(1)女王卑弥呼の擁立
・このころ中国では、漢が混乱し、三国志の強国乱立時代に突入する。
朝鮮半島の中国支配地「楽浪郡」の支配者が、中国地方豪族の「公孫氏」となり、
204年に魏が、南に「帯方郡(たいほうぐん)」という地を置いて、支配の拠点とする。
・2世紀半ば~3世紀前半の倭国の様子を、【魏志・倭人伝】では、
「その国、もとは男子をもって王となす。とどまること7、80年、
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、のちに共に一女子を立てて、王となす。
名付けて、卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。
年すでに長大なるも、夫なく、男弟あり。たすけて国を治める。
王となりし以来、見る者少なく、巫女千人をもって自らはべらせしむ。」とある。
(訳)卑弥呼を女王として共立すると、倭国の大乱はようやく治まった。
神の言葉として、卑弥呼の言葉は絶対であり、30余国の盟主として邪馬台国も安定した。
邪馬台国は、他諸国より大きく、人口7万戸とり記載がある。
しかし、中国地方の狗奴国など、いまだ卑弥呼に従わない国もあり、卑弥呼は
女王の威信の為、大陸「魏」への奉献を命じた。
(2)卑弥呼の親魏と内乱の制圧
・当時の中国は、「三国志」で名高い英雄達の活躍した時代。
三国志では悪役の、曹操の国「魏」と倭国は親交が深かった。
中国では他に劉備の「蜀」、「呉」があった。朝鮮は高句麗の時代。
・【魏志・倭人伝】によると、
「西暦239年6月、卑弥呼は「難升米(なしめ)」と「都市牛利(としぎゅうり)」の
2名の男性を遣わせ、朝鮮の帯方郡の取次ぎで、太子に朝献せんことを求む。
太子劉夏、史を遣わし送りて、都に詣らしむ。」
・魏の明帝からの返礼は、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬と数々の放物
を与えるという破格のものであった。この王号と金印は、卑弥呼を正式に認める意味である。
大量の宝物の中でも、特に鏡は、神が宿り映す物として、当時の人々に敬い恐れられていた。
その鏡が、100枚という当時の想像を絶する枚数は、卑弥呼の力を高める圧倒的な力があった
と思われる。
鏡は、王権のシンボルとして、長く受け継がれることになる。
・だが、そうした中国からの威光をものともしない、狗奴国との対立が激化する。
狗奴国の王は、その名を『卑弥弓呼』と言い、その名からも卑弥呼との対立が見られる。
・西暦243年、卑弥呼は、句奴国との戦いを前に、魏との関係を強化する為、
男性8人を使節として魏に送り込んだ。
これに対し、魏は、難升米(なしめ)にあてて、魏の軍旗である『黄どう』を送った。
・西暦247年、狗奴国の反乱を鎮圧する為、卑弥呼は魏に助力を求め、魏の少帝は、
ただちに魏の軍事指揮官である「張政」を倭国に派遣し、狗奴国の反乱を抑えた。
(3)卑弥呼の死
・西暦248年、句奴国との戦いが完全制圧する前に、卑弥呼没す。
【魏志・倭人伝】によると、
「径100余歩の大きな塚を作り、100人あまりを殉葬する。
その後、男王を立てたが、激しい王権争いが続き、国中が混乱した。」とある。
卑弥呼没後、再び男性の王が立ったが、国内が混乱したので、宗女(正当な血族の娘)
である13歳の『壱与』が共立されて王女となった。
壱与はさっそく、魏に遣いを派遣し、卑弥呼の路線を引き継いだ。
この頃の日本の様子は、中国から見た【魏志倭人伝】に頼るしかなく、
国内の書物で残っている物は、ないので、魏との親交がない内容は、記録として残らない
ってのも、少し皮肉だなと思います。
【魏志倭人伝】の中の、「三国志」の中の、魏志(魏書)東夷伝 倭人の条、なのだそうです。
あと、邪馬台国や卑弥呼も、当時の日本でその漢字が使われていたわけで
なく、また中国人が聞こえた単語を漢字で書いたもの、なので、
実際は何だったのかも、考えるのは面白いと思います。
私の好きな説は、
邪馬台国=ヤマトタイコク=大和大国。
卑弥呼=ヒミコ=日巫女・日皇女=アマテラス大神の系統の、太陽の巫女、もしくは皇女。
事実なんてわからないので、そう思いたければ、思っていいのが歴史ロマン。
当時、農耕にも、災害にも、航海にも、自然・天候との戦いはあったと思います。
今でも、女性の中には、気圧の変化を、体調不良として敏感に察知する人がおり、
台風が、まだ遠方にあるうちから、気圧の変化を感知して、頭痛を起こす人は
珍しくありません。
明日、今日は雨が降ることを、頭痛で感知する人も多い。
また、老人達は、天気が悪くなる前に古傷が痛むのも、よくあること。
そうした人が、天気予報が神のお告げの時代に居たならば、神の声を聞く巫女
となってもおかしくない、と思います。
占者が、女性や老女であるのは、そんな気圧を感知する女性の特性からかも?
なんて想ったりします。
でも、卑弥呼の姿を見た者は少なく、一人の男のみが、卑弥呼の声を伝えて
いたのなら、実はその男性が、卑弥呼の名を語って、政治の指揮をとっていた、
とも考えられないか?とも思います。
占い師という顔と、外交や戦いに長けた政治家の顔。
ほんと、卑弥呼はミステリーです。
2013年時点でもまだ、邪馬台国がどこにあるのかは、わからないまま。
卑弥呼の死、前後に作られたと思われる奈良県の纏向遺跡が有力なのかも、
まだ決着をみせていません。
知りたいような、知りたくないような。
・このころ中国では、漢が混乱し、三国志の強国乱立時代に突入する。
朝鮮半島の中国支配地「楽浪郡」の支配者が、中国地方豪族の「公孫氏」となり、
204年に魏が、南に「帯方郡(たいほうぐん)」という地を置いて、支配の拠点とする。
・2世紀半ば~3世紀前半の倭国の様子を、【魏志・倭人伝】では、
「その国、もとは男子をもって王となす。とどまること7、80年、
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、のちに共に一女子を立てて、王となす。
名付けて、卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。
年すでに長大なるも、夫なく、男弟あり。たすけて国を治める。
王となりし以来、見る者少なく、巫女千人をもって自らはべらせしむ。」とある。
(訳)卑弥呼を女王として共立すると、倭国の大乱はようやく治まった。
神の言葉として、卑弥呼の言葉は絶対であり、30余国の盟主として邪馬台国も安定した。
邪馬台国は、他諸国より大きく、人口7万戸とり記載がある。
しかし、中国地方の狗奴国など、いまだ卑弥呼に従わない国もあり、卑弥呼は
女王の威信の為、大陸「魏」への奉献を命じた。
(2)卑弥呼の親魏と内乱の制圧
・当時の中国は、「三国志」で名高い英雄達の活躍した時代。
三国志では悪役の、曹操の国「魏」と倭国は親交が深かった。
中国では他に劉備の「蜀」、「呉」があった。朝鮮は高句麗の時代。
・【魏志・倭人伝】によると、
「西暦239年6月、卑弥呼は「難升米(なしめ)」と「都市牛利(としぎゅうり)」の
2名の男性を遣わせ、朝鮮の帯方郡の取次ぎで、太子に朝献せんことを求む。
太子劉夏、史を遣わし送りて、都に詣らしむ。」
・魏の明帝からの返礼は、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬と数々の放物
を与えるという破格のものであった。この王号と金印は、卑弥呼を正式に認める意味である。
大量の宝物の中でも、特に鏡は、神が宿り映す物として、当時の人々に敬い恐れられていた。
その鏡が、100枚という当時の想像を絶する枚数は、卑弥呼の力を高める圧倒的な力があった
と思われる。
鏡は、王権のシンボルとして、長く受け継がれることになる。
・だが、そうした中国からの威光をものともしない、狗奴国との対立が激化する。
狗奴国の王は、その名を『卑弥弓呼』と言い、その名からも卑弥呼との対立が見られる。
・西暦243年、卑弥呼は、句奴国との戦いを前に、魏との関係を強化する為、
男性8人を使節として魏に送り込んだ。
これに対し、魏は、難升米(なしめ)にあてて、魏の軍旗である『黄どう』を送った。
・西暦247年、狗奴国の反乱を鎮圧する為、卑弥呼は魏に助力を求め、魏の少帝は、
ただちに魏の軍事指揮官である「張政」を倭国に派遣し、狗奴国の反乱を抑えた。
(3)卑弥呼の死
・西暦248年、句奴国との戦いが完全制圧する前に、卑弥呼没す。
【魏志・倭人伝】によると、
「径100余歩の大きな塚を作り、100人あまりを殉葬する。
その後、男王を立てたが、激しい王権争いが続き、国中が混乱した。」とある。
卑弥呼没後、再び男性の王が立ったが、国内が混乱したので、宗女(正当な血族の娘)
である13歳の『壱与』が共立されて王女となった。
壱与はさっそく、魏に遣いを派遣し、卑弥呼の路線を引き継いだ。
この頃の日本の様子は、中国から見た【魏志倭人伝】に頼るしかなく、
国内の書物で残っている物は、ないので、魏との親交がない内容は、記録として残らない
ってのも、少し皮肉だなと思います。
【魏志倭人伝】の中の、「三国志」の中の、魏志(魏書)東夷伝 倭人の条、なのだそうです。
あと、邪馬台国や卑弥呼も、当時の日本でその漢字が使われていたわけで
なく、また中国人が聞こえた単語を漢字で書いたもの、なので、
実際は何だったのかも、考えるのは面白いと思います。
私の好きな説は、
邪馬台国=ヤマトタイコク=大和大国。
卑弥呼=ヒミコ=日巫女・日皇女=アマテラス大神の系統の、太陽の巫女、もしくは皇女。
事実なんてわからないので、そう思いたければ、思っていいのが歴史ロマン。
当時、農耕にも、災害にも、航海にも、自然・天候との戦いはあったと思います。
今でも、女性の中には、気圧の変化を、体調不良として敏感に察知する人がおり、
台風が、まだ遠方にあるうちから、気圧の変化を感知して、頭痛を起こす人は
珍しくありません。
明日、今日は雨が降ることを、頭痛で感知する人も多い。
また、老人達は、天気が悪くなる前に古傷が痛むのも、よくあること。
そうした人が、天気予報が神のお告げの時代に居たならば、神の声を聞く巫女
となってもおかしくない、と思います。
占者が、女性や老女であるのは、そんな気圧を感知する女性の特性からかも?
なんて想ったりします。
でも、卑弥呼の姿を見た者は少なく、一人の男のみが、卑弥呼の声を伝えて
いたのなら、実はその男性が、卑弥呼の名を語って、政治の指揮をとっていた、
とも考えられないか?とも思います。
占い師という顔と、外交や戦いに長けた政治家の顔。
ほんと、卑弥呼はミステリーです。
2013年時点でもまだ、邪馬台国がどこにあるのかは、わからないまま。
卑弥呼の死、前後に作られたと思われる奈良県の纏向遺跡が有力なのかも、
まだ決着をみせていません。
知りたいような、知りたくないような。