れきしぱうち

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平安後期 15章-15 「源平の争乱・前編」

2014-03-15 | 平安時代
(1)源平の争乱 年表

1180年~1186年の6年間に及ぶ、源氏と平氏の内乱を
「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」 という。

1177年---[鹿ケ谷の陰謀]
1179年---[治承3年の政変]後白河法皇の幽閉

1180年2月---安徳天皇の即位
   5月---以仁王・源頼真政の挙兵[宇治川の戦い]→失敗
   8月---源頼朝挙兵[石橋山の戦い]→失敗
   9月---源義仲挙兵
   10月---源頼朝挙兵[富士川の戦い]→勝つ
   12月---平重ひら[東大寺・興福寺焼き討ち]

1181年2月---平清盛死亡
   4月---養和の飢饉
   5月---源義仲[倶利伽羅峠の戦い]→勝つ

1182年------京で暴れる源義仲を、源氏が追捕

1184年------後白河法皇、平氏打倒を要請
   2月---[一の谷の合戦]

1185年2月------[屋島の戦い」
   3月------[壇ノ浦の戦い]

1189年---------[衣川の戦い]
        奥州藤原家滅亡
1192年---------後白河法皇死、源頼朝が征夷大将軍になる


(2)1180年 以仁王の令旨
1179年、平清盛によって後白河法皇が幽閉され、
かわって平清盛の孫である「安徳天皇」が即位した。

この天皇家及び朝廷をも支配する、平氏の横暴に対して、
1180年4月、「源頼政」は息子の仲綱とともに三条高倉御所を訪れ、
後白河法皇の第3皇子であり、安徳天皇の即位によって天皇になることが
絶望的になった「以仁王(もちひとおう) 」に
「源頼朝らの源氏を味方にして平家を討ち滅ぼすこと」を申し入れた。

「源頼政」は、[平治の乱]の際に、源氏でありながら源氏につかず、平氏側についたことで、
平氏に重用されて出世していたが、ここにきて、平氏を裏ぎり、源氏の挙兵を促した。

それに応じた以仁王は、『以仁王の令旨』を発布させると、源頼朝の叔父の
「源行家(ゆきいえ)」を東国に走らせ、まずは、伊豆国の「源頼朝」に令旨を伝え、
その後、他の源氏にも伝えるよう手配した。   ・・・『吾妻鏡』より

院の出した命令--------------院宣(いんぜん)
天皇の出した命令------------宣旨(せんじ)
皇后や親王の出した命令-----令旨(りょうじ)


【以仁王の令旨 訳】
東海・東山・北陸三道諸国の源氏、ならびに群兵らに下す。
清盛法師とその一族ら、反逆の輩の追討に早く応じること。

清盛法師ならびに宗盛らは、権勢をもって凶悪な行いをし、
諸寺の高僧を召し取りこめて、修学の僧徒を禁獄し、
または比叡山の絹米を横領し、百王の事蹟を絶ち、
摂関の首を切り、天皇に違逆し、仏法を破滅し、古代からの伝統を絶つ者である。

時に天地はことごとく悲しみ、臣民みな愁う。
そこで、私は後白河法皇の第二皇子であるから、天武天皇の旧儀を尋ねて、
王位を簒奪する輩を追討し、仏法破滅の輩を討ち滅ぼそうと思う。

もし帝王に三種の神器と神明のご加護があるならば、どうしてたちまちに諸国に
力を合わせようという志の者が現れないことがあろうか。

そこで、源氏、藤原氏、または三道諸国の勇士らよ、同じく追討に与力せしめよ。
もし同心しないものは、清盛法師ら一族に準じて、死罪・流罪などの罪科が行われるだろう。
もし勝って功績あるものは、即位の後には必ずのぞみのままに恩賞を与えられるだろう。
諸国よろしく承知し、宣旨に従って行え。
治承四年四月九日 前の伊豆守・正五位下・源朝臣仲綱


(3)1180年 宇治川の戦い
「以仁王」と「源頼政」の平家打倒の陰謀は、平氏に知れることとなり、
以仁王は、園城寺(滋賀県三井寺)や、宇治平等院を頼って平氏の軍から逃げた。

5月26日、宇治川を挟んで、平氏軍と対立することとなる。
以仁王軍は、宇治川の橋板をはずせば、平氏軍は渡ってこれないだろうと
思っていたが、平氏軍の猛者達は意に介さず、川を馬で渡り、以仁王は殺される。

この戦いで名を挙げたのが東国の「大庭景親」と「足利忠綱」であった。
打倒平氏の機運の高まりを感じた平清盛は、安徳天皇を連れて、都を福原に移した。

(4)東国の情勢
「源頼朝」は[平治の乱]で滅亡された源氏の生き残りで、流刑の地伊豆で、
伊豆の豪族北条氏の娘「北条政子」と結婚し、北条家の庇護を受けて暮らしていた。
東国は、源氏の影響力が濃い地域であった為、正当な源氏の後継者である「源頼朝」は、
一目おかれる存在であった。

[平治の乱][治承3年の変政][宇治川の戦い]の後、
東国は平氏の知行国となり、伊豆は、平氏系の伊東氏や、山木氏が勢力を誇っていた。
源氏派の地元豪族達は、平氏の目代(知行国を地元で管理する者)に迫害され、平氏に不満を抱いていた。

その為、源氏の直系である「源頼朝」より挙兵の連絡が届いたときは、
「大庭景義(平氏側の大庭景親の兄)」や、三浦氏は涙を流して喜んだ。

(5)石橋山の戦い
1180年8月、源頼朝は、手始めに伊豆目代の「山木氏」の館を襲撃して勝った勢いで、
「北条時政」ら300騎を従えて、相模湾に面する石橋山に陣取り、三浦氏の参戦を待った。

しかし、平氏側は大軍をもって「大庭景親」が石橋山の前方を塞ぎ、
「伊東氏」が後方を塞ぎ、合流するはずであった地元勢力の三浦軍が、
大雨で到着が遅れた隙をはかって攻め入った為、
源頼朝は、命からがら逃げるのが精一杯であった。

(6)源頼朝の再挙兵
[石橋山の戦い]から命からがら逃げ出した「源頼朝」は、三浦氏と合流して安房の国(千葉県)
に上陸し、安房国より各地豪族達に、打倒平家の名の元、源氏につくよう手紙を出し、
戦わずして、東国一帯の豪族・武士団を味方につけて、東国を支配化におき、
源氏の先祖からの土地である鎌倉に、源氏の本拠地を置いた。

また、以仁王の令旨に刺激されて、
信州では、木曽源氏である「木曽義仲」、甲斐の「武田信義」、
四国では河野氏、九州では菊池氏が兵を上げ、大寺社もこれに応じた。

(7)富士川の戦い
平氏は、東国へ追討軍を出したが、折からの西国の飢饉もあり、
人数、士気ともに上がらぬままの出兵であった。
対して、迎え撃つ源氏は、膨れ上がる一方であった。

1180年10月、富士川をはさんで陣をとっていた両軍であったが、
夜襲をかけようとした源氏軍の動きに驚いて飛び立った水鳥が一斉に飛び立ち、
それに驚いた平氏軍が、パニック状態となって、我先に逃げ出した為、
富士川の戦いでは、一線もしないまま、源氏の勝利となった。


(8)平氏の追捕
1180年12月、平清盛は、福原から京に都を戻したうえで、大規模な追討軍を出した。

1181年1月には、平清盛の命を受けた「平重衡」が、南都の大寺社の反乱を鎮める為、
東大寺と興福寺をはじめとする、南都の寺院を焼き払った。

(9)平清盛の死
東大寺・興福寺を焼き払った後、
高倉天皇と、平清盛が相次いで、高熱を出して死去した。
人々はこれを、仏の罰がくだったと噂した。