(1)天皇家の対立
1141年、鳥羽法皇は、23歳の崇徳天皇を退位させ、
寵愛の美福門院の産んだ我が子「近衛天皇」を即位させた。
1155年、その近衛天皇が急逝。
鳥羽法皇は、新しい天皇に、兄崇徳上皇の子ではなく、
崇徳上皇の弟である「後白河天皇」を即位させ、
皇太子に、後白河の息子を置いた。
これにより、天皇の系統が、弟に移り、崇徳上皇は傍系におかれた。
1156年4月、年号を「保元」に変更した3ヶ月後の7月2日、鳥羽法皇が死去した。
御所に駆け付けた崇徳上皇は、鳥羽法皇の遺言として、御所の中に入る事を拒まれ、
屈辱の中、引き返さざるをえなかった。
兄、崇徳上皇が実権を握るには、クーデター必須の事態となる。
(2)関白藤原家の対立
父「藤原忠実」・・・長男・現関白「藤原忠通」
・・・次男・右大臣「藤原頼長」
1150年、鳥羽法皇の時世、関白は藤原家の長男「藤原忠通(ただみち)」であったが、
前関白で父の「藤原忠実」は、長男と折が悪く、
次男の「藤原頼長よりなが」に偏愛し、強制的に藤原家の氏の長者を、
長男から次男に変更してしまい、ここに、兄弟の対立構図ができあがる。
父に寵愛された次男「藤原頼長」は、17歳で右大臣になる程の頭のいい人物であるが、
融通がきかず、容赦のない厳格さから、人々からは「悪佐府」と呼ばれていた。
藤原忠通の子「慈円」の書いた『愚管抄(ぐかんしょう)』には、
藤原頼長について、「日本一の大学生であり、和漢の才に富む」と示している。
(3)源氏の動き
平氏が西日本で財を築き、朝廷に取り入っている頃、
源氏は、摂関家の守護として、朝廷との縁を保ってたものの、
勢力は平氏に押されていた。
源氏は、子供を地方で育てる事に拘り、武士の鍛錬育成をしつつ、
地方武士を味方につけて、東北~関東を中心に勢力を保っていたが、
身内争いが絶えず、低迷を続けていた。
源義親の子で、源義家の養子となった「源為義(ためよし) 」は、
京で、崇徳上皇と、摂関家の厳格な弟「藤原頼長」との親交が深かった。
「源為義」の子「源義朝(よしとも)」は鎌倉に下り、東国の地方武士
との主従関係を築いていた。
鳥羽法皇は、そうした源氏と平氏の武士を掌握し、武士勢力のバランスを保っていたが、
鳥羽法皇死去後に、そのバランスが一気に崩れることとなる。
(4)1156年、保元の乱
きっかけは鳥羽法皇の死。兄崇徳上皇と、弟後白河天皇の戦い。
1156年7月2日:鳥羽法皇死去
1156年7月10日:両者作戦会議
【兄、崇徳上皇サイド】
鳥羽法皇に抑えられて、皇位継承権で不利を受けていた「崇徳上皇」が先に動いた。
摂関家の弟「藤原頼長」と結び、さらに武士「源為義」「源為朝」、「平忠通(ただみち)」を
白河殿に集めた。
【弟、後白河天皇サイド】
鳥羽法皇から正式に皇位を継承した後白河天皇は、兄崇徳上皇との決戦に備えて、
近臣の「藤原通憲(みちのり)・後の信西」を参謀に、
武士「源義朝」「平清盛」を集めた。
【戦いの火蓋】
1156年7月11日
崇徳上皇側は、夜討ちという奇襲策を嫌って夜明け待っていると、
後白河天皇側の夜討ちに襲われた。
後白河側は、平清盛を先陣に指名し、その後を源頼朝がついていく形となったが、
夜討ちで火をつけて活躍したのは、源氏であった。
戦いは、後白河天皇側の勝利でおわる。
(5)保元の乱後
【裁き】
崇徳上皇は、讃岐に島流し、
藤原頼長、平忠正は戦死、
源為義は、息子の「源頼朝」の手で首をはねられた。
【恩賞】
後白河天皇は、戦の恩賞として
「平清盛」に、播磨守に任命、知行国4カ国
「源頼朝」に、左馬頭に任命、知行国1カ国を与えた。
源氏は、平氏との扱いの差に不満を抱えることとなった。
保元の乱は、京都市街を戦の場とした事で、貴族に衝撃を与え、
朝廷内部の権力争いも、武士の力を借りねば解決できなくなった
時代を象徴した。
のちに、延暦寺の天台座主となった、藤原摂関家出身の僧
「慈円(じえん)」は著『愚管抄(ぐかんしょう)』で
「これ以降、武者の世(むさのよ)となった」と書き記している。
(6)保元の新制
保元の乱後、政治の実権を握った「藤原通憲(みちのり)・信西」は、
経済力、軍事力、後白河天皇との関係も良好な平清盛を厚遇しつつ、
[保元の新制]を始めた。
保元の新制は、「保元元年令」や「宣下7か条」とも言われている。
その前文には、王土思想が掲げられてある。
【王土思想】
「九州(全国土)は、治天の君唯一の所有である」という天皇家への集権を宣言したもの。
【保元の宣下7か条】
・新規荘園の禁止
・既存荘園の本免以外の権利の主張の禁止
・大寺院や大神社やそのに属する神人・悪僧による横行の取り締まり
・内裏の官人の規律や風俗の統制。
荘園整理令の色合いが濃く、同時に「記録荘園券契所(記録書)」が再度設置され、
信西の息子や、信西が抜擢した官人によって、運営された。
政治的に巨大な権力を持つ信西に対しての、不満が高まっていった。
※ユーチューブ講座「平安時代・保元の乱①」
ユーチューブ講座「平安時代・保元の乱②骨肉の争いと戦後処理」
1141年、鳥羽法皇は、23歳の崇徳天皇を退位させ、
寵愛の美福門院の産んだ我が子「近衛天皇」を即位させた。
1155年、その近衛天皇が急逝。
鳥羽法皇は、新しい天皇に、兄崇徳上皇の子ではなく、
崇徳上皇の弟である「後白河天皇」を即位させ、
皇太子に、後白河の息子を置いた。
これにより、天皇の系統が、弟に移り、崇徳上皇は傍系におかれた。
1156年4月、年号を「保元」に変更した3ヶ月後の7月2日、鳥羽法皇が死去した。
御所に駆け付けた崇徳上皇は、鳥羽法皇の遺言として、御所の中に入る事を拒まれ、
屈辱の中、引き返さざるをえなかった。
兄、崇徳上皇が実権を握るには、クーデター必須の事態となる。
(2)関白藤原家の対立
父「藤原忠実」・・・長男・現関白「藤原忠通」
・・・次男・右大臣「藤原頼長」
1150年、鳥羽法皇の時世、関白は藤原家の長男「藤原忠通(ただみち)」であったが、
前関白で父の「藤原忠実」は、長男と折が悪く、
次男の「藤原頼長よりなが」に偏愛し、強制的に藤原家の氏の長者を、
長男から次男に変更してしまい、ここに、兄弟の対立構図ができあがる。
父に寵愛された次男「藤原頼長」は、17歳で右大臣になる程の頭のいい人物であるが、
融通がきかず、容赦のない厳格さから、人々からは「悪佐府」と呼ばれていた。
藤原忠通の子「慈円」の書いた『愚管抄(ぐかんしょう)』には、
藤原頼長について、「日本一の大学生であり、和漢の才に富む」と示している。
(3)源氏の動き
平氏が西日本で財を築き、朝廷に取り入っている頃、
源氏は、摂関家の守護として、朝廷との縁を保ってたものの、
勢力は平氏に押されていた。
源氏は、子供を地方で育てる事に拘り、武士の鍛錬育成をしつつ、
地方武士を味方につけて、東北~関東を中心に勢力を保っていたが、
身内争いが絶えず、低迷を続けていた。
源義親の子で、源義家の養子となった「源為義(ためよし) 」は、
京で、崇徳上皇と、摂関家の厳格な弟「藤原頼長」との親交が深かった。
「源為義」の子「源義朝(よしとも)」は鎌倉に下り、東国の地方武士
との主従関係を築いていた。
鳥羽法皇は、そうした源氏と平氏の武士を掌握し、武士勢力のバランスを保っていたが、
鳥羽法皇死去後に、そのバランスが一気に崩れることとなる。
(4)1156年、保元の乱
きっかけは鳥羽法皇の死。兄崇徳上皇と、弟後白河天皇の戦い。
1156年7月2日:鳥羽法皇死去
1156年7月10日:両者作戦会議
【兄、崇徳上皇サイド】
鳥羽法皇に抑えられて、皇位継承権で不利を受けていた「崇徳上皇」が先に動いた。
摂関家の弟「藤原頼長」と結び、さらに武士「源為義」「源為朝」、「平忠通(ただみち)」を
白河殿に集めた。
【弟、後白河天皇サイド】
鳥羽法皇から正式に皇位を継承した後白河天皇は、兄崇徳上皇との決戦に備えて、
近臣の「藤原通憲(みちのり)・後の信西」を参謀に、
武士「源義朝」「平清盛」を集めた。
【戦いの火蓋】
1156年7月11日
崇徳上皇側は、夜討ちという奇襲策を嫌って夜明け待っていると、
後白河天皇側の夜討ちに襲われた。
後白河側は、平清盛を先陣に指名し、その後を源頼朝がついていく形となったが、
夜討ちで火をつけて活躍したのは、源氏であった。
戦いは、後白河天皇側の勝利でおわる。
(5)保元の乱後
【裁き】
崇徳上皇は、讃岐に島流し、
藤原頼長、平忠正は戦死、
源為義は、息子の「源頼朝」の手で首をはねられた。
【恩賞】
後白河天皇は、戦の恩賞として
「平清盛」に、播磨守に任命、知行国4カ国
「源頼朝」に、左馬頭に任命、知行国1カ国を与えた。
源氏は、平氏との扱いの差に不満を抱えることとなった。
保元の乱は、京都市街を戦の場とした事で、貴族に衝撃を与え、
朝廷内部の権力争いも、武士の力を借りねば解決できなくなった
時代を象徴した。
のちに、延暦寺の天台座主となった、藤原摂関家出身の僧
「慈円(じえん)」は著『愚管抄(ぐかんしょう)』で
「これ以降、武者の世(むさのよ)となった」と書き記している。
(6)保元の新制
保元の乱後、政治の実権を握った「藤原通憲(みちのり)・信西」は、
経済力、軍事力、後白河天皇との関係も良好な平清盛を厚遇しつつ、
[保元の新制]を始めた。
保元の新制は、「保元元年令」や「宣下7か条」とも言われている。
その前文には、王土思想が掲げられてある。
【王土思想】
「九州(全国土)は、治天の君唯一の所有である」という天皇家への集権を宣言したもの。
【保元の宣下7か条】
・新規荘園の禁止
・既存荘園の本免以外の権利の主張の禁止
・大寺院や大神社やそのに属する神人・悪僧による横行の取り締まり
・内裏の官人の規律や風俗の統制。
荘園整理令の色合いが濃く、同時に「記録荘園券契所(記録書)」が再度設置され、
信西の息子や、信西が抜擢した官人によって、運営された。
政治的に巨大な権力を持つ信西に対しての、不満が高まっていった。
※ユーチューブ講座「平安時代・保元の乱①」
ユーチューブ講座「平安時代・保元の乱②骨肉の争いと戦後処理」