れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
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平安後期 15章-7 「平安中期の仏教(強訴)」

2014-03-07 | 平安時代
(1)平安中期の、寺社勢力

1036年の藤原摂関家時代、有力寺社は、その権力と武力を増していった。
寺社荘園の権利の主張や、地方中小寺社を取り込んで権力の拡大をすすめていった。

①【興福寺VS東大寺】
1037年、藤原家の寺である奈良「興福寺」が、聖武天皇建立の「東大寺」を焼き討ちする。

②【岩清水八幡宮の国司追放】
1037年、但馬国の岩清水八幡宮別当が、寺社から年貢を取り立てることを不服とし、
但馬の国司を朝廷に訴えたものが認められ、国司が流刑となる。

③【延暦寺の強訴】
1039年、高級貴族の子弟を、天台座主(僧のトップ)に押し付けられたことを不服とした
延暦寺の僧が武器を持って立ち上がり、朝廷に強訴をおこす。
延暦寺の内部闘争も起きる。

④【伊勢神宮の託宣】
1030年頃、伊賀国の伊勢神宮が、お神酒専用田から年貢をとりたてようとする
国司を朝廷に提訴し、国主「源光清」は流刑となる。
その後も、神の託宣として、朝廷に対して強固な批判と要望を押し付け、
伊勢神宮が、天皇と同等の権力を持つことを誇示しだした。


(2)寺社に逃げる農民
権力を持った寺社は、農民と荘園を急速に拡大させていく。

この頃、国司が好き勝手に祖の税率を決めて、農民に厳しい取立てを行っていたが、
寺社が、朝廷をも黙らせる権力を持つようになると、
農民達はこぞって、有力寺社や、高級貴族の荘園に、農民自身が開墾した田畑を寄進して
逃げ込み、ますます寺社の収益は上がり、権力を増していった

神社に仕えた農民を「神人(じにん)」、寺に仕えた農民を「夏衆(げしゅう)」と呼ぶ。

こうして、武士が勢力を増すのと同時期に、寺社も勢力を増していった。


(2)延久の荘園整理令の寺社への影響
1069年、後三条天皇の時に出された「延久の荘園整理令」により、
有力寺社も、荘園を没収された。
(岩清水八幡宮は、34箇所の荘園のうち、13箇所没収)


(3)院政と強訴
平安後期、大寺社の僧が武装化して、院に対して強行な要求をつきつけた。

一旦は、荘園整理令によって、荘園拡大が阻止されたものの、
国から支給される寺社への「封戸(ふと・寺社への俸禄のこと)」が、
国司の滞納によって途絶えだした。
有力寺社は、再び独自の経済基盤として再び「荘園」の保有に走り、
地方武士出身者の低級僧侶を、「僧兵」として武装化させ、
武力によって、荘園の拡大や、他寺社との衝突を収めようとした。

また、院が仏教を厚く信仰し、鎮護国家を唱える寺社に対して強行手段を
とらないことをいいことに、仏教のご神体を持って、たびたび院に「強訴」に出た。


(3)2大強訴、南都と北嶺
特に強訴のひどかった興福寺と延暦寺のこと

南都(なんと) ------奈良の興福寺の僧兵は、春日大社のご神木である榊を掲げて京都に強訴に行った。
         春日大社は、摂関家「藤原家」の氏神である為、手が出せなかった。

北嶺(ほくれい) ----比叡山延暦寺の僧兵は、日吉神社の神輿をかついで強訴した。         鎮護国家(国や天皇家の安泰を祈る)天台密教の本部であったため、朝廷は対応に苦慮した。


(4)天下不如意
『平家物語の源平盛衰記』に、白河上皇が
鴨川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
と嘆いたという逸話がある。

これは、『天下三不如意』とよばれ、京都市内を流れる賀茂川の氾濫、すごろくの目と、
山法師=比叡山延暦寺の僧兵の3つは、自分の意図に従わないもの、
という意味。上皇の権力の大きさと、山法師への苦慮がうかがい知れる。


(4)院政と仏教と武士

寺社の武装化した強訴に対して、朝廷(院)は、武士を起用して警備、取り締まりにあたった。
武力に対して、武力で応じることは、のちに保元・平治の乱を起こし、武士社会を築いていくことになる。