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れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
☆は山川出版「詳細日本史研究」に対応しています。

奈良時代 9章-8 「天平文化」

2013-09-08 | 奈良時代
(1)奈良時代の書物

①古事記
②日本書記(六国誌の一番目)
③風土紀
④万葉集
⑤懐風藻

(2)天平時代の仏教

・鎮護国家-------仏教によって、国家の安定をはかる。

・南都六宗-------三論 、成実 、法相 、俱舎 、華厳 、律

・南都七大寺-----東大寺 、西大寺 、大安寺 、薬師寺、
         元興寺 、興福寺 、法隆寺(もしくは唐招提寺)


(3)天平文化の建築

①東大寺------東大寺法華堂(三月堂)、東大寺転害門
②正倉院-----校倉造り(あぜくら)




③唐招提寺金堂、講堂
④法隆寺夢殿、伝法堂








奈良時代 9章-7 「奈良時代の農民のくらし」

2013-09-07 | 奈良時代
(1)民衆と土地政策

【農民に課せられた税】
  ・祖-------6歳以上の男子に、国から田を与えられ(口分田)、
        収穫高の3%を税として納める

・庸--------都に出て土木作業などの労働力を税として出す。
        遠方地方の場合は、労働力のかわりに、布を出していた。

  ・調--------その土地の特産物を税として出す
 
  ・雑徭(ぞうよう)----成人男子は、年間60日を国司の命令で人夫や兵として
        働く義務で、往復に長期かかる、命がけの役務で、当たった家は、
        生活が大変になった。




  ・防人(さきもり)・・・北九州で3年間、外国からの侵略防止の兵に
      就く兵役。都の防御に当たる兵は衛士(えじ)として働く。


【1、公地公民制のくずれ】
人口増加、都の増設、貴族の豪華な生活の為に税を重くする
  ↓
班田制の負担に耐え切れず逃げ出したり、私度僧の増加で、荒廃田が増える
  ↓
税収の減少

【2、長屋王政権】
722年「百万町歩開墾計画」
  国がお金と道具を出して、農民に開墾させようとしたが、効果なし。


723年「三世一身の法」
  灌漑施設から新規開拓した者は、子、孫、ひ孫の三代先まで、土地の所有を認める。
  ただし、既存の灌漑施設を利用した墾田は、本人一代のみの所有。


【3、橘諸兄政権】
743年「墾田永年私財法」
  開墾した土地の永年の所有を認める。
  ただし、地位によって面積の制限あり。
   ↓
  寺社、貴族の初期荘園につながる。


【4、道鏡政権】
765年「加墾禁止令」
  寺社以外の、墾田を禁止するが、772年撤回。

【5、初期荘園】
寺社や貴族、有力者が、周辺農民に賃金を出して開墾。
特に東大寺は、北陸地方に大規模荘園をもつ。

【6、地方の乱れ】
都での政治の荒れや散財により、地方政治に手が回らず、
地方の律令が乱れていく。

(2)貧窮問答歌

万葉集に「貧窮問答歌」という、貧しい農民の暮らしを詠んだ歌があり、
筑前国(現福岡県)の国守を努めた、「山上憶良(やまのうえのおくら)」が詠んだ。

「この世は広いといっても、自分にとっては狭く冷たいものである。
太陽も月も自分には、照り輝いてはくれない。
綿も入ってないぼろぽろの着物を肩にかけ、かたむきかけた竪穴式住居の
中で、地面にわらを敷き、枕の方に年老いた両親をねかせ、足の方には
妻と子を寝かせ、寄り添って嘆き悲しんでいる。
最近は、ご飯を炊いたこともなく、炊事道具にはクモの巣が張ってある。
それでも税を取り立てる里長は、寝ているすぐそばでムチをならして
税を出せ、と責め立てる。この世とは、こんなにも無常なものだろうか。」



(3)神火と豪族

8世紀後半ごろから、地方で「神火(しんか)」と呼ばれる事件が、頻繁に起きるようになる。
神の怒りに触れておこる家事、という意味だが、実際は、地方社会における
郡司の地位争いを背景に起こる不審火であった。

現職の郡司の倉に、対立する豪族が放火して、その責任を郡司に追わせて、
追い払おうというものだったと考えられている。

当時の郡司は、地方有力豪族から選ばれるが、8世紀後半には有力豪族が
たくさん現れ、郡司の地位を争うようになっていた。

790年政府が出した法令には
「田植えの時、酒やごちそうをふるまって、大勢の人手を確保することを
禁じているにもかかわらず、都の近くの富裕者は御馳走で人手を独占し、
貧しい者は人手の確保が出来ずに田植えが出来なくなっている。
これは道理に反するので、今後は厳しく取り締まる」とある。

790年頃の都郊外では、財力を持つ富裕者が出て、古くからの豪族や
公地公民制度が崩れてきていることが、うかがえる。

奈良時代 9章-6 「48代称徳天皇と、道鏡」

2013-09-06 | 奈良時代
(1)藤原仲麻呂の乱

淳仁天皇ー藤原仲麻呂に政治を任せ、「孝徳上皇」は滋賀県の別荘で病気療養
していた時に、その病気を治す僧「道鏡(どうきょう)」と出会う。
孝徳上皇の激しい寵愛を受けた「道鏡」は、孝謙上皇の側近として、
政治にも口を出すようになっていく。

746年、この「道鏡」の振る舞いが気に入らない「藤原仲麻呂=恵美押勝」は、
淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に注意したことで、孝謙上皇の激怒をかい、
結果、藤原仲麻呂とその一族は、悉く殺されることとなる。


唯一、六男が殺されずに流刑となり、桓武天皇時代に陰陽頭として、
藤原南家が残ることとなる。

淳仁天皇は、歴史の中で長らくその名を「廃帝」とされ、江戸時代に
ようやく「淳仁天皇」との呼び名を与えられるという扱いであった。
女帝時代の末恐ろしさを真正面から体現した、切ない人生の人である・・・。


(2)第48代 称徳天皇の重祚

746年、藤原仲麻呂を死罪に、淳仁天皇を廃帝にし、淡路島に流罪とした
孝謙上皇は、道鏡を側近として、再び「称徳天皇」として即位した。

【重祚】
皇極天皇が斉明天皇として再度即位したことを含め、
天皇が二度即位することを、「重祚(ちょうそ)」と言う。

756年には、道鏡は称徳天皇より「太政大臣禅師」、さらに「法王」
の称号を受け、朝廷トップの地位に就くようになる。
皇族でない者が、太政大臣に就くのは、異例な事であった。



(3)和気清麻呂の勇気

称徳天皇の寵愛をほしいままに受け、朝廷最高級の地位にあった
道鏡が、どうしても手に入れることが出来ないものが「天皇」の地位であった。

ちょうどその頃、「阿蘇麻呂(あそのまろ)」が、九州大分県の宇佐神宮のお告げ
として「道鏡を天皇にすれば、世が治まる」との神託を持って天皇に報告した。

天皇の血を引かないものが、天皇になるなど、あり得なかった為、
さすがに称徳天皇も、それを鵜呑みにせず、「和気清麻呂(わけのきよまろ)」に、
九州に派遣して、確認させた。

宇佐神宮では、そんな神託がないばかりか、「天皇は必ず皇族の者でならねば
ならない。そんな者は、排除すべきだ」との神託を受けて帰京する。
その言葉を、称徳天皇ー道教に伝えれば、処刑されることはわかっていたが、
自身の身の安全を顧みず、この事を天皇に伝え、鹿児島に流罪となった。

和気清麻呂の姉で、孝謙天皇に仕え、後に出家していた「広虫(ひろむし)」
もこの時に「狭虫(さむし)」と、意地悪な名に変えられて流罪にあう。
だが、和気清麻呂も、広虫も、桓武天皇時代にその頭脳や人柄を認め
られて、朝廷で高い地位につくようになる。

770年、称徳天皇の病死により、道鏡は権力を奪われ、流罪となった。

聖武天皇に息子が育たず、娘が結婚、出産しなかったことで、
42代から続く天武天皇系の血筋は絶えることとなる


奈良時代 9章-5 「46代孝徳天皇と藤原仲麻呂」

2013-09-05 | 奈良時代
(1)第46代 孝謙天皇

・聖武天皇と光明皇后の間に息子が育たず、娘である阿部内親王が唯一の子であり、
女性初の皇太子として育てられ、父からの譲位によって、749年に
第46代 孝謙天皇として即位する。

752年の東大寺の大仏開眼に、当時の天皇として出席している。

孝謙天皇の時世は、母光明皇太后の影響力が強かった。


(2)藤原仲麻呂

朝廷内権力抗争では、一旦は藤原家の勢力が落ち、長屋王、橘諸兄などの
皇族系が勢力を持つが、藤原家出身の光明皇后は、藤原武智麻呂の子で、
自分の甥である「藤原仲麻呂(なかまろ)」に強力なバックアップをして、
朝廷内で権力をもたせた。


特に752年の孝謙天皇の即位と同時に、皇太后直属機関である「紫微中台(しびちゅうだい)」
の長官に任命している。
「紫微中台」は元々皇太后の家政機関であるが、光明の頃は、政治・軍事機関
として機能していた為、その長官は朝廷内に大きな権力を持つようになる。

この頃、孝謙天皇との関係も良好で、孝謙天皇は大仏開眼供養後も、宮殿に帰らず、
藤原仲麻呂の私邸に戻るなど、仲麻呂と暮らしを共にしていた。

【道祖王の失脚】
756年、聖武天皇は死ぬ間際に、跡継ぎのない孝謙天皇の後を、
「道祖王(ふなどのおう)」を皇太子として、跡を継がせるよう遺言を残して死去。

だが、藤原仲麻呂の策略で、「道祖王」は皇太子からおろされ、
かわりに、「大炊王(おおいおう・後の淳仁天皇)」を皇太子とする。


「大炊王」は、藤原仲麻呂の死んだ長男の妻と結婚し、仲麻呂の義理の息子として、
仲麻呂の屋敷で暮らしていた。

【橘奈良麻呂の変】
756年に聖武天皇が没し、聖武時代に朝廷で権力を持っていた「橘諸兄」が左大臣を辞任
して以降、ますます権力をふるう藤原仲麻呂に不満を抱いた、橘諸兄の子「橘奈良麻呂」は、
757年に挙兵するも、失敗して処刑。藤原仲麻呂は、反対勢力の一掃に成功する。


(3)第47代 淳仁天皇

天武天皇の子、舎人親王の子「大炊王(おういのおう)」は、
父の舎人親王が3歳の時に亡くなったこともあり、朝廷内においてその存在は薄く、
藤原仲麻呂が自身の屋敷で育てていた。

藤原仲麻呂の強い推薦によって、「大炊王」が皇太子となり、
758年に、孝謙天皇からの譲位で、淳仁天皇が即位する。

しかし、天皇といっても名ばかりで、藤原仲麻呂の傀儡(あやつり人形)に
過ぎず、藤原仲麻呂の好きかってな振る舞いは、とどまることを知らなかった。


奈良時代 9章-4 「聖武天皇と大仏開眼」

2013-09-04 | 奈良時代
(1)聖武天皇の流浪の遷都

・天然痘の流行、[藤原弘嗣の乱]の度重ねる不幸にショックを受けた聖武天皇は、
光明皇后を連れて、近畿内の旅に出る。

・741年・・・京都府山背国 恭仁京(くにきょう)に遷都。
      (このあたり、みかの原は、天皇家や橘家の別荘地であった)

・742年・・・滋賀県紫香楽に、離宮を建てる。
(恭仁京と、紫香楽は同じ山間部で、車なら1時間程度の近い距離)

・744年・・・大阪府難波宮

・745年・・・やっと奈良平城京に戻る。

そうした旅と各地での都造営に、民は疲労し、政治は乱れ、橘諸兄も没落していく。


(2)仏教に傾く聖武天皇

・聖武天皇は、よくない事が起きる度に仏教に傾向し、仏教によって国土を平安に
しようとした。
また、光明皇后も仏教を深く信仰し、聖武天皇のアドバイザーでもあった。
生まれついてのお坊ちゃん気質は、民の苦労や朝廷の現状を顧みず、巨大仏教寺を
建てれば救われるとの思いが、加速し、莫大な国費と労働を強いていくこととなる。


①全国に[国分寺]の建設を命じる・・・215平米という普通の学校4つ分の
  巨大な敷地に、高さ50メートルにもなる七重の塔を各地に各地の金で建設すると
  いう無謀なものだった。

②全国に[国分尼寺(こくぶんにじ)]の建設・・・女性用の仏教寺社。
  この総本山が奈良の[法華寺]で、藤原不比等邸の横に建てられた。

③[東大寺]の建設・・・国分寺の総本山と巨大大仏。

④[施薬院(せやくいん)]・・・光明皇后が法華寺の中に建てた、貧しい人の為に病院。

⑤[悲田院(ひでんいん)]・・・光明皇后が法華寺の中に建てた、貧しい人の為の配給所。


(3)行基と奈良の大仏

・行基は、もともと大阪堺の高僧である。
だが、当時の仏教は[大宝律令]によって制限をかけられ、貴族の為のもので、
民衆と縁遠いものであり、そんな仏教に嫌気がさした行基は、すすんで農民の中に
入り、道場や田畑の灌漑施設、ため池、橋などの土木工事をおこなって暮らしを
助け、農民からは、[行基菩薩]として、大変慕われる存在となった。

しかし、[大宝律令]の法を破る行基は、朝廷から違反者として憎まれていた。

その頃、聖武天皇は当初、滋賀県の紫香楽で大仏を作るが、中止にし、
奈良の都で再度、大仏つくりに着工する。

その際、全費用を朝廷が出す程の財政や人材があるわけでなく、
民衆に人気のあった「行基」を大仏作りに利用することを思いつき、
大仏作りの協力を求める見返りに、「大僧正」という高い地位を授けた。


最後の金メッキも、陸奥で金が見つかり、59キロもの金を利用して、
大仏の金塗装が完成するなど、行基の人並みならぬ努力の甲斐もあり、
無謀にも思えた大仏建造は、10年後の752年に完成するが、
その完成を前にして、行基は亡くなる。



(4)大仏開眼

749年、大仏を礼拝した聖武天皇は、自らを仏法僧「天平勝宝」と改名し、
一人娘の「阿部内親王」に天皇を譲位する。




東大寺の大仏開眼供養会の式典には、
「孝謙天皇」「聖徳上皇」「光明皇后」として出席している。
この時使われた儀式の道具は、今も「正倉院」に残されている。


娘の孝謙天皇の次は「道祖王」を皇太子とするよう遺言し、
756年、聖武上皇没す。




奈良時代 9章-3 「45代聖武天皇の即位と、長屋王」

2013-09-03 | 奈良時代
(1)第45代 聖武天皇の即位

・724年、天武天皇系の男子で、若逝した文武天皇の嫡男である「首(おびと)皇子」が
ようやく即位にふさわしい年齢となり、母元明天皇→姉元正天皇で守ってきた皇位を譲渡し、
満を期して、第45代「聖武天皇 」が即位する。

【聖武天皇-長屋王時代の政治】
①423年「三世一身の法」
これは開墾を促す法で、新しく開墾した土地は、三世代の間は自分の土地
として、所有を認められるものである。

②724年「多賀城と東北進出」
律令によって国家を支配するため、服従しない東北の蝦夷を抑える軍事拠点として、
陸奥国(宮城県)に「多賀城」を築く。
ここは、国府としての地方政治、蝦夷討伐軍の拠点とする鎮守府の役目を持つ。


③727年「渤海国との交流」
朝鮮半島の北部~満州~ロシア南部にかけて起こった新国家「渤海(ぼっかい)」は、
唐と新羅に挟まれた国だった。
新羅と対立していた日本との親交を求めて、渤海の使者が聖武天皇に朝謁しており、
渤海との交流は、渤海滅亡するまで200年続く。


④遣唐使
733年、渤海と親交を持った日本は、唐の出方をさぐる必要と、
戒律僧不在で、乱れた日本の仏教界を正すため、本場の戒律層を探す必要があり、
遣唐使を出す。


新羅との対立関係から、朝鮮半島沿岸を沿う北路をやめ、危険な南路をとるようになる。

752年、前回の団が出てから、いまだ戒律僧「鑑真」が日本に渡航できない中、
「玄ぼう」「吉備真備」を乗せた遣唐使が出発する。
753年正月の唐の大明宮含元殿の朝賀の儀式(唐の皇帝に臣下の使者が挨拶をすること)のとき、
席次が、日本が新羅の下になるのはおかしいとして、新羅の席を下げさせている。


この「玄ぼう」らの帰国船に、「鑑真」と「阿倍仲麻呂」が乗り込んで日本に向かうが、
途中嵐に逢い、鑑真は命からがら日本に着き、阿部仲麻呂はとうとう帰国できなかった。



(2)長屋王  

【天皇家とのかかわり】
・724年、首(おびと)皇子が、「聖武天皇」として即位すると、
藤原不比等の就いていた最高位「左大臣」は、「長屋王」に任命され、
不比等没後の政界を握っていた。

「長屋王」は、天武天皇の子「高市皇子」の嫡男の子という天武系の主流、
母は天智天皇の娘で、元正天皇の姉妹という、こちらも天智系の主流の
大変血統のいい皇族で、さらに、文武天皇と元正天皇の妹「吉備内親王」を妻
とする、天皇家の中でも、重要ポジションにいる人物である。


【729年、長屋王の変】
729年2月、長屋王の家で働く者が、長屋王が、密かに左道(呪術)を習って、
国家を傾けようとしている、と内部密告した事から、変は始まる。
藤原宇合と、藤原武智麻呂率いる軍が、平城京中心部にある長屋王の邸を
取り囲み、無実を訴える長屋王に対して、長屋王の叔父「舎人親王」が、
激しく糾弾し、弾圧された結果、長屋王は、自邸で自害する。
長屋王を追って、妻「吉備内親王」も自害する悲劇となった。


(長屋王邸宅跡は、奈良市の国道24号線沿いのそごうデパート建設予定地
から、大量の木棺が出土したことで、その場所や詳細が明らかになった。

時は、1990年代バブル。
高級百貨店そごうは、この遺跡調査に10年以上の時間をとられている
間に、バブルがはじけ、そごうデパートはその後、倒産に突き進んだ)

【光明子の立皇后】
長屋王の変の直後、聖武天皇の妻で、藤原一族の「光明子」が天皇家の者で
ないにもかかわらず、皇后の地位に就いている。

長屋王の変は、藤原一族の陰謀であるという説が有力である。
当時、臣下藤原家の者を母とする「聖武天皇」が、天皇にふさわしくない
との意見があったこと。

また、聖武天皇と光明子との第一皇子が、1歳で死亡したことで、
藤原家以外の聖武天皇の妻の子「安積皇子」が、皇位継承権を持った
ことで、藤原家は強い危機感を抱いていた。

先に生まれて血統の良い「安積皇子」をさしおいて、
後に生まれるであろう、まだ見ぬ光明子の子を皇太子とする為には、
光明子を、皇后の地位に就ける必要があったが、皇族左大臣である
長屋王が、それを許すはずがなく、藤原家にとって、邪魔な存在であった。


【藤原4兄弟の死】
これで、藤原4兄弟の権力が増すかと思われた矢先の
739年、遣唐使が持ちこんだと思われる「天然痘」の大流行により、
藤原4兄弟は相次いで死んだ。

長屋王の呪いと噂された。


(3)橘諸兄の短期政権

・藤原4兄弟と長屋王亡き後、朝廷内で権力を持ったのは、藤原家の親戚で、
光明子皇后と、母「県犬飼三千代」を同じくする異父兄弟の「橘諸兄(たちばなのもろえ)」であった。
4兄弟の死の翌年に、左大臣に就いている。

橘諸兄は、遣唐使として中国で学問を学んできた
僧の「玄(げんぼう)」と学者の「吉備真備(きびのまきび)」を側近としておき、
重鎮した。


橘諸兄は、京都府井出町の玉川のほとりに屋敷を構えていたので、
「玉川の井出の左大臣」や、父「美濃王」にならって「葛城王」とよばれていた。


(3)藤原広嗣の乱

・740年、藤原4兄弟である藤原宇合の子、「藤原広嗣」は、玄と意見があわず、
九州の大宰府にとばされ、九州で朝廷に対して反乱をおこすが、鎮圧された。
これを「藤原広嗣の乱」と言う。

奈良時代 9章-2 「44代元正天皇と、藤原不比等」

2013-09-02 | 奈良時代
(1)第44代 元正天皇

・女帝「元明天皇」には3人の子がいた。
 「首(おびと)皇子」・・・後の聖武天皇
 「氷高(ひたか)皇女」・・後の元正天皇
 「吉備内親王」・・・・・長屋王の妻

 715年、長男「首皇子」の即位はまだ早いとして、娘の「氷高皇女」に
 譲位し、史上5人目の女帝「元正(げんしょう)天皇」が即位する。

 過去の女帝と違い、未婚のまま即位し、生涯独身であった。
 この頃、宮廷内では、藤原家の勢力が増していく。

・美貌の女性と伝えられる「元正天皇」は、岐阜県を訪れた時に、 
 養老の滝を見て「美泉なり、もって老を養うべし」と言い、元号を養老とした。


(2)藤原不比等

【藤原姓という権力】
時を遡り天智天皇の頃、天智天皇こと中大兄皇子を側近として助け、
「大化の改新」を推し進めた「中臣鎌足」は、藤原姓を天皇より賜った。

鎌足の子の中でも、次男の「藤原不比等(ふひと)」の直系のみが、この藤原姓を
名乗れる特別な姓であった為、朝廷内でも、権力家として目立った存在であり、
2代目である「藤原不比等」は、天武→持統→文武→元正→元明時代に政治の要職に
就いていた。

【養老律令】
701年、天武天皇の時に「刑部(おさかべ)親王」と共に『大宝律令』を編纂し、
718年には、藤原不比等がメインで、『養老律令』をつくる。
(「養老律令」は、この後平安時代を支え、形を変えながら幕末まで使用される
国の基本となる)

これら律令は、国家を支える法律であり、誰より法に詳しい朝廷の
重要人物の地位を固めていく。


【天皇の外戚】
また、藤原不比等は、娘の「宮子」を、文武天皇の妻として嫁がせ、
その子「首皇子=聖武天皇」の外戚という、天皇との血縁関係も手に入れ、
さらに聖武天皇の妻に、別の娘(宮子の妹)の「光明子」を嫁がせている。

当時は、子供は母方の実家で養育されめものであった為、皇太子の外戚は、
次期天皇との癒着が深く、藤原氏にとって、都合のよい方法であった。


聖武天皇は、母も妻も、藤原不比等との娘であり、藤原氏と縁の深い天皇である。

不比等には、宮子、光明子の他に4人の息子がいる。
武智麻呂(むちまろ)------南家
麻呂(まろ)--------------京家
房前(ふささき)----------北家
宇合(うまかい)----------式家


藤原4兄弟も、藤原家の人間として朝廷で権力を持っていたが、 
720年に、父不比等が他界した時はまだ若く、朝廷内の地位は確立されていなかった。
不比等亡き後は、再び皇族(長屋王)の力が増していく。



奈良時代 9章-1 「43代元明天皇と平城遷都」

2013-09-01 | 奈良時代
(1)第43代 元明天皇

文武天皇が25歳の若さで亡くなった為、その息子「首(おびと)皇子」は
7歳と幼く、皇位を継ぐまでの間、文武天皇の母、「阿閉皇女(あへのひめみこ)」が、
第43代「元明天皇」として即位する。

元明→元正の二人の女性天皇は、いわば聖武天皇(首皇子)までのつなぎ役である。
(藤原不比等は、女性天皇時代の相談役として、政治に深く関わっていた)

推古天皇、皇極天皇(斉明)、持統天皇に続く、4人目の女性天皇である。


(2)平城遷都

文武天皇の時に立案された遷都は、中国、唐の長安の都を手本に、碁盤の目のような道路を
敷いた、大規模な都として、元明天皇の時に実行されることとなる。
ただし、キレイな四角形の都ではなく、東大寺周辺は外都として、いびつになっている。
  

都の四方を四獣の神が守る、という考え方も取り入れられている。
東-----青竜(川)
西-----白虎(道)
南-----朱雀(池)
北-----玄武(山)

国司の命令一つで、人々は都造成の労働に駆り出され、辛い労役を課せられた。

710年、平城京建設を始めて2年後に、元明天皇は、藤原京から平城京へ移り、
これをもって、平城遷都とし、奈良時代が始まる。


天皇が移ると、貴族役人も映らねばならず、藤原京から平城京にいたる
初瀬川や、佐保川は、連日引っ越しの船でにぎわっていた。

「青丹よし 奈良の都は さく花の におうがごとく 今さかりなり」
は、大陸風の青瓦や、丹(赤)塗りの柱を持つ宮殿、寺院が立ち並ぶ
平城京の華やかさと、賑わいを詠んだ歌である。


(3)和同開珎

708年、武蔵国から銅が献上された記念に、唐の貨幣を真似て、日本最初の貨幣
「和同開珎(わどうかいちん)」が発行された。
しかし、物々交換に慣れた人々は、貨幣に馴染めず、機内の限定した地域でしか
流通しなかった。

711年、貨幣流通の為、役人の給与を貨幣で支給したり、
「蓄銭叙位令」として、お金をたくさん貯めた下級官僚の位をあげるなど
したが、結局浸透しなかった。

現在では、お金は貯めずに流通させる方が良いことはわかるが、
当時は、各自に貯蓄させようとしている時点で、流通は難しかったと思われる。



(4)古事記と万葉集

・『古事記』は、天武天皇が発案した、天皇の系統を一つにまとめる歴史書であり、
抜群の記憶力を持つ「稗田阿礼(ひえだあれ)」に、推古天皇時代に、
皇室の歴史や天皇にまつわる逸話を編集した『帝記』や『旧辞』を
覚えておくよう命じていた。

元明天皇は、「稗田阿礼」の記憶力を、「太安麻呂(おおのやすまろ)」が文字に
おこして『古事記』として編纂するよう命令し、712年に完成する日本初の3巻の歴史書。



・『日本書記』・・・『古事記』に少し遅れて、「舎人親王(とねりしんのう)」と
「太安麻呂」が編集した30巻のもう一つの歴史書で、『古事記』の8年後の
720年に完成する。
これらの歴史書は、現天皇が、天から降臨した神(天照大神)の子孫であるとし、
天皇の地位を神的なものとして、確固としたものに押し上げる役目を持つ。


・『風土記(ふうどき)』・・・『古事記』完成の翌年の713年、元明天皇が、
諸国に命じて編集させた、日本各地の鉱物、自然、地理、昔話をまとめた地理書。

・『万葉集(まんようしゅう)』・・・元明天皇の命で、「大伴家持(おおともやかもち)」
や「橘諸兄(たちばなのもろえ)」らが約400年間のあらゆる階級の人々の歌、
4千5百首を集めた、最古の歌集。
この時使われた「万葉仮名」が、後のひらがなや、カタカナの基になった。

天智天皇、天智天皇の妻「額田王(ぬかたのおうきみ)」、「柿本人麻呂」
山上憶良は、『貧窮問答歌』で、貧しい人々の暮しを詠んだ。


・『懐風藻(かいふうそう)』・・・日本最古の漢詩集。