れきしぱうち

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平安後期 15章-1 「摂関家を失墜させた、71代後三条天皇」★

2014-03-01 | 平安時代
(1)第71代 後三条天皇
藤原氏の勢力をそぎ落とした、天皇復権の光

【後三条天皇と、藤原摂関家年表】
藤 1017年-----後一条天皇即位/藤原道長が、息子の頼通に摂関職を譲る
原 1036年-----後朱雀天皇即位
栄 1045年-----後冷泉天皇即位
華       (後三条が即位できないよう、24年間東宮にとどめられる)

後 1068年-----後三条天皇即位/関白藤原頼通引退
三 1069年-----「延久の荘園整理令」
条 1072年-----こ価法、斗枡法(宣旨枡)/白河天皇に譲位
時 1073年-----院蔵人所を設置/後三条院死去   

【後三条天皇の経歴】
後朱雀天皇の第2皇子で、母は三条天皇の娘「禎子内親王」。
先帝である「70代後冷泉天皇」の、母違いの弟である。

後冷泉天皇に皇子が生まれず、また後三条に嫁がせた藤原家の娘達にも皇子ができず、
藤原家の外戚による摂関政治が、ここで終焉する。

後三条天皇の即位は、藤原摂関家にとっては、大変ショッキングなことであった。
それは、宇多天皇以来、171年ぶりの、藤原家を外戚としない天皇であったからである。

しかも、後三条天皇こと「尊仁親王」は、23年という長い東宮時代を経て、
即位した為、即位時33歳で、摂関を必要としなかった。
東宮時代に、時の摂政関白である「藤原頼通よりみち」は、尊仁親王(後三条)
の即位を阻もうと、長年にわたり、数々の嫌がらせをしてきた。
(皇太子が継承するはずの秘宝・[壷切御剣つぼきりのみつるぎ]を渡さない等)


だが、嫌がらせにもめげず、その間、打倒藤原摂関家を掲げ続けた「尊仁親王」は、
1068年、後三条天皇として即位した。
同時に、「藤原頼通」は失意のうちに摂関を辞め、関白職を弟の「藤原教通のりみち」に譲る。

「たけき御心にて おはしまし」と称される気の強い後三条天皇は、
その才能と行動力を如何なく発揮して、藤原摂関時代を終わらせ、天皇親権を取り戻した。

【譲位】
後三条天皇は、わずか4年で息子の「白河天皇」に譲位し、翌年40歳で崩御した。
早い譲位は、藤原摂関家の勢力を押さえ込むため、自身が息子の後見人となるつもりで
あったのでは、と考えられている。


【後三条天皇まとめ】
・藤原摂関家の、外戚ではない。
・成人してからの即位だったので、独自政治を執れた。
・東宮時代、藤原摂関家から嫌がらせを受け続けて、打倒藤原だった。
・本人が非常に気が強い。
大江匡房という優秀ブレーンがいた
藤原摂関家を排除し、自身の気に入った役人を登用した。
「延久の荘園整理令」を出した。
宣旨ます を作った。

(2)役人の登用
それまでの朝廷の役人は、代々藤原摂関家で占めていたが、
後三条天皇は、自身の東宮時代を支えた反藤原勢力者を登用した。

学者の大江匡房(おおえまさふさ)は、
『延久の荘園整理令』を発案した、後三条天皇の側近中の側近である。

他には、「藤原実頼」、「藤原能信」や村上源氏の「源師房」「源経長」らがいる。


(3)延久の荘園整理令

「大江匡房」が発案し、後三条天皇が公布した、荘園整理令。(詳しくは次項)

当時の寺社や貴族、豪族の大きな収入源であり、権力の基盤である荘園にメスを入れ、
容赦なく荘園を没収したことで、強大な藤原摂関家の勢力を収入基盤から崩していった。

((5)国内新区分と在庁官人
人頭税から、土地税に変わったのを受け、
国内区分を、郡、郷、保にわけ直し、
それぞれ地方の退官した元国司や、地元有力者などを郡司、郷司、保司に任命し、
国司の下で、国衙の在庁官人として、担当地区の徴税をさせた。

※国司と在庁官人のちがいは?
国司は、元々京に住む高級官人が任命され、国の支配者階級となる。
在庁官人は、地元有力者を、国衙の職員として雇用すること。
国司が天下りの県知事とすれば、国衙は県庁で、在庁官人はコネで入った地元の職員、のようなもの。