れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
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縄文時代 3章-5 「縄文時代の主な遺跡」☆

2013-03-05 | 縄文時代
(1)縄文時代の主な遺跡

三内丸山(さんないまるやま)遺跡・・・青森県
1994年、この遺跡の発掘で、それまでの野蛮的で定住せずに狩猟生活をする
縄文人のイメージが覆されることとなる。
ここでは、縄文前期~中期の1500年間にわたって、500人を超える大集団の、
文化的な定住生活の様子が伺える。
巨大な土地は区画整備され、居住区、広場、墓場、ゴミ捨て場を備え、栗の栽培も
行われ、直径1メートルの柱を6本使う巨大な大型建物跡、500戸を越す竪穴式住居跡
が発掘されている。
また、遠方地との交易も認められている。

大森貝塚・・・東京都
1877年明治時代に、米国人のモースが発見し、日本の考古学がここから
始まった。日本で初めて、科学的な手法で発掘調査が行われた場所である。

亀ヶ岡遺跡(かめがおか)・・・青森県
精巧な文様や、黒、赤の漆で飾られた縄文晩期の多様な土器が大量に出土した。
有名な遮光器土器もここから出土している。
東日本に分布する「亀ヶ岡式土器」の名称の由来となる。


大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)・・・青森県
縄文後期の遺跡で、2つの環状列石(サークルストーン)が2つある。
「日時計」の役割と、共同墓地とする説が有力である。

尖石(とがりいし)遺跡・・・長野県八ヶ岳山麓
標高約1000メートルの台地にある、縄文中期の大規模集落遺跡。
「縄文のヴィーナス」と呼ばれる女性土偶が完全な形で出土した。


鳥浜貝塚・・・福井県
縄文草前期の日本海側貝塚。くし、弓などの木製品や、漁業用縄製品も多数出土した。
ヒョウタンやエゴマなど、栽培植物の種もあった。

津雲(つくも)貝塚・・・岡山県
縄文後期の人骨170体以上が出土した。
多くが「屈葬」され、成人は「抜歯」されたあとが見られる。

福井洞穴(ふくいどうけつ)・・・長崎県
縄文草創期の約1万2千年前洞穴から「細石刃」と一緒に、「隆起線文土器」「爪形文土器」
が出土した。それまで、縄文初期の土器は、文様が入ってないとされていたのを覆した。

⑨上野原遺跡・・・鹿児島県
縄文早期の、約9500年前の日本最古の大規模な集落遺跡。

⑩夏島貝塚・・・神奈川県
縄文早期の貝塚で、「夏島式土器」はそれまでの土器編年を改めさせた。
活発な漁業活動が確認された。

⑪堀之内貝塚、姥山貝塚、加曽利貝塚・・・千葉県
貝塚は、いずれも「馬蹄形=U字形」

縄文時代 3章-4 「縄文晩期と、大陸文化」

2013-03-04 | 縄文時代
(1)縄文晩期頃の世界
今から1万2000年程前~3000年前は、世界的に地球温暖化がすすみ、
人類の人口が増えて、文化が爆発的に発達していった頃であった。

3000年程前、
エジプトでは、いくつかの王国が興きては滅び、巨大なピラミッドが幾つも建てられた。

メソポタミアでは、遊牧と農耕という二つの生活形態がうまれ、

アッシリア人達は鉄器を武器として征服活動が活発化し、巨大なアッシリア帝国を作った。

地中海、ギリシャやクレタ島などの「海の民」と船を武器に海を制し、

パレスチナでは、ペリシテ人の傭兵部隊長であったダビデが、ヘブライ人に寝返って、
エルサレムを首都とするヘブライ統一王国を樹立し、ソロモンがそれを引き継いだ。

アジア中国では、最初の王朝「殷」が黄河流域に発達したが、12代目の「紂王」が、
愛妾「妲己」に夢中になり、国が疲弊し、周の「武王」が新たな王朝を興す。
周の武王が、殷の紂王を討ったその時、共頭山が崩れ、彼方から彗星が現れたと
伝えられる。
  
紀元前1057年、ハレー彗星が地球に近づいた、まさにその時であった。

しかし、東アジアの多くの地域では、国を樹立するには程遠い原始的な生活を送っていた。
日本では、縄文時代がようやく晩期にさしかかった頃である。



(2)渡来人と日本
殷を滅ぼした周が、その勢いを衰えさせた頃、魯・鄭・楚・秦・燕などの諸侯が
天下を狙って、戦を繰り返し、春秋戦国時代に突入した。
(紀元前771年の周の東遷~403年の韓・魏・趙の独立までを春秋時代、
さらに221年の秦の統一までを戦国時代という)
  

大陸の動乱は、陸続きの朝鮮半島にも大きな影響を与えた。
戦国7雄の一つ「燕」が、朝鮮半島にも、勢力を拡大していく中、
一部の朝鮮人達は、新天地を求めて、海を渡り、日本に渡来する。
 

辿りついた九州の地を開拓し、持ち込んだ稲を耕した。
初めて米を知った縄文人にとって、大きなカルチャーショックだったかもしれない。
  

当初から技術力の高い、整然とした水田跡は発掘されているが、
いまだ、渡来人だけの村の跡は発見されていない。
おそらく、彼等は最初から独立した集団を営むことはせず、縄文人と共に
社会を作っていったのではないか。
    

朝鮮半島で完成した水耕耕作を引き継ぎ、日本でも、食糧を安定供給する新しい生活が
九州で起こり、ここから日本の文化は急速に発展していく。
同時に、人が人を支配する国家の礎が日本に根付いたことでもある。

中国の戦国時代に平行する、紀元前4~5世紀ごろである。


縄文時代 3章-3 「縄文土器」☆

2013-03-03 | 縄文時代
(1)縄文土器
地球が温暖化し、栗やどんぐりなどの木の実を採集する生活となり、
それらを入れるカゴなどが出来、その後、土をこねて複雑な工程を
要する土器が、出来ていったと考えられる。


(2)縄文土器のデザインの遍歴
縄文時代は、縄文土器のデザインの違いで、
草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つの時期に分けられる。

①【草想期・1万3000年前~1万前】
実用的な煮炊き用のシンプルな深鉢形の土器で、底は平らや丸型が多い。
模様は、粘土の細い紐を貼りつけた「隆起戦文・りゅうせんもん」が多い。
  

②【早期・1万年前前~6000年前】
深鉢で、土に突き刺して使う為、底がとがった「尖底土器・せんていどき」が中心となる。
関東では、紐を押し付けて縄の模様を入れる「撚糸文・よりいともん」、
関西では、彫刻した棒を転がして模様をつける「押し型文」が目立つ。


③【前期・6000年前~5000年前】
平らな底が普及、朝鉢や台付鉢、うるし塗り土器など、多様性が増す


④【中期・5000年前~4000年前】
土器の装飾的なデザインに多様性が増す。
特に関東~中部、特に新潟では、火が燃えているような「火炎土器」がみられる。
  

⑤【後期・4000年前~3000年前】
デザインが一層複雑になり、きゅうす形(注口土器)が普及定着する。
西日本の土器は、模様がシンプルになる。


⑥【晩期・3000年前~】
東日本では、土器のデザインの多様性が一層すすみ、「亀ヶ岡式土器」のような
精巧な文様をほどこした土器が現れる。
西日本では種類が減り、縄文を使わず、器面を磨いた「黒色研磨土器」がひろがり、
粘土紐を貼りつけただけの「突帯文土器・とったいもんどき」が現れる。
  

(3)東西日本の土器の違い
縄文時代は、温暖化によって、食べ物や生活が劇的に変化した時期でもある。
東西日本で、気温の差からくる食生活の違いがみられるようになった。

【東日本】
落葉樹林帯では、動物性食糧資源の調達と、貯蔵や、骨角器の製作、
土器のデザインが発達していく

【西日本】
照葉樹林帯では、採集や狩猟だけに頼らず、雑穀の栽培を行う段階にすすみ、
植物性食糧資源の調達と、調理の為の道具が発達し、土器はよりシンプルに実用的になる。


また、実用化とは逆に、呪術的、祭祀的目的の土器、土偶も多く作られているが、
その使用目的や、使用方法はよくわかっていない。
     


縄文時代 3章-2 「縄文時代の生活」☆

2013-03-02 | 縄文時代
(1)縄文の居住
「平地式住居」から「竪穴式住居・たてあなしきじゅうきょ」へと移っていく。

竪穴式住居とは、地表を50センチ程掘って床面とした半地下式の住居。
掘立柱によって支えられた屋根は、円錐屋根がつく。


それまで外にあった「炉」は住居内部の中央に設置され、定住生活を物語っている。

温暖化による食糧確保の安定により、定住化と人数の大規模化がすすんだ
と考えられる。
青森三内内丸遺跡では、500人を超える大集団で、中央広場、集会所、
貯蔵庫、ゴミ捨て場などが分離した初歩的なムラを作って、
機能的に暮らしていた跡がみれる。


(2)狩り 
温暖化により、小型獣の狩猟が住居近くで、小規模に容易に出きるようになった。

狩猟道具が、動きの素早い中小動物に合わせて、弓矢などに変化していく。
北海道や東北では、落とし穴を利用した狩猟も盛んであった。

また、野生のオオカミなどを飼いならすか、大陸から飼いならされたイヌが入ってきたか、
縄文時代には、人とイヌが共存して、狩猟をしていたことが確認されている。


川を遡上するサケは、西日本でもみられ、縄文人の貴重なカロリー源であり、
漁法もいろいろ工夫され、追い込み漁法などもあったと言われる。
(明治頃までは、山口県でも鮭の遡上が見られていた。)


(3)漁業と海への進出
・旧石器時代の貝塚は発見されていないが、縄文時代に入ると巨大な貝塚
全国でたくさん発見される。それは、この頃の温暖化の海面上昇により、
現在より3メートルも高くなり、干満の激しい入り江では、年中採集できる貝類が
よく採れた為だと考えられている。

・「丸木舟」で、沖まで漁に出ていた。(東京都遺跡)
東北、三陸海岸では、獣の角から、釣針を加工して使っていた形跡がのこる。


・東北~北海道では、アザラシ、オットセイなどの大型海獣猟も行われていた。

(4)抜歯の風習
成人の儀式や、婚姻の際などの人生の折りに、歯を抜く習慣があった。
男女や、部族、職種によって、抜く歯の場所に違いがあったと考えられている。
岡山県津雲遺跡の墓地から出た頭蓋骨は、そのほとんどが抜歯されていた。
最高で14本の抜歯が確認されている一方、上の犬歯しか抜歯していない男性の骨も
たくさん出てきた。
独身のまま一生を過ごした男性が多かったのかもしれない。
      

特に、特徴的なのは、前歯に切れ目をいれる「叉状研歯・さじょうけんし」で、
東海~近畿地方のでみられている。
一つのに、老若男女問わず、4~5人がいたので、叉状研歯を引き継ぐ有力者か
呪術師の家系があったのかもしれない。

(5)宗教
人々の生活は自然の脅威にさらされ、左右されていた為、
自然物や、自然現象の中に信仰を求める、アニミズムであった。

信仰の呪術的遺物に、
女性をかたどった「土偶」、男性をかたどった「石棒」がある。


(6)墓
墓は、集落の中央に墓地を作り、その周囲に円形に住居を配した。
全体に、呪術的な思想の発達によって、死者と生きる者とのつながりが見られるようになる。

また、死産や生後すぐに亡くなった子は甕に入れ、住居の入り口に埋葬し、それを日々またぐ
ことで、母親の胎内に魂が早く戻ることを願ったと考えられるものもある。


縄文時代は、膝を抱えるように体を折って土に埋める「屈葬」が多くみられる。

東日本では、墓穴の上に石を置いたり、並べる風習がみられ、
墓地全体が、大きな石の輪になった「環状列石」と呼ぶ墓もある。



縄文時代 3章-1 「縄文時代の発見と、特徴」☆

2013-03-01 | 縄文時代
(1)地球温暖化
1万8000年前ころ、ヴェルム氷期が終り、気候は「温暖化」し、
「完新世」に入っていく。


【日本列島の誕生】
温暖化につれて、氷が溶け、海面が急激に上昇していき、
大陸とつながっていた日本列島は、陸橋が海に沈み、
日本列島は大陸と切り離された。

【植物の変化】
それまで、寒冷地に生える針葉樹林であったが、
東日本にブナ、ナラなどの「落葉樹林」が、
西日本にシイ、カシなどの「照葉樹林」(常緑広葉樹林)が広がった。

【動物の変化】
動物は、それまでのマンモス、ナウマンゾウ、ヘラジカなどの大型獣が絶滅し、
かわって、ニホンシカ、イノシシなどの小型動物が増えていく。

こうした環境の変化に伴って人々の生活も大きく変わり、
時代は縄文時代へと入っていく。


(3)縄文時代の発見
1877年のモースが発見した「大塚貝塚」の中から、縄文土器や石器が見つかった。

日本の縄文時代の発掘は、外国人の功績が大きい。
明治10年(1877年)横浜に上陸したアメリカの生物学者「モース」が、
東京へ向かう汽車の中から、大森に巨大な貝塚があるのを発見したのが、きっかけだった。
その貝塚の中に、土器や石器の破片が混ざっていたのだった。
モースによる「大森貝塚」発見は、日本の考古学の出発点となった。


(3)縄文時代の定義
縄文時代は、約1万2000年前~2400年に弥生時代に入るまで、
約1万年も続く。


縄文時代の特徴は
①土器の出現
  ドングリ、栗等類の出現により、収集と煮炊きの必要から、
  土器がつくられ、縄で模様をつけた「縄文土器」が出来た。

②弓矢の使用
  狩猟の対象が動きの素早い中動物になった為、道具が変化した。 
 
③磨製石器の増加
  道具の製作技術があがる。

④骨角器
  動物の骨や角を加工して、釣り道具を作るなど道具とした。

⑤海の利用
  貝塚や、丸木船を使って、海産物を食糧とした。

⑥生活の安定
  大型動物を追う生活から、住居の近くでの採取、狩猟生活にかわり、
  「竪穴住居」で、小集団で定住するようになる。

⑦信仰をもつ
   自然崇拝的なアニミズム。土偶などの宗教的道具が出来る。

(4)縄文時代の区分け
縄文時代は、土器の形態らよって、
草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6の区分に分けられる。