになることができた。

【勘解由使(かげゆし)】
国司の不正をチェックする機関として設置されたのが勘解由使(かげゆし)である。
国司交代の際に、厳しくチェックし、引継ぎを厳しくした。


【地方に居つく国司・受領】
地方に居ると、徴収した税を我が物にするなど、莫大な財産を得る事が出来るうえ、
京に戻っても、中央官僚は藤原氏が独占しており、中央に職を持てない貴族達は、
国司の任期が終わっても地方に留まって、地方豪族として棲みつく者がでてきた。

のちに武士として活躍する平家・源氏もこうして地方に定着した貴族である。

地方国司がいかに裕福であったかは、『今昔物語』の「いもがゆ」によく顕れている。
ある中央官僚が「いもがゆを腹いっぱい食べたい」ともらしたところ、たまたま
地方から上京していた、越前国司の藤原利仁が、官僚を田舎に招待し、
いもがゆを腹いっぱい御馳走した、という話である。


(3)不輸の権、不入の権
10世紀半、荘園の権力が増大していく。

【荘園の寄進】
権限を強くした国司に対抗して、税の免除する方法として編み出された策が、
有力寺社や、国司より位の高い貴族に、自分の荘園を寄贈し、
その貴族へ直接税を上納して、保護を受ける方法であった。

有力寺社へ荘園を寄贈-----------雑役免系荘園
有力権力者へ荘園を寄贈---------寄進地系荘園
国司によって免税をうけた荘園---国免荘(こくめんのしょう)
中央政府によって免税をうけた荘園---官省符荘(かんしょうふしょう)

【不輸の権】
有力寺院、有力者の荘園、朝廷より正式に認められた荘園は、
租庸調の税を出さなくていい、という権利。経済的独立。

【官省符荘】
太政官、民部省の正式な許可を得て、免税の権利(不輸の権)を得た荘園。
この太政官が、藤原摂関家の事で、藤原家に荘園を寄進することで、不輸の権を
簡単に受けることができた。

【立券荘号】
不輸の権を受ける為の手続き。
領主の申請があれば、朝廷が現地に使者を派遣して、券文(証明書)を作成する。

この免税権利の為、藤原北家に荘園を寄贈するのが一番効果的であり、
藤原北家は、最大の荘園領主となっていく。


【不入の権】しかし、こうした有力貴族の荘園にも、「検田使」が調査に入るようになった為、
藤原北家に依頼して、検田使の荘園立ち入りを禁ずる権利を得た。
これを『不入の権』という。

『不輸・不入の権』を持つ荘園が、「完全荘園」で、藤原北家の荘園がそれであった。



(4)藤原北家の繁栄
朝廷で一人勝ち状態だった、摂関家である藤原北家は、国家の財政難の傍らで、
荘園制度によって、巨万の富を築き上げていく。

低級中央官僚でいるより、地方国司になった方が、富が手に入る為、
藤原北家に貢物を持って、国司に任命してもらえるよう頼みにいく。
  ↓
願い叶って国司になれば、税を免除してもらう為に、荘園を寄贈したうえで
上納税を藤原家に払う。
  ↓
何度も国司に任命してもらえるよう、藤原北家に依頼する
  ↓
中央官僚も、地方国司も、地方領主も、藤原北家に対して、
こぞって我先にと、贈物を届けに来るようになる。
  ↓
京に残った国司(遙任)は、藤原北家の経済的支援を主な仕事として働く。
  ↓
藤原北家は、地方からの賄賂の資金と、朝廷トップとしての資金の両方を握り、
また生活費などは国司からの貢物で賄い、巨万の富を築いていく。

国の財政が荘園によって圧迫され、官に禄(給与)を出せず、
貴族は、自分の荘園からの収入に頼らざるを得ないという悪循環。

しかし、荘園での私腹を肥や過ぎると、国の財政が傾く為、
藤原氏は難しいバランスでの政治が必要であった。



平安中期 12章-4 「62代村上天皇と、天暦の治」

2013-12-04 | 平安時代
(1)第62代 村上天皇
醍醐天皇に続いて天皇親権『天暦の治』を執った天皇

【即位】
第60代醍醐天皇の14番目の子で、61代朱雀天皇の同母弟。

944年、兄・朱雀天皇からの譲位で、21歳で即位し、
醍醐-朱雀に続いて叔父「藤原忠平」が摂関を勤める。

949年、古くからの摂関「藤原忠平」死去後は、摂関をおかず、天皇親権に戻した

【藤原4兄弟と、藤原師輔】
天皇親政に戻ったように見えて、実際は「藤原忠平」の息子達4人が
政治の実権を握り、外戚政治を強固をしている。
左大臣:長男「藤原実頼」
右大臣:次男「藤原師輔」
参 議:三男「藤原師氏」
参 議:四男「藤原師伊」


【外戚政治と、藤原師輔】
藤原4兄弟や、他藤原一族は、こぞって娘を村上天皇の妻に入内させるが、
次男「藤原師輔(ふじわらもろすけ)」の娘「藤原安子」が、
のちの冷泉天皇と、円融天皇を産み、皇后となった為、「藤原師輔」の地位
が高まったが、960年ごろ、師輔は病死している。

【荒れる治安】
村上天皇が積極的に政治(天暦の治)をし、藤原摂関家が派閥争いをし、宮廷内で華やかな平安文化が
花開く一方で、地方は依然として、不穏な情勢が続き、悪化していく一方だった。

・受領が税の取立てに武力を使い、税の拒否にも武力が使われる

・地方に居ついた元国司達の、武装化

・寺院の僧達の武装化

・960年、凶作と飢饉、火災の頻発、郡盗の多発と、内裏の火事による消失

・奇病(おたふくかぜ)の流行

・961年、天暦から「応和」に元号を変更

・967年、在位中に41歳で崩御

【天平文化の開花】
政治にも積極的であった村上天皇は、同時に文人でもあった。

・951年、『後撰和歌集』の勅旨-------平安御所内の七殿五舎の一つである「昭陽舎」という建物に、
               和歌所がおかれ、和歌の撰者5人が集められた。
               この昭陽舎の庭に梨が植えられていた為、「梨壺」とよばれ、
               選者5人を『梨壺の5人』と呼ばれた。
               大中臣能宣、源順、清原元輔、坂上望城、紀時文

・955年、『詩合うたあわせ』--------内裏内で行われた、左右に分かれて漢詩を詠みあい、優越をつけて
              戦う遊びである。闘詩とも言う。

・『清涼記』-------------村上天皇が著者だといわれる







平安中期 12章-2 「61代朱雀天皇、即位の影に呪いあり」

2013-12-02 | 平安時代
(1)第61代 朱雀天皇

【即位の影に呪いあり】
朱雀天皇が即位するには、菅原道真の呪いが切っても切れない。
兄「保明親王」が21歳で死亡、その子「慶頼王」5歳で死亡と
いう2代続けての皇太子の死と、父「醍醐天皇」が菅原道真の呪いを
恐れて精神を崩した結果の崩御によって、天皇の位がまわってきた。

母、藤原基経の娘「藤原陰子」は、呪いを恐れて、何重にも張られた
蚊帳の中で、外に出さずに、幼少時代の朱雀天皇を育てていた。

930年、父醍醐帝の崩御を受けて、8歳で即位。
摂政、関白ともに、叔父で醍醐時代より政治の重鎮だった「藤原忠平」が取り仕切った。

【不幸続きの朱雀時代】
即位前から不穏であったが、即位中も
935年、[平将門の乱][藤原純友の乱]や、各地の乱れ
937年、富士山噴火、地震、洪水、飢饉、伝染病の流行・・・
944年、子に恵まれなかった朱雀は、弟の「村上天皇」に譲渡する。



平安中期 12章-1 「60代醍醐天皇と、延喜の治」

2013-12-01 | 平安時代
(1)第60代 醍醐天皇
菅原道真を流刑にした、天皇親政「延喜の治」をおこなった天皇

父帝「宇多天皇」から突然元服と同時に譲位された。
譲位に際して、摂関職を必要としなくて済むよう、天皇職のマニュアル『寛平御遺誡』を渡され、
父帝のブレーンである「菅原道真」と「藤原時平」を内覧として強制的に引き継がされている。

34年間、摂関をおかずに、天皇親政と内覧によって政治を執った天皇だった。
前半は、菅原道真と藤原時平を側近に
中間は、藤原時平を側近に、
二人が死んだ後半は、藤原忠平を側近とした。

897年、醍醐天皇即位
901年、[昌泰の変]で、菅原道真を大宰府にとばす。
    元号を「延喜」に変更
902年、律令制度の再建として「延喜の治」に着手
903年、菅原道真、没
    醍醐天皇と、藤原隠子との子「保明親王」うまれる
904年、保明親王を皇太子とする
905年、『古今和歌集』の編纂を指示
    『延喜格式』の編纂を指示
907年、唐滅亡

909年、左大臣藤原時平没/ 藤原忠平が跡を継ぐ
914年、12年に1度の班田収受だが、流行病、天変地異、飢饉の為不履行
   「意見封事」/ 国司に関する制度の見直し
923年、保明親王21歳で病死するなど、周辺の人物が相次いで急死
925年、保明親王の子で、次期皇太子の「慶頼親王」が5歳で急死
930年、清涼殿に落雷、醍醐天皇病に伏し、そのまま死亡。

(2)藤原時平

【藤原時平の家系】
藤原北家の氏の長者で、基経の長男。
藤原冬嗣----良房----基経----時平

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【延喜の治と藤原時平】
宇多天皇が醍醐天皇に譲位する時に、引き継いだ側近で、
左大臣「藤原時平」と右大臣「菅原道真」の二人で[内覧]として、醍醐時代の政治を執っていた。

宇多天皇政権時は、菅原道真の寵愛の影で目立たなかったが、朝廷内での評価は、
小心者で消極的な道真、勇気と実行力のある器の大きな時平として、官僚達から
の人気はあったらしい。

901年1月、[昌康の変]で菅原道真を大宰府に飛ばしたあと、
その3月には、時平の妹の「隠子(おんし・やすこ)」を醍醐天皇の女御として
入内させ、天皇の外戚となることをもくろんでいる。

902年、時平は政治手腕を発揮して、矢継ぎ早に国政改革の「太政官符」を
発令した。これを延喜の治と呼ぶ。

903年、菅原道真が大宰府で亡くなった年、妹「隠子」が醍醐天皇の子を産み、
「保明(やすあきら)親王」として、生後3ヶ月で皇太子としている。
この保明親王と、娘を婚姻関係にすることで、天皇の外戚になることをもくろんでいた。

しかし、菅原道真の呪いで、時平の親族は、弟「藤原忠平」を除いてほぼ死亡したため、
時平の野望は途絶えた。
最初から最後まで、菅原道真に邪魔され続けた人生だったのかもしれない。