(1)第45代 聖武天皇の即位
・724年、天武天皇系の男子で、若逝した文武天皇の嫡男である「首(おびと)皇子」が
ようやく即位にふさわしい年齢となり、母元明天皇→姉元正天皇で守ってきた皇位を譲渡し、
満を期して、第45代「
聖武天皇 」が即位する。
【聖武天皇-長屋王時代の政治】
①423年「三世一身の法」
これは開墾を促す法で、新しく開墾した土地は、三世代の間は自分の土地
として、所有を認められるものである。
②724年「多賀城と東北進出」
律令によって国家を支配するため、服従しない東北の蝦夷を抑える軍事拠点として、
陸奥国(宮城県)に「多賀城」を築く。
ここは、国府としての地方政治、蝦夷討伐軍の拠点とする鎮守府の役目を持つ。
③727年「渤海国との交流」
朝鮮半島の北部~満州~ロシア南部にかけて起こった新国家「渤海(ぼっかい)」は、
唐と新羅に挟まれた国だった。
新羅と対立していた日本との親交を求めて、渤海の使者が聖武天皇に朝謁しており、
渤海との交流は、渤海滅亡するまで200年続く。
④遣唐使
733年、渤海と親交を持った日本は、唐の出方をさぐる必要と、
戒律僧不在で、乱れた日本の仏教界を正すため、本場の戒律層を探す必要があり、
遣唐使を出す。
新羅との対立関係から、朝鮮半島沿岸を沿う北路をやめ、危険な南路をとるようになる。
752年、前回の団が出てから、いまだ戒律僧「鑑真」が日本に渡航できない中、
「玄ぼう」「吉備真備」を乗せた遣唐使が出発する。
753年正月の唐の大明宮含元殿の朝賀の儀式(唐の皇帝に臣下の使者が挨拶をすること)のとき、
席次が、日本が新羅の下になるのはおかしいとして、新羅の席を下げさせている。
この「玄ぼう」らの帰国船に、「鑑真」と「阿倍仲麻呂」が乗り込んで日本に向かうが、
途中嵐に逢い、鑑真は命からがら日本に着き、阿部仲麻呂はとうとう帰国できなかった。
(2)長屋王
【天皇家とのかかわり】
・724年、首(おびと)皇子が、「聖武天皇」として即位すると、
藤原不比等の就いていた最高位「左大臣」は、「長屋王」に任命され、
不比等没後の政界を握っていた。
「長屋王」は、天武天皇の子「高市皇子」の嫡男の子という天武系の主流、
母は天智天皇の娘で、元正天皇の姉妹という、こちらも天智系の主流の
大変血統のいい皇族で、さらに、文武天皇と元正天皇の妹「吉備内親王」を妻
とする、天皇家の中でも、重要ポジションにいる人物である。
【729年、長屋王の変】
729年2月、長屋王の家で働く者が、長屋王が、密かに左道(呪術)を習って、
国家を傾けようとしている、と内部密告した事から、変は始まる。
藤原宇合と、藤原武智麻呂率いる軍が、平城京中心部にある長屋王の邸を
取り囲み、無実を訴える長屋王に対して、長屋王の叔父「舎人親王」が、
激しく糾弾し、弾圧された結果、長屋王は、自邸で自害する。
長屋王を追って、妻「吉備内親王」も自害する悲劇となった。
(長屋王邸宅跡は、奈良市の国道24号線沿いのそごうデパート建設予定地
から、大量の木棺が出土したことで、その場所や詳細が明らかになった。

時は、1990年代バブル。
高級百貨店そごうは、この遺跡調査に10年以上の時間をとられている
間に、バブルがはじけ、そごうデパートはその後、倒産に突き進んだ)
【光明子の立皇后】
長屋王の変の直後、聖武天皇の妻で、藤原一族の「光明子」が天皇家の者で
ないにもかかわらず、皇后の地位に就いている。
長屋王の変は、藤原一族の陰謀であるという説が有力である。
当時、臣下藤原家の者を母とする「聖武天皇」が、天皇にふさわしくない
との意見があったこと。
また、聖武天皇と光明子との第一皇子が、1歳で死亡したことで、
藤原家以外の聖武天皇の妻の子「安積皇子」が、皇位継承権を持った
ことで、藤原家は強い危機感を抱いていた。
先に生まれて血統の良い「安積皇子」をさしおいて、
後に生まれるであろう、まだ見ぬ光明子の子を皇太子とする為には、
光明子を、皇后の地位に就ける必要があったが、皇族左大臣である
長屋王が、それを許すはずがなく、藤原家にとって、邪魔な存在であった。
【藤原4兄弟の死】
これで、藤原4兄弟の権力が増すかと思われた矢先の
739年、遣唐使が持ちこんだと思われる「天然痘」の大流行により、
藤原4兄弟は相次いで死んだ。
長屋王の呪いと噂された。
(3)橘諸兄の短期政権
・藤原4兄弟と長屋王亡き後、朝廷内で権力を持ったのは、藤原家の親戚で、
光明子皇后と、母「県犬飼三千代」を同じくする異父兄弟の「橘諸兄(たちばなのもろえ)」であった。
4兄弟の死の翌年に、左大臣に就いている。
橘諸兄は、遣唐使として中国で学問を学んできた
僧の「玄(げんぼう)」と学者の「吉備真備(きびのまきび)」を側近としておき、
重鎮した。
橘諸兄は、京都府井出町の玉川のほとりに屋敷を構えていたので、
「玉川の井出の左大臣」や、父「美濃王」にならって「葛城王」とよばれていた。
(3)藤原広嗣の乱
・740年、藤原4兄弟である藤原宇合の子、「藤原広嗣」は、玄と意見があわず、
九州の大宰府にとばされ、九州で朝廷に対して反乱をおこすが、鎮圧された。
これを「藤原広嗣の乱」と言う。