れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
☆は山川出版「詳細日本史研究」に対応しています。

平安後期 15章-10 「鳥羽法皇と、平氏の台頭」

2014-03-10 | 平安時代
(1)平氏初代、平正盛
白河院に、所領を寄進して気に入られ、院政で北面の武士、検非違使、追捕士などに
重用された、平氏台頭の初代人物


【1097年、所要の寄進】
伊勢の桓武平氏であった「平正盛(ただもり)」は、自身の伊賀所領を「六条院」に寄進し、
白河法皇と、祇園女御に気に入られ、若狭守や北面の武士として、白河院の近臣に入り込んだ。

【1108年、源義親の討伐】
この頃、出雲で「源義家」の息子「源義親」が反乱を起こす。
当初、身内である源氏に「源義親」追捕の命が出ていたが、追捕できず、
「平正盛」が追捕に出て、討伐を果たした。
この一件で、すっかり「平正盛」の武士としての株は上がり、
その年の延暦寺と園城寺の強訴の防衛軍に、源氏と並んで起用された。

ここに、源平相並ぶ武士の構図が出来上がった。
白河法皇は、武士をどう使えばいいのか、実によく心得ていたのだ。

【1113年、六波羅蜜寺】
正盛は、自身の建てた、六波羅蜜寺に祇園女御を招いて供養祭をするなど、
祇園女御との密接な関係を維持する事で、白河法皇に取り入っていた。

(2)2番手、平忠盛
平家の経済基盤を作った、平清盛の父。

【海を制する忠盛】
1132年頃、「平正盛」の子「平忠盛(ただもり)」は、瀬戸内海の海賊を追捕で成功を
納め、朝廷からの西日本の主要地(播磨守、美作守、備前守)を任され、
海賊達を手下に組み込みながら、瀬戸内海を制していった。

また、白河上皇の荘園領地である、九州肥前(佐賀、長崎)を任された事で、
当時九州で盛んだった、中国、宋との個人貿易にも着手し、巨万の富を
手に入れ、平氏の経済基盤を作っていった。

中国大陸では、女真族の「金」に追われて北宋が滅び、南宋が安定しだした時代であった。
朝鮮半島は高麗に統一され、新羅の文化を受け継ぎ、宋の文化の影響を受けて、
高麗独自の文化を作り上げていた。


【平家の昇殿】
1132年、「平忠盛」は、貿易で得た資金で、白河院に
『得長寿院(とくちょうじゅいん)』の本尊と、千体の観音像を寄贈し、
鳥羽上皇から、清涼殿殿上にあがることを許された。

『中右記(ちゅうゆうき)』には、「この人の昇殿、猶、未曾有の事也」と記されている。

武士初の「殿上人」となった「平忠盛」は、
朝廷の「豊明節会(とよのあかりせちえ)」に初昇殿した際、
貴族達の反感による罠に落ち、帯刀している事をとがめられそうになった。
 しかし、その帯刀は、実は銀箔を貼った木刀であり、その機転のきいた
知恵を、鳥羽上皇はますます気に入った。


(3)平清盛

1141年、鳥羽法皇は、崇徳天皇を退位させ、美福門院の産んだ子、
近衛天皇を即位させた。

1152年、父「平忠盛」と共に海賊追補で名と位を挙げ、安芸守となっていた
「平清盛」は、海運の神である、広島の厳島神社の修造を行う。
瀬戸内海は、宋貿易に必要不可欠な航路であった。

1153年、父平忠盛死去、清盛が名実共に、平氏の棟梁となる。
清盛は、父から受け継いだ財で、鳥羽法皇や信西に深く取り入り、
平家繁栄の大ピーク時代を築く。