(1)奈良時代の東北
朝廷が、「蝦夷」と呼ぶ東北地方を、律令制度に組み込もうとしたのは、7世紀から。
658年、斉明天皇のとき、「阿倍比羅夫(あべのひらふ)」を将とする軍を陸奥に送っている。
【多賀城創設】
8世紀後半、奈良時代頃の朝廷勢力は、東北中部にまで及び、
724年には宮城県に「多賀城」が置かれ、陸奥国府、鎮守府として軍事拠点としている。
多賀城は、1キロメートル四方の広さがあり、内部には朝廷儀式を行う政治的官庁や
竪穴式の兵舎などがあった。
この頃、時節大将軍として藤原宇合が、蝦夷を討伐している。
【伊治砦麻呂の乱】
桓武天皇即位の前年の780年、光仁天皇の時代、
蝦夷陸奥国の伊治城で、都から派遣された陸奥按察使(あぜち・陸奥の最高官)である
「紀広純(きのひろずみ)」が、蝦夷出身の郡司「伊治砦麻呂(これはりのきみあざまろ) 」
の反乱により殺され、伊治城が落ち、多賀城を焼き払われてしまう。
これより38年、朝廷と蝦夷の戦いがはじまる。
(2)桓武天皇の蝦夷討伐
789年、朝廷は、征東大使「紀古佐美(きこのさみ)」率いる5万の大軍を出すも、
蝦夷の首領「阿弖流為(あてるい)」に大敗。(第一回遠征)
東北側にしてみれば、朝廷による侵略であった。
794年、3年の準備期間を経て、征夷大将軍「大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)
率いる第二回蝦夷討伐軍を派遣。
この時、副将軍として最前線で活躍したのが、「坂上田村麻呂」であった。
797年、「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) 」を征夷大将軍として派遣し、
準備期間を経た801年、3度目の蝦夷討伐戦を開始する。
この時の兵は、豪族や郡司などの裕福な家の子息から兵を集める「健児(こんでい)」で
軍を編成している。
802年、とうとう蝦夷のリーダー「阿弖流為(あてるい)」とモレが降伏した。
これを機に東北平定は進み、鎮守府を、岩手県胆沢城(いさわ)に移し、
翌年803年には、さらに北に「志波城(しわじょう)」を築いている。
都を連行された「アテルイ」と「モレ」は、坂上田村麻呂の命ごいも虚しく、
処刑されました。
蝦夷との戦いは、811年嵯峨天皇の時に「文室綿麻呂」を征夷大将軍としたのが最後。
朝廷は、従った蝦夷を「公民」扱いし、族長を郡司とし、人々を戸籍管理し、税を
収めさせました。
(3)坂上田村麻呂
【坂上田村麻呂】
渡来人「東漢」系阿知使主の子孫で、祖父、父(恵美押勝の乱で活躍)も武勇に
優れ、本人も体が大きく、武勇に優れた人物であった。
本人も、征東副使や、鎮守府将軍などを歴任し、武勇に優れた人物であった。
戦功により、後に大納言まで出世している。
京都の自宅を、「清水寺」とし、また806年には平城天皇の命で、
富士山本宮浅間大社の創設もしている。
平城天皇に仕えていたが、平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」では
嵯峨天皇につき、平城上皇の脱出を阻んだ。
京都の将軍塚は、田村麻呂の墓だと云われる。
朝廷が、「蝦夷」と呼ぶ東北地方を、律令制度に組み込もうとしたのは、7世紀から。
658年、斉明天皇のとき、「阿倍比羅夫(あべのひらふ)」を将とする軍を陸奥に送っている。
【多賀城創設】
8世紀後半、奈良時代頃の朝廷勢力は、東北中部にまで及び、
724年には宮城県に「多賀城」が置かれ、陸奥国府、鎮守府として軍事拠点としている。
多賀城は、1キロメートル四方の広さがあり、内部には朝廷儀式を行う政治的官庁や
竪穴式の兵舎などがあった。
この頃、時節大将軍として藤原宇合が、蝦夷を討伐している。
【伊治砦麻呂の乱】
桓武天皇即位の前年の780年、光仁天皇の時代、
蝦夷陸奥国の伊治城で、都から派遣された陸奥按察使(あぜち・陸奥の最高官)である
「紀広純(きのひろずみ)」が、蝦夷出身の郡司「伊治砦麻呂(これはりのきみあざまろ) 」
の反乱により殺され、伊治城が落ち、多賀城を焼き払われてしまう。
これより38年、朝廷と蝦夷の戦いがはじまる。
(2)桓武天皇の蝦夷討伐
789年、朝廷は、征東大使「紀古佐美(きこのさみ)」率いる5万の大軍を出すも、
蝦夷の首領「阿弖流為(あてるい)」に大敗。(第一回遠征)
東北側にしてみれば、朝廷による侵略であった。
794年、3年の準備期間を経て、征夷大将軍「大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)
率いる第二回蝦夷討伐軍を派遣。
この時、副将軍として最前線で活躍したのが、「坂上田村麻呂」であった。
797年、「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) 」を征夷大将軍として派遣し、
準備期間を経た801年、3度目の蝦夷討伐戦を開始する。
この時の兵は、豪族や郡司などの裕福な家の子息から兵を集める「健児(こんでい)」で
軍を編成している。
802年、とうとう蝦夷のリーダー「阿弖流為(あてるい)」とモレが降伏した。
これを機に東北平定は進み、鎮守府を、岩手県胆沢城(いさわ)に移し、
翌年803年には、さらに北に「志波城(しわじょう)」を築いている。
都を連行された「アテルイ」と「モレ」は、坂上田村麻呂の命ごいも虚しく、
処刑されました。
蝦夷との戦いは、811年嵯峨天皇の時に「文室綿麻呂」を征夷大将軍としたのが最後。
朝廷は、従った蝦夷を「公民」扱いし、族長を郡司とし、人々を戸籍管理し、税を
収めさせました。
(3)坂上田村麻呂
【坂上田村麻呂】
渡来人「東漢」系阿知使主の子孫で、祖父、父(恵美押勝の乱で活躍)も武勇に
優れ、本人も体が大きく、武勇に優れた人物であった。
本人も、征東副使や、鎮守府将軍などを歴任し、武勇に優れた人物であった。
戦功により、後に大納言まで出世している。
京都の自宅を、「清水寺」とし、また806年には平城天皇の命で、
富士山本宮浅間大社の創設もしている。
平城天皇に仕えていたが、平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」では
嵯峨天皇につき、平城上皇の脱出を阻んだ。
京都の将軍塚は、田村麻呂の墓だと云われる。