れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
☆は山川出版「詳細日本史研究」に対応しています。

平安初期 10章-6 「東北征伐と、坂上田村麻呂」

2013-10-06 | 平安時代
(1)奈良時代の東北

朝廷が、「蝦夷」と呼ぶ東北地方を、律令制度に組み込もうとしたのは、7世紀から。
658年、斉明天皇のとき、「阿倍比羅夫(あべのひらふ)」を将とする軍を陸奥に送っている。

【多賀城創設】
8世紀後半、奈良時代頃の朝廷勢力は、東北中部にまで及び、
724年には宮城県に「多賀城」が置かれ、陸奥国府、鎮守府として軍事拠点としている。
多賀城は、1キロメートル四方の広さがあり、内部には朝廷儀式を行う政治的官庁や
竪穴式の兵舎などがあった。
この頃、時節大将軍として藤原宇合が、蝦夷を討伐している。

【伊治砦麻呂の乱】
桓武天皇即位の前年の780年、光仁天皇の時代、
蝦夷陸奥国の伊治城で、都から派遣された陸奥按察使(あぜち・陸奥の最高官)である
「紀広純(きのひろずみ)」が、蝦夷出身の郡司「伊治砦麻呂(これはりのきみあざまろ) 」
の反乱により殺され、伊治城が落ち、多賀城を焼き払われてしまう。

これより38年、朝廷と蝦夷の戦いがはじまる。


(2)桓武天皇の蝦夷討伐

789年、朝廷は、征東大使「紀古佐美(きこのさみ)」率いる5万の大軍を出すも、
蝦夷の首領「阿弖流為(あてるい)」に大敗。(第一回遠征)
東北側にしてみれば、朝廷による侵略であった。

794年、3年の準備期間を経て、征夷大将軍「大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)
率いる第二回蝦夷討伐軍を派遣。
この時、副将軍として最前線で活躍したのが、「坂上田村麻呂」であった。

797年、「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) 」を征夷大将軍として派遣し、
準備期間を経た801年、3度目の蝦夷討伐戦を開始する。
この時の兵は、豪族や郡司などの裕福な家の子息から兵を集める「健児(こんでい)」
軍を編成している。

802年、とうとう蝦夷のリーダー「阿弖流為(あてるい)」とモレが降伏した。


これを機に東北平定は進み、鎮守府を、岩手県胆沢城(いさわ)に移し、
翌年803年には、さらに北に「志波城(しわじょう)」を築いている。


都を連行された「アテルイ」と「モレ」は、坂上田村麻呂の命ごいも虚しく、
処刑されました。

蝦夷との戦いは、811年嵯峨天皇の時に「文室綿麻呂」を征夷大将軍としたのが最後。
朝廷は、従った蝦夷を「公民」扱いし、族長を郡司とし、人々を戸籍管理し、税を
収めさせました。

(3)坂上田村麻呂

坂上田村麻呂
渡来人「東漢」系阿知使主の子孫で、祖父、父(恵美押勝の乱で活躍)も武勇に
優れ、本人も体が大きく、武勇に優れた人物であった。

本人も、征東副使や、鎮守府将軍などを歴任し、武勇に優れた人物であった。

戦功により、後に大納言まで出世している。
京都の自宅を、「清水寺」とし、また806年には平城天皇の命で、
富士山本宮浅間大社の創設もしている。

平城天皇に仕えていたが、平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」では
嵯峨天皇につき、平城上皇の脱出を阻んだ。
京都の将軍塚は、田村麻呂の墓だと云われる。

平安初期 10章-5 「51代平城天皇と、薬子の乱」

2013-10-05 | 平安時代
(1)第51代 平城天皇

桓武天皇の長男である「平城天皇」は、奈良の平城京で育ち、
親王時代にあまりに病弱であった為、早良親王の祟りではないかと
言われた程であった。

一方、皇太子時代から人妻で、「式家 藤原種継」の娘である「藤原薬子」
と不倫関係にあり、怒った父桓武天皇が、薬子を追放している。

806年、桓武天皇の没後、平城天皇が即位すると、
薬子は呼び戻されて、侍女頭である「尚侍」に任命される。
天皇の寵愛をかさに、「藤原薬子」とその兄「藤原仲成(なかなり) 」
は政治に介入するようになり、朝廷は乱れた。


(2)薬子の乱

809年、病弱だった平城天皇は、3年で同母弟の「嵯峨天皇」に譲位し、
「平城上皇」として、生まれ育った奈良の平城京で隠居生活をしていた。

しかし、[式家]である藤原薬子、仲成兄弟は、
嵯峨天皇と共に朝廷内で勢力を増していく、[北家]の「藤原内麻呂」
の存在が気に入らず、平城上皇をそそのかして、嵯峨天皇から、
天皇位を取り戻そうと画策した。


薬子にそそのかされた平城天皇は、奈良の平城京で再度即位し、政治をとりだした。
これにより、天皇が二人、都が二か所という事態になる。

810年、嵯峨天皇は、坂上田村麻呂を出陣させ、
平城上皇と式家の藤原薬子と藤原仲成は討ち取られて死亡、平城天皇は出家した。
これを、「薬子の乱」と言い、藤原の式家はここで勢力が途絶える。


平安初期 10章-4 「最澄と空海」

2013-10-04 | 平安時代
(1)最澄と空海

・平安時代初期に、今までの南都六宗と異なる新しい仏教を開く。

・それまでの天皇や貴族自身の為の仏教から、庶民にも広げた人々を救うための仏教に。

最澄----天台宗-----比叡山延暦寺-----伝教大師

空海----真言宗-----高野山金剛峰寺----弘法大師

(2)最澄

【おいたち】
・767年、近江の国(滋賀県)の琵琶湖のほとりの、「三津首(みつのおびと)」という
渡来人系の豪族の子として「最澄(さいちょう) 」は生まれた。
11歳で出家して、近江の国の国分寺に入り、19歳の時に比叡山にのぼり、
山林にこもって大蔵経を読破するなどの修行に励んだ。

・南都六宗以外の、新しい宗派を求めていた桓武天皇に気に入られ、
和気氏などの貴族に指示されるようになる。



【入唐】
・804年、桓武天皇に「入唐求法(にっとうぐほう)」の留学生に選ばれ、
遣唐使に同行して、唐に仏教留学に行く。

・唐の天台山にのぼり、天台教学、禅、密教を学ぶ。
最澄は唐で経典を集める事に力を入れた。仏教について学ぶということは、
経典を読み、理解し、行動することで仏の教えを実行することであるとした。

【活動】
・1年で帰国し、「比叡山 延暦寺」を中心として「天台宗」を開く。
その教えは、経典の中でも特に「法華経」を重視し、僧に厳しい修行を求め、
その結果が人を救うものでなければ意味がないと説いた。


・最澄の徹底した考えは、南都六宗と対立し、それまでは東大寺の戒壇院で
試験を受けて僧になっていたが、最澄は比叡山にも戒壇院を設置した。

・密教の分野に関しては、密教の本場に留学していた空海に弟子入りする形で、
高尾山に赴き、空海から「灌頂(かんちょう、頭から水をかけて、継承者である
ことを認める儀式)」を受けている。
しかし、その後、空海は最澄の経典主義を批判したり、預けた弟子が最澄の元に
戻らないことなどをきっかけに、二人の交流は途絶えている。

・死後、「伝教大師」の称号を受ける。

(3)空海
【おいたち】
・「空海」は774年、讃岐国(香川県)の海のほとりで、讃岐の郡司の家の子、「佐伯眞魚(さえきまお)」
として生まれる。最澄より7歳年下である。

当初は役人になる為に大学に通っていたが、途中から仏教に興味をもち、四国で修業に
励んだ後、大阪の槇尾山寺で、南都六宗の研究に没頭し、奈良の大安寺で「大日経」と
出会ったことで、密教に傾いていく。


【入唐】
・804年、桓武天皇の「入唐求法」の留学生に、最澄と共に選抜されたが、当時すでに
天皇の護持僧であった最澄とちがい、空海は無名の僧であった。

・唐の都長安の「青龍寺」で、当世一の高僧であった「恵果」和尚に師事し、
留学の間に、高僧の証である「阿闍梨」の位を受け、大日如来を意味する
「遍照金剛(へんじょうこんこごう)」の灌頂名を与えられ、中国密教の祖から
恵果まで代々伝えられていた「仏舎利」を与えられていることから、
相当成績優秀だったと考えられる。
 本来20年の長期留学のはずだったが、学ぶことは全て学んだとして、
2年で帰国する。

【活動】
帰国した時には桓武天皇は没しており、嵯峨天皇に認められた。
816年、和歌山県の「高野山 金剛峰寺」を中心に、「大日如来」にすがり、
まじないとお祈りで即身成仏を目指す「真言宗」を開く。

全国に布教活動の傍ら、大規模灌漑工事(香川県の満濃池、奈良の益田池等)をし、
人民の信頼を得ていく。

826年には、嵯峨天皇から京の「東寺」をまかされ、「救王護国寺」として、
都の貴族の間に広く信仰されるようになる。

同時に「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を建てて、庶民にも教えている。


空海は、最澄と違って、奈良六宗との関係もよかった。
835年、自身の入定(死ぬこと)を予言し、高野山にて座禅したまま亡くなったと言われる。
・死後、「弘法大師」の名が贈られた。

「円仁」「円珍」の天台宗の密教を台密、空海の密教を「東密」と呼ぶ。

(4)最澄と空海まとめ
最澄の7歳下に生まれた空海が、高野山で亡くなったのは、最澄の死後13年後の
835年の事でした。
最澄と、空海の二人は、唐で学んできた新しい仏教で、平安初期の仏教界に新しい
新風をおこし、奈良時代とは違った平安らしい仏教を花ひらかせていきました。
最澄の天台宗、空海の真言宗によって、仏教は、国を護るとともに、一人一人を
救うもの、という性格を強めていきました。
その死後、朝廷はこの二人の天才の功績を認め、
最澄に「伝教大師」、空海に「弘法大師」という称号を与えました。

鎌倉時代には、これらの仏教から発展した新仏教が数々生まれます。
その中で、空海の業績をたたえる「弘法大師伝説」が各地に生まれていきます。


(5)円仁と円珍

【円仁】
最澄の弟子の「円仁」は、最澄より30年後の遣唐使と共に唐にわたり、10年滞在しました。
帰国後は、延暦寺の地位を確かなものとし、天皇の為の祈祷を許されるなど、
朝廷と天台宗の結びつきに貢献しました。

円仁は、延暦寺を本拠地とする「山門派」、
対する「円珍」は、近江君(滋賀県)大津の、「園城寺=三井寺」を本拠地とする
「寺門派」となり、天台宗を二分する勢力になりました。

平安前期 10章-3 「平安京での桓武天皇の政治」

2013-10-03 | 平安時代
(3)平安京での桓武の政治

桓武天皇が即位した頃の平城京は、非常に乱れていた。
南都六宗の寺社が強力な権力を持ち、朝廷の機能は薄れ、
地方政治に手がまわらず、国司や郡司は、自分の私腹を肥やす事に
力を注いでいたため、公地は荒れ、口分田を分け与える事もできなく
なっていた。
乱れた地方政治は、農民を苦しめ、豪族の元へと逃げ出す民も多かった。
そんな状況に、桓武天皇は、抜本的な政治変革が必要だと痛感した。


784年 長岡京遷都

794年 平安遷都

795年 公出挙(くすいこ)率を3割に減らし、雑徭を半減。
   「公出」とは、農業推進として春に稲を貸し付け、秋に現物返済をする
    制度で、後に強制的な税の仕組みとなり、農民を苦しめた。
    その返済利率を5割から3割に下げた。

797年「勘解由使(かげゆし)」を設置
   律令の令外官の一つで、地方行政管理の職。主に国司交代の時の
   監督、審査をした。後に京都の各官庁の監視役に拡大する。


※「令外官」とは、律令に記載されていない、新しくできた官職の事。


・797年 坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命し、東北平定。


・792年 「健児(こんでい)」
     農民の兵役を軽くする為、地方郡司などの裕福な家庭の子を兵に出す制度。
     のちに、地方豪族が武力をもつきっかけになった、と考えられる。

・801年 「一紀一班(いっきいっぱん)」
     それまで6年に1度だった班田を、12年に1度とする

・805年 「軍事と造作」
     百済系渡来人の賢人「菅原真道(すがわらのまみち)」と、
     式家・藤原百川の子「藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)」の「徳政論争」で
     軍事とは蝦夷征伐、造作とは都の建設をさす。


    この論により、桓武天皇は農民の苦しみを知り、都の造営を途中で
    中止するなどの措置をとっている。


・『続日本記』---六国誌の2番目の書で、「菅原真道」が文武天皇~桓武天皇までを記す。


※桓武天皇は、自身が天智天皇系であることを強く自覚し、
律令制によって、中国の大王制のような、強力な天皇制による政治をめざした。
桓武天皇のした、平安遷都、東北平定、律令の乱れを正し、兵制の改革、
班田収受法、国司の監督などは、のちの天皇に引き継がれ、平安時代の礎となった。

平安初期 10章-2 「平安遷都」

2013-10-02 | 平安時代
(1)長岡遷都

敵の多い平城京に於いて、桓武天皇が打ち出した策は、天武天皇系の創設した平城京を、
貴族、官僚、寺社ごと捨てることだった。
さらに当時の奈良・平城京は長年の使用により、排泄物の蓄積や、大仏建立で流出した
水銀による水質汚染なども深刻であった。

そこで、母方の血である渡来人秦氏と関係の深い土地で、すでに秦氏が開拓を始めていた
山背国の土地を、自ら狩と称して現地視察を繰り返し、水と陸の便が良いとして、
784年「長岡京」への遷都を決めた。

(長岡遷都の理由)
①平城京は、天武天皇系の都であり、天智系として人身の一新を図る。


②巨大な権力を持つ南都六宗を隔離することで、政治と宗教の分離を図る。


③渡来人との関係の深い土地を基盤とする


④水陸の便がいい


(2)藤原種継 暗殺事件
長岡京建設の責任者となったのは、自分を皇太子に推した式家・藤原百川の甥「藤原種継」であったが、
あるとき、闇夜にまぎれて矢で打ち抜かれて暗殺されてしまう。


この暗殺事件の犯人とされたのは、弟「早良親王」に近い大伴家と佐伯家であった。
特に首謀者とされたのは、暗殺事件時すでに亡くなっていた、万葉集の偏者「大友家持」で、
墓を暴かれ、除名されている。
同時に「早良親王」も天皇の地位を危うくする者として、淡路島に流刑されたが、
早良親王は最期まで無実を訴えたまま、護送途中に変死した。

その後、桓武天皇の周辺に死者、病気が続出し、地震、洪水などの天変地異が多発する
ようになり、早良親王の呪いをおそれた桓武天皇は、建設途中の長岡京を放棄する。


(3)早良親王の呪い
早良親王が悲劇の死を遂げた後、桓武天皇の周辺では不吉なことが相次いだ。
・桓武天皇の皇后が二人相次いで死亡
・皇太子の「あて皇子、のちの平城天皇」が病に伏せる
・天然痘が流行、飢饉が起こる
・天変地異(相次ぐ洪水、富士山の爆発、頻発する地震)

これらの不吉な事が、桓武天皇が天皇の資質のない出身であるのに即位した
からだと人々が噂するのを畏れ、また、無実の罪で死んだ早良親王の呪い
だとして、長岡京を捨てて、別の地に都を移すこととなる。



(4)794年 平安遷都

呪いに悩んでいた桓武天皇を助けたのは、「和気清麻呂」であった。
和気清麻呂は、奈良時代に、称徳天皇の愛人である怪僧「道鏡」の天皇のっとり作戦で
ある[宇佐八幡神託事件」を阻止し、道鏡によって流刑されていたが、天智天皇系の時代になり、
都の官僚として戻ってきたいた。

和気清麻呂は、長岡京を捨て、京都市に新しい都を建設するようアドバイスする。


こうして、694年藤原京遷都からちょうど100年後、784年長岡遷都から10年後の794年、
周りを山で囲まれ、川に挟まれた盆地に「平安京」が移された。

これが、平安時代のはじまりである。

(5)平安京の構造
平城京や長岡京同様に、唐の長安風の碁盤の目のような街で、
中央を羅生門から朱雀大路がのびて、朱雀門を抜けて「平安宮」とよばれる大内裏へ続く。

朱雀大路を挟んで対照に、内裏から見て右手を「右京」とし「西寺」と「西市」があり、
内裏から見て左手を「左京」として「東寺」と「東市」がおかれました。
平城京と違って、都に寺は、この2つがあるくらいで、宗教と政治の切り離しが見られます。


また、政治の場である朝堂院と、生活の場である内裏が切り離されているのも、特徴です。

平安宮(大内裏)
-----朝堂院(儀式の時に官人達が整列する院)
-----大極殿(天皇が儀式に出る場)
-----豊楽院(ぶらくいん・宴会場)
-----内裏-------紫宸殿(ししんでん)天皇が政治、儀式をする所
     ------清涼殿(せいりょうでん)天皇の生活の場






後に、「藤原緒嗣(おつぐ) 」の、都の造営が農民を苦しめている
というアドバイスで、右京の建設を途中放棄して、農民の負担を軽減している。
その為、当時の右京は「羅生門に鬼が出る」といわれるほど不衛生な湿地帯で、
低所得者が住み着いたため、治安も悪かった。
貴族達は、左京に住んでいた。





平安初期 10章-1 「49代光仁天皇、50代桓武天皇(平安遷都以前)」

2013-10-01 | 平安時代
(1)第49第 光仁天皇
【天智系への変換を成しどけた天皇】

奈良時代は、聖武天皇の母に始まり、聖武天皇でピークを迎え、聖武天皇の娘の称徳天皇で終焉する。
それと同時に、[壬申の乱]以降続いてきた、天武天皇(大海人皇子)系の天皇も終焉した。

奈良時代の天智天皇系の根絶やしの策略をかいくぐって生き残ったのは、
天智系「白壁王」こと「光仁天皇」であった。
酒におぼれた凡人で、殺す程の者でもないという馬鹿を演じながらも、細々と天智天皇系の血を
つないできた甲斐あってか、「藤原永手」の後押しを受けて、新たな天皇として、62歳という高齢で
即位することとなった。
天智天皇系の復活は、奇跡的ですらあった。

光仁天皇は、62歳から10年程天皇に就いた。
その10年の間に、天武系後継者達は、廃帝になったり急死したりし、
天武系の血はここで完全に途絶えた。


(2)第50代 桓武天皇

復活した天智系の光仁天皇の子で、次期天皇となった桓武天皇は、元々は皇太子の候補にすら
入っていない存在であった。
母「高野新笠」が、百済王の末裔で、帰化渡来人系の出身という身分の低さから、高級官僚に
なるべく教育を受け、皇太子は他に任せていた。

しかし、当時の皇太子であった「他戸皇子」は、その母「井上内親王」が、光仁天皇を呪い殺そう
としたという疑いで親子共廃帝となったうえ、変死してしまい、皇太子の座が突然空くことになった。
そこで、桓武天皇(当時は山部皇子)が、式家「藤原百川(ももかわ」の推薦によって皇太子となる、
これまた奇跡の天皇への道であった。
(※藤原百川は、藤原不比等の宇合系の孫である。)


・即位後は、実弟の「早良親王(さわら)」を皇太子とした。

(3)桓武天皇の即位宣言
天智天皇系2代目である「桓武天皇」の即位は、斬新なものであった。
この、桓武天皇の即位宣言は、ほぼ形を変えずに、幕末まで続けられることとなる。

1、天武天皇系を否定し、天智天皇系であることを前面に出す。
2、天智系の「近江令」に基づくこと。
3、天皇の地位(権利)は神話的なものでなく、律令によると宣言。


(4)敵だらけの平城京
桓武天皇が天智系であることを押し出しても、天武系によって創設された
奈良・平城京はそうはいかなかった。
聖武天皇の仏教優遇により、農民は疲れ、荘園は拡大し、都も国も荒れていた。
当然のことながら、朝廷内の貴族、官僚達は天武天皇系が色濃く残る。
さらに桓武を悩ませたのは、朝廷の力を凌ぐ勢いで権力を持つ、奈良の六大寺院の
横暴な振る舞いであった。