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れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
☆は山川出版「詳細日本史研究」に対応しています。

弥生時代 4章-9 「女王卑弥呼」

2013-04-09 | 弥生時代
(1)女王卑弥呼の擁立

・このころ中国では、漢が混乱し、三国志の強国乱立時代に突入する。
朝鮮半島の中国支配地「楽浪郡」の支配者が、中国地方豪族の「公孫氏」となり、
204年に魏が、南に「帯方郡(たいほうぐん)」という地を置いて、支配の拠点とする。

・2世紀半ば~3世紀前半の倭国の様子を、【魏志・倭人伝】では、
「その国、もとは男子をもって王となす。とどまること7、80年、
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、のちに共に一女子を立てて、王となす。
名付けて、卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。
年すでに長大なるも、夫なく、男弟あり。たすけて国を治める。
王となりし以来、見る者少なく、巫女千人をもって自らはべらせしむ。」とある。

(訳)卑弥呼を女王として共立すると、倭国の大乱はようやく治まった。
神の言葉として、卑弥呼の言葉は絶対であり、30余国の盟主として邪馬台国も安定した。
邪馬台国は、他諸国より大きく、人口7万戸とり記載がある。
しかし、中国地方の狗奴国など、いまだ卑弥呼に従わない国もあり、卑弥呼は
 女王の威信の為、大陸「」への奉献を命じた。


(2)卑弥呼の親魏と内乱の制圧

・当時の中国は、「三国志」で名高い英雄達の活躍した時代。
三国志では悪役の、曹操の国「魏」と倭国は親交が深かった。
中国では他に劉備の「蜀」、「呉」があった。朝鮮は高句麗の時代。

・【魏志・倭人伝】によると、
「西暦239年6月、卑弥呼は「難升米(なしめ)」と「都市牛利(としぎゅうり)」の
2名の男性を遣わせ、朝鮮の帯方郡の取次ぎで、太子に朝献せんことを求む。
太子劉夏、史を遣わし送りて、都に詣らしむ。」

・魏の明帝からの返礼は、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬と数々の放物
を与えるという破格のものであった。この王号と金印は、卑弥呼を正式に認める意味である。
大量の宝物の中でも、特に鏡は、神が宿り映す物として、当時の人々に敬い恐れられていた。
その鏡が、100枚という当時の想像を絶する枚数は、卑弥呼の力を高める圧倒的な力があった
と思われる。
鏡は、王権のシンボルとして、長く受け継がれることになる。


・だが、そうした中国からの威光をものともしない、狗奴国との対立が激化する。
狗奴国の王は、その名を『卑弥弓呼』と言い、その名からも卑弥呼との対立が見られる。

・西暦243年、卑弥呼は、句奴国との戦いを前に、魏との関係を強化する為、
男性8人を使節として魏に送り込んだ。
これに対し、魏は、難升米(なしめ)にあてて、魏の軍旗である『黄どう』を送った。

・西暦247年、狗奴国の反乱を鎮圧する為、卑弥呼は魏に助力を求め、魏の少帝は、
ただちに魏の軍事指揮官である「張政」を倭国に派遣し、狗奴国の反乱を抑えた。


(3)卑弥呼の死

・西暦248年、句奴国との戦いが完全制圧する前に、卑弥呼没す。

【魏志・倭人伝】によると、
「径100余歩の大きな塚を作り、100人あまりを殉葬する。
 その後、男王を立てたが、激しい王権争いが続き、国中が混乱した。」とある。

卑弥呼没後、再び男性の王が立ったが、国内が混乱したので、宗女(正当な血族の娘)
である13歳の『壱与』が共立されて王女となった。
壱与はさっそく、魏に遣いを派遣し、卑弥呼の路線を引き継いだ。


この頃の日本の様子は、中国から見た【魏志倭人伝】に頼るしかなく、
国内の書物で残っている物は、ないので、魏との親交がない内容は、記録として残らない
ってのも、少し皮肉だなと思います。
【魏志倭人伝】の中の、「三国志」の中の、魏志(魏書)東夷伝 倭人の条、なのだそうです。

あと、邪馬台国や卑弥呼も、当時の日本でその漢字が使われていたわけで
なく、また中国人が聞こえた単語を漢字で書いたもの、なので、
実際は何だったのかも、考えるのは面白いと思います。

私の好きな説は、
邪馬台国=ヤマトタイコク=大和大国。
卑弥呼=ヒミコ=日巫女・日皇女=アマテラス大神の系統の、太陽の巫女、もしくは皇女。

事実なんてわからないので、そう思いたければ、思っていいのが歴史ロマン。

当時、農耕にも、災害にも、航海にも、自然・天候との戦いはあったと思います。
今でも、女性の中には、気圧の変化を、体調不良として敏感に察知する人がおり、
台風が、まだ遠方にあるうちから、気圧の変化を感知して、頭痛を起こす人は
珍しくありません。
明日、今日は雨が降ることを、頭痛で感知する人も多い。
また、老人達は、天気が悪くなる前に古傷が痛むのも、よくあること。

そうした人が、天気予報が神のお告げの時代に居たならば、神の声を聞く巫女
となってもおかしくない、と思います。
占者が、女性や老女であるのは、そんな気圧を感知する女性の特性からかも?
なんて想ったりします。

でも、卑弥呼の姿を見た者は少なく、一人の男のみが、卑弥呼の声を伝えて
いたのなら、実はその男性が、卑弥呼の名を語って、政治の指揮をとっていた、
とも考えられないか?とも思います。
占い師という顔と、外交や戦いに長けた政治家の顔。
ほんと、卑弥呼はミステリーです。

2013年時点でもまだ、邪馬台国がどこにあるのかは、わからないまま。
卑弥呼の死、前後に作られたと思われる奈良県の纏向遺跡が有力なのかも、
まだ決着をみせていません。
知りたいような、知りたくないような。


弥生時代 4章-8 「倭国の大乱」

2013-04-08 | 弥生時代
(1)

・【後漢書・倭伝】によると、
 「恒霊の間、倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐して歴年主なし」と伝えられている。

弥生時代中後期は、100余あったクニグニは、争いのうちに統合され、30余国となっていく。
その戦乱の世を『倭国の大乱時代』とよぶ。
この頃の戦闘は、男性だけでなく、女性も戦闘員として参加し、戦闘集団のリーダー的
立場の女性がいた事が、知られている。

・倭国の大乱の過程で、『邪馬台国』は30余国の、盟主にのしあがっていく。
200年ほど前の後漢時代に、金印をタ賜った「奴国」も健在だが、勢力は邪馬台国にあった。

・だが、盟主といえど、戦乱は絶えず、また、男王による武力支配は、
 民衆の原始的神祭りの考え方とあわず、神の意思に反するとして、反発が募っていった。
 そこで、倭国30か国を束ね、民衆の慕う王をつくることが、急務となり、
 30か国の王達の会議と、占いにより、女王卑弥呼が誕生することとなる。

弥生時代 4章-7 「王達の中国貢献」

2013-04-07 | 弥生時代
紀元前1世紀~2世紀頃の日本の様子は、日本国内の書物がなく、中国、朝鮮の文献に
よって知ることが出来る。


(1)紀元前1世紀の日本と漢

①中国で最も古い日本の記述は、【漢書、地理志】である。
「それ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以って来り献見す」
  ↓
「楽浪郡の東の海の方に倭人が居て、100以上の国に分かれている。
なかには、定期的に漢に朝貢に訪れるものもいる。」という意味。

百以上のクニが混在する中で、より強大な力を持つためには、
大陸の進んだ文明の輸入と、王権の国際的な威光が必要不可欠だった。


初め、百余国の王達は、漢の朝鮮支配の拠点地である「楽浪郡」へ競って貢献に及んだ。


※「楽浪郡」とは、現ピョンヤンで、紀元前108年、漢が朝鮮半島の一部を支配した地である。


(2)日本と後漢
②5世紀の【後漢書、東夷伝】によると、
「建武中元二年、倭の奴国、貢ほ奉じて朝賀す。光武、賜ふに印綬を以てす。」
  ↓
「紀元後57年、倭の奴国の王が、後漢の創始者である光武帝に朝貢し、
 帝より『漢倭奴国王』の金印を頂戴した。」と記されている。
(後漢は、紀元後25年に設立)
  ↓
100余りある国の一つ、倭の奴国(わのなこく)が、日本代表としてではなく、
一国の王として、朝鮮の中国出張地である楽浪府(らくろうふ)を仲介にして、
後漢帝国に朝貢に向かった。


すでにアジアの中心であり、国を統一した光武帝の宮殿は豪華で、
倭国は、中国を訪れる外国人の中でも、もっともみすぼらしい姿をしていた
国の一つであったと、考えられる。


中国皇帝から下賜される印は、それを持つ人物の身分や地位によって、材質や持ち手の獣
が異なる。奴国より後漢との親交の深かった「楽浪郡」が銀印であったのに、奴国が金印
であったこと、また持ち手の獣が中国より南方諸民族に与えられる「蛇」であったことより、
中国は、奴国を、南方系民族と見ていた節がある。


考えられることは、朝鮮は漢と陸続きの直轄地であるのに比べ、
倭国は、海を越えて、漢の支配の届かない属国の一つとして重要視されたのかも、しれない。


③【後漢書】には他に「永初元年(西暦107年)、倭の国王等が、身分生口(せいこう)の
奴隷160人を、
後漢の安帝に献上して、謁見をお願いしてきた。」などの記載がある。


④同じく【後漢書】に、倭の大乱、女王卑弥呼についての記載もある。

弥生時代 4章-6 「小国と王の出現」

2013-04-06 | 弥生時代
(1)ムラ社会と、争いの発生

・水稲耕作などの、「農耕」が定着するにつれ、土地、水、収穫物の分配や、
大型化する共同体(ムラ)の維持、さらには、近隣のムラとの対立問題(争い)が
起こってくるようになる。

・首の切断された遺体(佐賀県・吉野ヶ里遺跡)や、頭部に剣の刺さった遺体が
埋葬されている。

・また、弥生中期~後期の瀬戸内海沿岸部では、生産性が落ちるが、軍事的に便利な
見晴らしの良い山の斜面や丘陵地に集落が増え、武器として発達した石器が大量に
出土しており(高地性集落)、周辺地域との緊張が伺える。


(2)王の出現

集団を束ね、争いに率先して出るなど、各ムラにリーダー(王)が現れるようになり、
負けたムラを吸収して、小国を形成していくようになる。



(3)王と信仰

戦いに勝った側の王が、負けたムラの神も吸収したと考えられる。
元の神に加える形で、負けたムラの神をも、王の統べる国の守護神として
受け入れ、祭られた。


王は、ムラムラ(共同体)と、その神々を統べる存在であり、
神とともに、農耕を統治する者として、各ムラから神に捧げられる
『初穂』の献上を受けていた。
各地で異なる信仰心をうまく利用して、王は支配の形を整えていったと考えられる。

日本が八百万の神々の国であり、新たな神や文化を
受け入れる基盤は、この頃からあったように、思われます。
地域によって変化する地形や気象に合わせて、人々は自然に対して畏怖して祈り、
大自然から生まれた神々は統一にむかず、そこに住む人々がその生活と共に
その地域で守り続けていく、ということだったのでしょうか。

一神教の場合、支配した国の神を、服従した人々に押し付ける
ことで、「自分の神」の勢力を拡大していくのに比べて、
随分と、「神を信じる各個人」を尊重した方法だな、と感心します。

後に天皇が、神のトップに立ちつつ、全国の神々を支配下
においていく過程の必要性も、わかるような気がします。



(3)弥生中~後期の身分制度
【魏志・倭人伝】によると、この頃の日本社会では、3つの身分に分けられていた。
1、大人(たいじん)・・・支配階級
2、下戸(げこ)・・・・・一般庶民、大人に遭遇すると、うずくまるか、
            両手を地面に伏して跪く
3、生口(せいこう)・・・一般より下の階級

「大人は、女性を4~5人持っていて、下戸でも2~3人持っている」
という記述があるが、一夫多妻制というより、『多夫多妻制』で
あったと考えられる。


(4)墓と身分
死者の弔いについて、【魏志・倭人伝】によると、
死者を葬るに、十数日間喪に服し、喪主は哭泣し、その他の者は歌舞飲酒したという。


また、【日本書記】では、墓に葬る前に、『殯屋(もがりや)』を建て、死体を安置し、
股を刺して『誄(しのびこと)』をしたと、記されてある。
自らを傷つけ、死者の痛みや苦しみを共有しようとしたのだろうか。


北九州に特徴的な墳墓が、大きなかめを2つに繋げ、その中に遺体を
屈葬(ひざを折り曲げて、墓に収める)させる『かめ棺』である。


身分によって、銅鏡・銅剣・管玉などの副葬品を入れ、立派なかめに埋められる人と、
質素な棺にただ体のみの人と、身分による埋葬の差が、明確になっていった。


そして、その身分による差別化は次第に大型化し、
王の墓は、あきらかに族長級とは異なる規模となる。
高く盛り土をした『墳丘墓』、周辺に溝を掘った『方形周溝墓』といわれるもので、
10~20メートルもある、巨大なものになった。
これが、後の古墳の母体である。



巨大化していく王の権力は、やがて大陸を向くようになっていく。


弥生時代 4章-5 「番外編、弥生人の性意識」

2013-04-05 | 弥生時代
古代の弥生時代の性意識は、家制度、ムラの集団性と、信仰心がよくみえる。
当時から、信仰=祭り=性の機会であったと考えられる。
・・・石の森章太郎「まんが日本の歴史」より

この頃の祭りは『神遊び』と呼ばれる。

神を仲立ちにして、男女が契ることで、神の霊能の獲得でもあった。
弥生人は、日常的な性を禁じ、神前でのみ、それを許した。
その際、ムラを2つの族に分け、違う族の異性を選ぶという掟があった。
近親交配を避ける仕組みである。




もう一つの契りの形は、幾つかのムラに住む男女が、"村境い"に集まって、
違うムラ同士の男女で契りを交わすものである。


近親相姦防止の為、同じムラ同士から、もっと範囲を広げる必要があった為とみられる。
後に『歌垣』とよばれる風習である。
この同族同士の契りに反した者は、身分を『』に落とされた。

今でも、村境の『道祖神』が、男女の契りを司る神であるのは、
古代人の愛の形の、名残りなのである。


人口がそう多くなく、隣村までの距離があったであろう時代、
掟なく放置すると、近親相姦が繰り返されることは、予想できます。
恐らく、経験上、近親相姦で出来た子供に異常が現れることを知り、
そこに神の怒りを感じたのではなかろうか、と思います。

だから、種の保存の為に、神を仲介として、男女の契りの場を作った。

人間が、狭い範囲で集まって暮らすには、必要不可欠なシステムで
あったのかもしれません。

弥生時代 4章-4 「青銅器の発達」

2013-04-04 | 弥生時代
(1)青銅器の種類
銅剣、銅矛、銅鐸は、中国もしくは朝鮮の大陸より伝えられた。
日本国内で製造されるようになると、日本独自の発展を見せ、大型化、祭具化
するようになる。

銅矛(どうほこ)・・・銅剣よりも幅が広く、柄をつけてヤリの様に武器として使う。
実用的な弥生前期から、次第に大型化し、柄をつけない見るだけの祭りの道具となる。

銅鐸(どうたく)・・・本来は家畜につける鈴や、吊るして鳴らす釣鐘として使う
ものだったが、次第に大型化し、見るだけの祭器と変化した。

2世紀頃が生産ピークで、近畿地方で製造された物には、文様、イラストが入る。

(2)青銅器の分布



①弥生前期・・・小型の銅鐸や、銅剣、銅矛などの武器型祭器が共存し、
九州と近畿で生産された。

②弥生中期・・・九州では銅矛、近畿では銅鐸、山陰地方では銅矛、銅鐸に
加えて、独自の銅剣を加えて生産し、祭器の中心的役割を見せる。

③弥生後期・・・九州の銅矛が、九州一円と四国にまで圧倒的広がりをみせる。
一方近畿地方の銅鐸も、大型化して全国の広がりをみせ、
九州と近畿の2大勢力がうかがえる。

山陰、山陽地方では、後期には青銅器製品が見られなくなり、同時期に
大型墳丘墓が発達しだす。


(3)荒神谷遺跡
島根県の丘陵の中腹部から、整然と並べられた358本の銅剣が出土、
7メートルほど離れた場所から16本の銅矛と、6個の銅鐸が出土した。
同じ場所から、銅矛と銅鐸が出土したのは、荒神谷遺跡が始めてだった。