れきしぱうち

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平安後期 15章-16 「源平の争い・後編」

2014-03-16 | 平安時代
(1)鎌倉に本拠地をおく源氏
関東一円の豪族、武士団を配下においた源氏の棟梁「源頼朝」は、
鎌倉に本拠地をおき、そこから戦いの指揮をとった。

[富士川の戦い]の時に、[平治の乱]で生き別れた異母弟の「源義経」
が駆けつけていた。
源頼朝は、自分は動かずに、弟の「源範義(のりよし)」と「源義経」を
出兵させて、平氏と戦う戦法をとる。

(2)源義仲と、倶利伽羅峠の戦い
1183年、平清盛の死後に平氏を継いだ「平惟盛(これもり)」は、
10万の大軍で、源義仲の追討に出た。

当初こそ平氏軍が押していたが、源義仲の策で、越中(富山県)の
倶利伽羅峠(くりからとうげ)に追い込まれたうえ、奇襲を受けて大敗北をきっした。
源義仲の奇襲とは、松明を角につけた牛の大群に、平氏軍を負わせて、
谷底に追い落としすものであった。

大打撃を受けた平氏は、源義仲が京に追ってくる前に、
三種の神器と、安徳天皇を連れて、京を出て西国へ逃げた。

(3)源義仲の追討
平氏の大軍を破った勢いで京に入った「源義仲」の一行は京の都で略奪などの乱暴狼藉を
働き、「後白河法皇」と対立して、半ば強制的に自分を征夷大将軍に任命させた。
当初、後白河法皇は源義仲に平氏追討を命じていたが、[水島の戦い]で平氏に大敗し、
後白河法皇は、源義仲を見限り、鎌倉の源頼朝に、東海道・東山道の支配権を譲るかわりに、
源義仲を討つよう命じた。
源義仲は、頼朝の命を受けた「源義経」に討たれて、朝日将軍と揶揄された。

(4)一の谷の戦い
源氏が内乱を制していた頃、平氏は西国で力を盛り返し、福原の旧都に陣を構えて、
京を狙うまでになっていた。

後白河法皇は、平氏が持ち逃げした三種の神器の奪還と、平氏討伐を計画し、
平氏へは休戦の命令と講和の手紙を出して、平氏に大幅な武装解除をさせて気を緩ませておき、
一方で、鎌倉政権の源氏を使って、平氏へ大規模な軍を派遣した。

平氏追捕の任を受けた「源範頼」は5万の大軍を率い、「源義経」は1万の小軍をつれて、
摂津の福原に向かった。
源義経は、山道をすすみ、ひよどり峠でさらに軍を分けて、僅か70騎の小隊で、
平氏の陣の裏手の山道をすすんだ。

途中、武蔵坊弁慶が地元の狩人の青年に道案内を頼み、一の谷の裏まで到達する。
道案内の者が「この崖は人馬は超えれません」と言ったが、
義経は「鹿が通えるのなら、馬も通えよう」と言い、
断崖絶壁の崖をくだり降り、平氏の陣へ背後から突撃した。

驚いた平氏は、ちりぢりの海へ逃げたが、源氏軍の「熊谷直実(くまがやなおざね)」が
平氏の大将に「敵に後ろをみせるのか」と問うと、引き返して対峙した。
しかし、熊谷が汲み取り、首を取ろうと敵の顔を見ると、まだ16歳の平敦盛であった。
熊谷にも、同年代の息子がいたが、泣く泣くその首を斬り、後に手厚く供養したという
逸話も残っている。

源義経の奇襲作戦の前に、後白河法皇による作戦が敷かれており、
後白河の作戦勝ちによる勝利が大きい。
この戦いで、平氏は大打撃を受けるが、三種の神器の奪還は失敗に終わる。


(5)屋島の戦い
[一の谷の戦い]のあと、平範頼は鎌倉に帰り、功績を認められて出世した。
源義経は、平氏の逆襲を恐れる京の法皇や貴族の依頼もあり、京に残って、
都の軍事と治安維持を請負い、後白河法皇から検非違使に任命され、昇殿も許される
ほどに、法皇の信頼を得ていた。

この後、義経は平氏討伐から外されるが、
源頼朝が、義経が自分の許可を得ずに出世したことに怒って、平氏討伐軍から外したとの説と、
在京貴族や法皇の依頼で、京の守備に就かせたという説がある。

平氏は、四国の讃岐屋島を本拠地として、内裏を置く。
後白河法皇の命を受けて、源範頼が屋島を攻めようとするも、水軍の調達が出来ぬまま、
軍は疲弊していった。そこで、源義経に平氏討伐の命がくだった。
義経は水軍の調達をすませ、船頭も嫌がる暴風雨の中を僅か5隻、150騎で四国に渡り、
陸側から屋島を攻めた。
平氏は海側からの攻撃に備えていたため、陸側の攻撃にひるみ、海に逃げる。
夕刻の休戦時、平氏側より、美女の乗った1隻の小船が進み出て、竿先の扇子に弓を射よと
挑発した。
これを源氏側の「那須与一」が切腹覚悟で見事射止め、源氏も平氏もやんやの大騒ぎであった。
しかし、鎌倉方より援軍が到着し、再び合戦となり、平氏は壇ノ浦へ逃げることなる。


(6)壇ノ浦の戦い

1185年4月、屋島を追われた平氏は、山口県の関門海峡、壇ノ浦での決選の準備を進め、
大型唐船に兵を乗せ、安徳天皇や女御らを小舟に乗せて源氏の水軍を待ち受ける。

関門海峡は潮の流れが早く、海流を知り尽くした平氏は、海流に乗って源氏を責めた。
だが、潮の流れが反転すると、今度は源氏が平氏を激しく責め、平氏は壊滅状態となる。
勝負がついた事を悟った「平知盛」は、安徳天皇の乗る小舟に乗り移った。
「二位尼」は安徳天皇を抱きかかえ、三種の神器を持って、海に身を投げた。
「建礼門院」や他の平氏達も後に続いて海に身を投げたが、建礼門院は源氏によって
助け出され、捕虜となる。
三種の神器のうち、鏡と勾玉は回収できたが、宝剣は、海に沈んでしまった。


(7)戦後

壇ノ浦で平氏を壊滅し、建礼門院や平氏の捕虜を連れて凱旋した「源義経」を、
後白河法王は大歓迎し、義経とその御家人を任官した。

「源範頼」と「梶原景時」は九州に残って、平氏残党の処理をしていた。

源義経は、任官の件や、梶原景時からの密告の手紙によって、「源頼朝」の
怒りを買って、対立を深めていくことになる。



※ユーチューブ【NHKその時歴史が動いた・壇ノ浦の戦い】

平安後期 15章-15 「源平の争乱・前編」

2014-03-15 | 平安時代
(1)源平の争乱 年表

1180年~1186年の6年間に及ぶ、源氏と平氏の内乱を
「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」 という。

1177年---[鹿ケ谷の陰謀]
1179年---[治承3年の政変]後白河法皇の幽閉

1180年2月---安徳天皇の即位
   5月---以仁王・源頼真政の挙兵[宇治川の戦い]→失敗
   8月---源頼朝挙兵[石橋山の戦い]→失敗
   9月---源義仲挙兵
   10月---源頼朝挙兵[富士川の戦い]→勝つ
   12月---平重ひら[東大寺・興福寺焼き討ち]

1181年2月---平清盛死亡
   4月---養和の飢饉
   5月---源義仲[倶利伽羅峠の戦い]→勝つ

1182年------京で暴れる源義仲を、源氏が追捕

1184年------後白河法皇、平氏打倒を要請
   2月---[一の谷の合戦]

1185年2月------[屋島の戦い」
   3月------[壇ノ浦の戦い]

1189年---------[衣川の戦い]
        奥州藤原家滅亡
1192年---------後白河法皇死、源頼朝が征夷大将軍になる


(2)1180年 以仁王の令旨
1179年、平清盛によって後白河法皇が幽閉され、
かわって平清盛の孫である「安徳天皇」が即位した。

この天皇家及び朝廷をも支配する、平氏の横暴に対して、
1180年4月、「源頼政」は息子の仲綱とともに三条高倉御所を訪れ、
後白河法皇の第3皇子であり、安徳天皇の即位によって天皇になることが
絶望的になった「以仁王(もちひとおう) 」に
「源頼朝らの源氏を味方にして平家を討ち滅ぼすこと」を申し入れた。

「源頼政」は、[平治の乱]の際に、源氏でありながら源氏につかず、平氏側についたことで、
平氏に重用されて出世していたが、ここにきて、平氏を裏ぎり、源氏の挙兵を促した。

それに応じた以仁王は、『以仁王の令旨』を発布させると、源頼朝の叔父の
「源行家(ゆきいえ)」を東国に走らせ、まずは、伊豆国の「源頼朝」に令旨を伝え、
その後、他の源氏にも伝えるよう手配した。   ・・・『吾妻鏡』より

院の出した命令--------------院宣(いんぜん)
天皇の出した命令------------宣旨(せんじ)
皇后や親王の出した命令-----令旨(りょうじ)


【以仁王の令旨 訳】
東海・東山・北陸三道諸国の源氏、ならびに群兵らに下す。
清盛法師とその一族ら、反逆の輩の追討に早く応じること。

清盛法師ならびに宗盛らは、権勢をもって凶悪な行いをし、
諸寺の高僧を召し取りこめて、修学の僧徒を禁獄し、
または比叡山の絹米を横領し、百王の事蹟を絶ち、
摂関の首を切り、天皇に違逆し、仏法を破滅し、古代からの伝統を絶つ者である。

時に天地はことごとく悲しみ、臣民みな愁う。
そこで、私は後白河法皇の第二皇子であるから、天武天皇の旧儀を尋ねて、
王位を簒奪する輩を追討し、仏法破滅の輩を討ち滅ぼそうと思う。

もし帝王に三種の神器と神明のご加護があるならば、どうしてたちまちに諸国に
力を合わせようという志の者が現れないことがあろうか。

そこで、源氏、藤原氏、または三道諸国の勇士らよ、同じく追討に与力せしめよ。
もし同心しないものは、清盛法師ら一族に準じて、死罪・流罪などの罪科が行われるだろう。
もし勝って功績あるものは、即位の後には必ずのぞみのままに恩賞を与えられるだろう。
諸国よろしく承知し、宣旨に従って行え。
治承四年四月九日 前の伊豆守・正五位下・源朝臣仲綱


(3)1180年 宇治川の戦い
「以仁王」と「源頼政」の平家打倒の陰謀は、平氏に知れることとなり、
以仁王は、園城寺(滋賀県三井寺)や、宇治平等院を頼って平氏の軍から逃げた。

5月26日、宇治川を挟んで、平氏軍と対立することとなる。
以仁王軍は、宇治川の橋板をはずせば、平氏軍は渡ってこれないだろうと
思っていたが、平氏軍の猛者達は意に介さず、川を馬で渡り、以仁王は殺される。

この戦いで名を挙げたのが東国の「大庭景親」と「足利忠綱」であった。
打倒平氏の機運の高まりを感じた平清盛は、安徳天皇を連れて、都を福原に移した。

(4)東国の情勢
「源頼朝」は[平治の乱]で滅亡された源氏の生き残りで、流刑の地伊豆で、
伊豆の豪族北条氏の娘「北条政子」と結婚し、北条家の庇護を受けて暮らしていた。
東国は、源氏の影響力が濃い地域であった為、正当な源氏の後継者である「源頼朝」は、
一目おかれる存在であった。

[平治の乱][治承3年の変政][宇治川の戦い]の後、
東国は平氏の知行国となり、伊豆は、平氏系の伊東氏や、山木氏が勢力を誇っていた。
源氏派の地元豪族達は、平氏の目代(知行国を地元で管理する者)に迫害され、平氏に不満を抱いていた。

その為、源氏の直系である「源頼朝」より挙兵の連絡が届いたときは、
「大庭景義(平氏側の大庭景親の兄)」や、三浦氏は涙を流して喜んだ。

(5)石橋山の戦い
1180年8月、源頼朝は、手始めに伊豆目代の「山木氏」の館を襲撃して勝った勢いで、
「北条時政」ら300騎を従えて、相模湾に面する石橋山に陣取り、三浦氏の参戦を待った。

しかし、平氏側は大軍をもって「大庭景親」が石橋山の前方を塞ぎ、
「伊東氏」が後方を塞ぎ、合流するはずであった地元勢力の三浦軍が、
大雨で到着が遅れた隙をはかって攻め入った為、
源頼朝は、命からがら逃げるのが精一杯であった。

(6)源頼朝の再挙兵
[石橋山の戦い]から命からがら逃げ出した「源頼朝」は、三浦氏と合流して安房の国(千葉県)
に上陸し、安房国より各地豪族達に、打倒平家の名の元、源氏につくよう手紙を出し、
戦わずして、東国一帯の豪族・武士団を味方につけて、東国を支配化におき、
源氏の先祖からの土地である鎌倉に、源氏の本拠地を置いた。

また、以仁王の令旨に刺激されて、
信州では、木曽源氏である「木曽義仲」、甲斐の「武田信義」、
四国では河野氏、九州では菊池氏が兵を上げ、大寺社もこれに応じた。

(7)富士川の戦い
平氏は、東国へ追討軍を出したが、折からの西国の飢饉もあり、
人数、士気ともに上がらぬままの出兵であった。
対して、迎え撃つ源氏は、膨れ上がる一方であった。

1180年10月、富士川をはさんで陣をとっていた両軍であったが、
夜襲をかけようとした源氏軍の動きに驚いて飛び立った水鳥が一斉に飛び立ち、
それに驚いた平氏軍が、パニック状態となって、我先に逃げ出した為、
富士川の戦いでは、一線もしないまま、源氏の勝利となった。


(8)平氏の追捕
1180年12月、平清盛は、福原から京に都を戻したうえで、大規模な追討軍を出した。

1181年1月には、平清盛の命を受けた「平重衡」が、南都の大寺社の反乱を鎮める為、
東大寺と興福寺をはじめとする、南都の寺院を焼き払った。

(9)平清盛の死
東大寺・興福寺を焼き払った後、
高倉天皇と、平清盛が相次いで、高熱を出して死去した。
人々はこれを、仏の罰がくだったと噂した。



平安後期 15章-14 「平氏のクーデター」

2014-03-14 | 平安時代
(1)1176年、建春門院の死
平氏と後白河院の関係悪化

建春門院は、平清盛の妻の妹「平滋子」で、後白河院の妻、高倉天皇の生母である。

1176年6月、平氏と後白河院のパイプ役であった、建春門院が亡くなる。
これをきっかけとして、一気に後白河院と平氏の関係が悪化していった。

「高倉天皇」を推す平氏と、後白河院政の継続を図る院近臣との間で対立が生まれた為である。


(2)1177年、白山事件
後白河院政と、比叡山延暦寺の衝突

1177年3月、院近臣が、領土争いの中で、山門(比叡山延暦寺)系列の、白山寺を焼き払ったことで、
山門が激怒、京での院勢力と、山門の衝突が起こる。

同4月、大極殿と13人の貴族の邸が焼かれたことに怒った後白河院は、
院近臣「西光」の入れ知恵で、天台座主「明雲」を逮捕、伊豆に配流した。
しかし、伊豆への配流の移動中に、「明雲」は奪還され、山門(延暦寺)に隠匿される。

これに激怒した後白河院は、平氏を呼んで、山門(延暦寺)を直接攻撃するよう命じる。
当時の日本の宗教の要であり、また巨大武力勢力である山門を敵に回すことは、
平氏にとっても、避けたい危機的状況であった。

(3)1177年、鹿ケ谷の陰謀
平清盛による、反平氏勢力の一掃

慈円の『愚管抄によると、1177年、後白河院が、京都東山の鹿ケ谷山荘へ行くと、
院近臣の藤原成親(なりちか)西光俊寛らが平氏打倒の話しあいをしていた。

『平家物語』には、その場で、「藤原成親」が立ち上がった勢いで、酒の瓶子(へいじ)が
倒れ、それを見た「西光」が「頸をとるにしかず」と言って、瓶子(へいじ)と平氏を
かけて、瓶子の首を叩き切って、場を盛り上げた。

その場に居合わせた「多田行綱」は、平清盛に密告。
激怒した「平清盛」は、鹿ケ谷の平氏打倒の話の場に居合わせた者を一網打尽に捕まえ、
「西光」は拷問の末に殺害、他もさんざんたる罰を受けた。
ただし、後白河院だけは無罪放免としている。

これを聞いた山門(延暦寺)は、憎き敵である「西光」を処刑した「平清盛」に
感謝を述べたという。

[鹿ケ谷の陰謀]事件により、平氏は山門(延暦寺)との衝突を避け、
反平氏勢力を、根こそぎ排除するというメリットがあった。
しかし、後白河法皇との関係悪化は深まり、[治承三年の政変」へとつつ進んでいく。


(4)1179年、治承三年のクーデター
平清盛が後白河院を幽閉し、政権を乗っ取る

【後白河院の不満】
1178年、平清盛の娘「徳子」が、高倉天皇の子を産んだ。
清盛は、後白河法皇に、この子を立太子するよう迫り、高倉天皇の皇太子とする。
皇太子の周辺からは、院近臣を排除し、平氏一門で固めた為、後白河と院近臣は不満を高める。

【清盛の不満】
1179年6月、関白家に嫁いでいた娘の「盛子」死去。
盛子が管理していた、関白家の家領を、後白河院によって没収される。
同年7月、息子の「平重盛」死去、これも後白河によって重盛の知行国が没収される。

【クーデター勃発】
1179年11月、平清盛は、数千の大軍を引き連れて福原から京に入った。
後白河院政は、今後政治に介入しないことを約束し、平氏に謝罪した。

しかし、平清盛は、後白河院を鳥羽院に幽閉し、後白河院制を停止した。

その後、平氏は天台座主を平氏よりの「明雲」にすげかえ、
後白河の院近臣の迫害と、殺害、その知行国や荘園を没収していった。

全国66カ国の知行国のうち、半数の32カ国が平氏の知行国となる。
(クーデター前の平氏知行国は17カ国)

1180年、清盛の孫で幼い「安徳天皇」を即位させると、
平氏の傀儡としての高倉院制が始まった。



山川出版 詳日 第4章P88~
山川   詳細日本史研究 P128
山川   詳日 図録 P92

















平安後期 15章-13 「平氏政権」☆

2014-03-13 | 平安時代
(1)平治の乱後
[保元の乱]→[平治の乱]は、平氏の権力を絶対的なものにする機会であった。

平治の乱後、ライバルだった源氏は駆逐され、源氏以外の軍事貴族も淘汰され、
平氏が院庁別当、左馬頭、検非違使などの主要な地位を独占した。
特に、京の治安維持、軍事、地方反乱の鎮圧、荘園管理を独占した
ことが大きかった。

また、武士でありながら、初の「公家」となり、朝廷への出入りを
許可され、政治的な権力をも握っていくこととなる。

(2)平清盛の昇進
1159年、[平治の乱]で、後白河上皇と二条天皇を助け、源氏を滅ぼす。

1160年、平清盛は正三位参議へ昇進、武士で初の公家となる。

1161年、清盛は、検非違使別当となり、京の軍事、警察権力を掌握する。
同年 、清盛の妻の妹「滋子」が、後白河院の子(のちの高倉天皇)を産む。

1161年、後白河上皇は、鴨川東の「法住寺殿(ほうじゅうじでん)」に移り住み、
ここを院の拠点とする。

1164年、清盛は、後白河院の信任を得て「蓮華王院(三十三間堂) 」を造営し、
    本堂と千一体の千手観音像、古今東西の宝物を納めた。
    この寺院への平家の貢献度の高さを評価され、息子の重盛が正三位となる。

同年 、厳島神社へ、全33巻の豪華な写経を奉納する。いわゆる「平家納経」である。

1165年、二条天皇死去。
    2歳の六条天皇が即位し、滋子の子「憲仁親王(のちの高倉天皇)」が東宮になる。

同年 、娘盛子の夫、清盛にとっては娘婿である、関白「藤原基実」が死亡。
    関白家の所領を、未亡人である娘盛子が管理し大きな経済基盤を得る。

1166年、正二位 内大臣に就任。
1167年、従一位 太政大臣に就任となり、摂関藤原家を抜いて、朝廷トップとなる。


(2)出家後の清盛
1168年、0歳で即位した六条天皇が3歳で退位し、滋子の子「高倉天皇」が即位する。

同年 、重病にかかった清盛は、太政大臣を辞して出家し、「浄海」と名乗り、
    兵庫県の福原に別荘を設け、常時そこに住むようになった。
    私費で、福原の泊港を大改修し、宋の貿易船が入れるようにした。

清盛自身は退位したものの、平氏一門を朝廷高官、諸国受領、地方高官に就け、
朝廷を平氏一門で牛耳る状態にしていた。(公卿16人、殿上人30人超)

1171年、11歳の高倉天皇に、清盛の娘「徳子」が入内する。

大栄華を極めたこの頃、「平家にあらずんば人にあらず」の発言があったとされる。


(3)地方武士団と平氏

平氏が全盛を迎えた背景に、各地での武士団の成長があった。
全国の荘園管理の権利を持つ平清盛は、地方武士の一部を、
地方の荘園現地支配者である地頭に任命し、
機内・西国一帯の武士を家人(けにん)として、勢力を拡大した。

さらに、海賊や山賊の追討使でもあった為、鎮圧後に平氏の勢力に
組み込んでいった。

(4)平氏政権(六波羅政権)

平氏政権とは、平安時代末期の武士が表舞台に台頭する時代、
平清盛をピークとする、伊勢平氏による政権のこと。
平清盛一族の屋敷が、京の六波羅にあったことから「六波羅政権」とも言われる。

初 代:平正盛----白河院政
二代目:平忠盛---鳥羽院政
三代目:平清盛---後白河院政

【地方の統制】
平氏が全盛を迎える背景には、各地での武士団の成長があった。
平清盛は、彼らの一部を、荘園や公領の現地支配者である地頭に任命して、
機内・西国の武士達を家人(けにん)として、勢力を拡大した。

また、海賊・山賊の追討使として討伐した輩を、平家の支配下に組み込んでいった。

【朝廷での立場】
一方、朝廷内では、乱の度に院や天皇の為に武力を駆使し、
持てる経済力を惜しみなく使って、寺社や内裏の造営に尽くし、
時の権力者である「信西」や、関白家の摂政「藤原基実」らと婚姻を結ぶ
などして、朝廷内に深く入り込んでいった。

妻の妹である「滋子(建春門院)」が、後白河院の寵愛を受けて、「高倉天皇」を生んだあと、
その「高倉天皇」に、娘の「徳子(のちの建礼門院)」を中宮としていれ、
娘の産んだ子「安徳天皇」の外戚として、天皇の親族という血筋的な地位も
手に入れた。

朝廷内で、並び居る者のないほどの地位を手に入れると、
平氏一族を高官として採用し、朝廷内の官職を独占した。

【経済基盤】
父、平忠盛が築いた「日宋貿易」の巨額の経済基盤を、摂津の大和田泊(神戸市)の港を
修築したり、西日本の良港を獲得、瀬戸内海の海路を整備するなどして、
さらに強固なものとした。

また、数多くの知行国と、500余りの荘園を所有。

【平氏政権の陰り】
武士が、従来の貴族的国家組織にのっとって権力を増していく方法は、
周囲からの反感、反発が起こることが必至であった。

一族での官職の独占により、排除された旧勢力の反発。
力を持ちすぎた平氏に対する、後白河院の警戒。
後白河院とのパイプであった「滋子・建春門院」の死後、
それが一気に転がり落ちていくこととなる。


山川出版「詳細 日本史研究」P127
マンガ日本の歴史、石の森章太郎 第4巻

平安後期 15章-12 「平治の乱」☆

2014-03-12 | 平安時代
(0)平治の乱とは

1158年、後白河院派と、二条天皇派の対立の中、
院の近臣である「藤原信頼(のぶより)」と「源義朝(よしとも)」が中心となって、
当時の政治的権力者「信西」と「平清盛」に反発して起した戦い。

「藤原信頼」と「源義朝」は、宮殿を焼き、後白河院と二条天皇を拉致、幽閉したが、
平清盛が助け出した上で、藤原信頼、源義朝を討伐した。
平治の乱で活躍した平氏が、天皇と院の信頼を得て、絶大な権力を持っていく。

(1)対立
【院派と天皇派の対立】
1158年、後白河天皇は、わずか3年で退位して院となり、
息子の二条天皇16歳に天皇位を譲り、院制を立てた。
ここで、院派と、天皇親政派の対立が起こる。

二条天皇は、息子であるが、鳥羽法皇と美福門院の養子となっており、
鳥羽法皇の遺産や荘園を相続し、最大荘園主である権力者「美福門院」
がうしろだてとなっており、譲位も美福門院の要望であった。

【藤原信頼という男】
うしろだての乏しい後白河院は、院の近臣の育成が急務であった。
そこで、武蔵守であった「藤原信頼」を抜擢し、大出世をさせる。

武蔵国は源氏の地であり、また宮中の軍馬を管理する
左馬頭である「源義朝」とつながりがあった。

【反信西のうごき】
「藤原信頼」は、政治的権力を握る「信西」への不満を、
「源義朝」は、保元の乱後の平氏との評価の落差と、
信西の平氏厚遇による、源氏の扱いの低さに不満を抱いていた。


(2)平治の乱
1159年、平清盛、重盛ら平氏一門が、熊野詣に出た隙を狙い、
クーデターは起された。

院御所である三条殿に、藤原信頼、源義朝軍が奇襲をかけ、
内裏に火を放ち、後白河院と二条天皇を拉致、幽閉した。

また信西は自宅を襲撃され、逃亡するも殺され、
その首は、検非違使庁の獄門にさらし首にされた。

クーデターを成功させた藤原信頼は、臨時除目を発し、
自身を大臣大将として、朝廷を乗っ取った。

東国からこの乱に駆け付けた源義朝の息子「悪源太義平」は、
熊野詣から討ち返してくるであろう平氏を迎え撃つべき、と進言したが、
聞く耳を持たなかった。

(3)平氏の反撃
熊野詣の途中で乱の一報を聞いた平清盛一行は、六波羅の平邸に急ぎ帰った。
源氏の中でも、義朝とソリの合わない「源頼政(よりまさ)」を味方に引き入れて、
奪還作戦は実行された。

まず、後白河院と二女天皇を、女御に扮装させて、牛舎で幽閉されていた内裏から
抜け出し、二条天皇は六波羅邸に、後白河院は仁和寺に避難した。

やがて、続々と公卿諸公も六波羅邸に集まり、六波羅の清盛邸は、
臨時の朝廷、政府所在地のようであった。

人質を奪還した後、平家は一気に「藤原信頼」「源義朝」軍を討ち、僅か1日で決着はついた。

(4)平治の乱後

藤原信頼は、掴まって処刑され、
源義朝は、東国へ逃げる途中で殺害された。
その後、源氏は皆殺しの勢いで処刑されていった。

ただ、源義朝の三男で、13歳の「源頼朝」は、清盛の義母
「池禅寺」の慈悲によって殺されずに、伊豆に流され、
その命と源氏の血を継続させた。

また、常盤御前と2歳の牛若丸(のちの源義経)ら子ども達は、
京の寺で暮らすことを許され、その命を取り留めた。

保元の乱に続き、またもや朝廷内の争いに、武士の力が
必要不可欠である事を印象づけた事件であった。
この戦いで、平清盛の地位は、絶対的となる。

※ユーチューブ【平安時代・平治の乱】

※ユーチューブ【NHKその時歴史は動いた・源義朝vs平清盛・源義朝から見た時代】

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漫画日本史 石の森章太郎 14巻

平安後期 15章-11 「保元の乱」☆

2014-03-11 | 平安時代
(1)天皇家の対立

1141年、鳥羽法皇は、23歳の崇徳天皇を退位させ、
寵愛の美福門院の産んだ我が子「近衛天皇」を即位させた。

1155年、その近衛天皇が急逝。
鳥羽法皇は、新しい天皇に、兄崇徳上皇の子ではなく、
崇徳上皇の弟である「後白河天皇」を即位させ、
皇太子に、後白河の息子を置いた。

これにより、天皇の系統が、弟に移り、崇徳上皇は傍系におかれた。

1156年4月、年号を「保元」に変更した3ヶ月後の7月2日、鳥羽法皇が死去した。
御所に駆け付けた崇徳上皇は、鳥羽法皇の遺言として、御所の中に入る事を拒まれ、
屈辱の中、引き返さざるをえなかった。

兄、崇徳上皇が実権を握るには、クーデター必須の事態となる。

(2)関白藤原家の対立
父「藤原忠実」・・・長男・現関白「藤原忠通」
       ・・・次男・右大臣「藤原頼長」

1150年、鳥羽法皇の時世、関白は藤原家の長男「藤原忠通(ただみち)」であったが、
前関白で父の「藤原忠実」は、長男と折が悪く、
次男の「藤原頼長よりなが」に偏愛し、強制的に藤原家の氏の長者を、
長男から次男に変更してしまい、ここに、兄弟の対立構図ができあがる。

父に寵愛された次男「藤原頼長」は、17歳で右大臣になる程の頭のいい人物であるが、
融通がきかず、容赦のない厳格さから、人々からは「悪佐府」と呼ばれていた。

藤原忠通の子「慈円」の書いた『愚管抄(ぐかんしょう)』には、
藤原頼長について、「日本一の大学生であり、和漢の才に富む」と示している。

(3)源氏の動き
平氏が西日本で財を築き、朝廷に取り入っている頃、
源氏は、摂関家の守護として、朝廷との縁を保ってたものの、
勢力は平氏に押されていた。

源氏は、子供を地方で育てる事に拘り、武士の鍛錬育成をしつつ、
地方武士を味方につけて、東北~関東を中心に勢力を保っていたが、
身内争いが絶えず、低迷を続けていた。

源義親の子で、源義家の養子となった「源為義(ためよし) 」は、
京で、崇徳上皇と、摂関家の厳格な弟「藤原頼長」との親交が深かった。

「源為義」の子「源義朝(よしとも)」は鎌倉に下り、東国の地方武士
との主従関係を築いていた。

鳥羽法皇は、そうした源氏と平氏の武士を掌握し、武士勢力のバランスを保っていたが、
鳥羽法皇死去後に、そのバランスが一気に崩れることとなる。


(4)1156年、保元の乱
きっかけは鳥羽法皇の死。兄崇徳上皇と、弟後白河天皇の戦い。

1156年7月2日:鳥羽法皇死去
1156年7月10日:両者作戦会議

【兄、崇徳上皇サイド】
鳥羽法皇に抑えられて、皇位継承権で不利を受けていた「崇徳上皇」が先に動いた。
摂関家の弟「藤原頼長」と結び、さらに武士「源為義」「源為朝」、「平忠通(ただみち)」を
白河殿に集めた。

【弟、後白河天皇サイド】
鳥羽法皇から正式に皇位を継承した後白河天皇は、兄崇徳上皇との決戦に備えて、
近臣の「藤原通憲(みちのり)・後の信西」を参謀に、
武士「源義朝」「平清盛」を集めた。

【戦いの火蓋】
1156年7月11日
崇徳上皇側は、夜討ちという奇襲策を嫌って夜明け待っていると、
後白河天皇側の夜討ちに襲われた。

後白河側は、平清盛を先陣に指名し、その後を源頼朝がついていく形となったが、
夜討ちで火をつけて活躍したのは、源氏であった。

戦いは、後白河天皇側の勝利でおわる。

(5)保元の乱後

【裁き】
崇徳上皇は、讃岐に島流し、
藤原頼長、平忠正は戦死、
源為義は、息子の「源頼朝」の手で首をはねられた。

【恩賞】
後白河天皇は、戦の恩賞として
「平清盛」に、播磨守に任命、知行国4カ国
「源頼朝」に、左馬頭に任命、知行国1カ国を与えた。
源氏は、平氏との扱いの差に不満を抱えることとなった。

保元の乱は、京都市街を戦の場とした事で、貴族に衝撃を与え、
朝廷内部の権力争いも、武士の力を借りねば解決できなくなった
時代を象徴した。

のちに、延暦寺の天台座主となった、藤原摂関家出身の僧
「慈円(じえん)」は著『愚管抄(ぐかんしょう)』で
これ以降、武者の世(むさのよ)となった」と書き記している。


(6)保元の新制

保元の乱後、政治の実権を握った「藤原通憲(みちのり)・信西」は、
経済力、軍事力、後白河天皇との関係も良好な平清盛を厚遇しつつ、
[保元の新制]を始めた。

保元の新制は、「保元元年令」や「宣下7か条」とも言われている。
その前文には、王土思想が掲げられてある。

【王土思想】
「九州(全国土)は、治天の君唯一の所有である」という天皇家への集権を宣言したもの。

【保元の宣下7か条】
・新規荘園の禁止
・既存荘園の本免以外の権利の主張の禁止
・大寺院や大神社やそのに属する神人・悪僧による横行の取り締まり
・内裏の官人の規律や風俗の統制。

荘園整理令の色合いが濃く、同時に「記録荘園券契所(記録書)」が再度設置され、
信西の息子や、信西が抜擢した官人によって、運営された。

政治的に巨大な権力を持つ信西に対しての、不満が高まっていった。


※ユーチューブ講座「平安時代・保元の乱①」

 ユーチューブ講座「平安時代・保元の乱②骨肉の争いと戦後処理」

平安後期 15章-10 「鳥羽法皇と、平氏の台頭」

2014-03-10 | 平安時代
(1)平氏初代、平正盛
白河院に、所領を寄進して気に入られ、院政で北面の武士、検非違使、追捕士などに
重用された、平氏台頭の初代人物


【1097年、所要の寄進】
伊勢の桓武平氏であった「平正盛(ただもり)」は、自身の伊賀所領を「六条院」に寄進し、
白河法皇と、祇園女御に気に入られ、若狭守や北面の武士として、白河院の近臣に入り込んだ。

【1108年、源義親の討伐】
この頃、出雲で「源義家」の息子「源義親」が反乱を起こす。
当初、身内である源氏に「源義親」追捕の命が出ていたが、追捕できず、
「平正盛」が追捕に出て、討伐を果たした。
この一件で、すっかり「平正盛」の武士としての株は上がり、
その年の延暦寺と園城寺の強訴の防衛軍に、源氏と並んで起用された。

ここに、源平相並ぶ武士の構図が出来上がった。
白河法皇は、武士をどう使えばいいのか、実によく心得ていたのだ。

【1113年、六波羅蜜寺】
正盛は、自身の建てた、六波羅蜜寺に祇園女御を招いて供養祭をするなど、
祇園女御との密接な関係を維持する事で、白河法皇に取り入っていた。

(2)2番手、平忠盛
平家の経済基盤を作った、平清盛の父。

【海を制する忠盛】
1132年頃、「平正盛」の子「平忠盛(ただもり)」は、瀬戸内海の海賊を追捕で成功を
納め、朝廷からの西日本の主要地(播磨守、美作守、備前守)を任され、
海賊達を手下に組み込みながら、瀬戸内海を制していった。

また、白河上皇の荘園領地である、九州肥前(佐賀、長崎)を任された事で、
当時九州で盛んだった、中国、宋との個人貿易にも着手し、巨万の富を
手に入れ、平氏の経済基盤を作っていった。

中国大陸では、女真族の「金」に追われて北宋が滅び、南宋が安定しだした時代であった。
朝鮮半島は高麗に統一され、新羅の文化を受け継ぎ、宋の文化の影響を受けて、
高麗独自の文化を作り上げていた。


【平家の昇殿】
1132年、「平忠盛」は、貿易で得た資金で、白河院に
『得長寿院(とくちょうじゅいん)』の本尊と、千体の観音像を寄贈し、
鳥羽上皇から、清涼殿殿上にあがることを許された。

『中右記(ちゅうゆうき)』には、「この人の昇殿、猶、未曾有の事也」と記されている。

武士初の「殿上人」となった「平忠盛」は、
朝廷の「豊明節会(とよのあかりせちえ)」に初昇殿した際、
貴族達の反感による罠に落ち、帯刀している事をとがめられそうになった。
 しかし、その帯刀は、実は銀箔を貼った木刀であり、その機転のきいた
知恵を、鳥羽上皇はますます気に入った。


(3)平清盛

1141年、鳥羽法皇は、崇徳天皇を退位させ、美福門院の産んだ子、
近衛天皇を即位させた。

1152年、父「平忠盛」と共に海賊追補で名と位を挙げ、安芸守となっていた
「平清盛」は、海運の神である、広島の厳島神社の修造を行う。
瀬戸内海は、宋貿易に必要不可欠な航路であった。

1153年、父平忠盛死去、清盛が名実共に、平氏の棟梁となる。
清盛は、父から受け継いだ財で、鳥羽法皇や信西に深く取り入り、
平家繁栄の大ピーク時代を築く。




平安後期 15章-9 「白河院と、源氏の衰退」☆

2014-03-09 | 平安時代
(1)白河院と、源氏の年表

1068年、後三条天皇譲位、白河天皇として即位。
1081年、白河天皇の神社参りに、源義家が武士として異例の護衛につく
1083年、「後三年の役」で源頼家が参加
1086年、「堀川天皇」に譲位、白河院政が開始
1087年、「後三年の役」終わる
1091年、源義家と、源義綱兄弟が争う。
    源義家の荘園が禁止される。
1092年、朝廷の護衛に、源義綱が起用される。
1093年、源義綱、美濃守になるも比叡山とトラブルを起こし、失脚。
1096年、白河院が出家して「融観、白河法皇」として院制を続ける。 
1097年、源義家の昇殿が許される
1101年、弟の源義親の乱
1104年、源義家と義綱が延暦寺強訴の追討を最後に、歴史の記述から見なくなる
1107年、堀川天皇没、「鳥羽天皇」が5歳で即位。
1108年、平正盛が、源義親を討伐
    延暦寺の強訴を源氏と平氏の両氏で防ぐ
1109年、源氏の家督を継いだ源義忠が暗殺、義綱の一族追放

1113年、平忠盛、夏焼大夫の討伐で出世
1115年、待賢門院が、天皇の中宮になる
1119年、平正盛、賊平真澄の追討で出世
1123年、ひ孫の「崇徳天皇」即位
1129年、白河法王、77歳で崩御   

(2)白河天皇の源氏の起用
[前九年の役]で武名を挙げた「源義家」は弟「源義綱」とともに
白河天皇の護衛に抜擢される。


白河天皇が院となってからは、自由な立場、自由な発想で政治を執るようになった。
特徴的なのは、地位の高低や、しきたりに関わらず、気に入った者や、使える人材を
側近として起用していった事である。

1081年、寺社の武装化が進み、中でも延暦寺(山門)と、園城寺(三井寺=寺門)の
対立は激しく、この年の日吉社(ひえしゃ)祭礼を巡り、山門の僧兵は寺門を襲撃、
園城寺を壊滅的に焼き払った。

白河天皇は、山門側(延暦寺)に加担し、寺門追捕の為に、
検非違使と共に、[前九年の役]で部名を挙げた武士、「源義家」を出兵させた。

1082年、白河天皇は、こうした寺社抗争の中で、石清水八幡宮を参詣する。
その時の天皇の護衛を「源義家」と弟の「源義綱」に命じるなど、
側近の護衛として起用する。

武士の天皇護衛は前例がなく、初めは関白、藤原師実(もろざね)の前駆として
公家のいでたちをしていた源氏であったが、帰りは慣例を無視して、
武士の恰好のまま護衛にあたり、それを白河天皇も認めた。
それ以来、源義家達は、堂々と武士の恰好のまま、天皇警護にあたるようになる。


(3)後三年の役
朝廷の意志に反した戦いであるとして、朝廷から怒りをかうが、東北での人気絶大に。

1083年、陸奥守として東北の拠点、多賀城に赴任した「源義家」は[後三年の役]に参加。
戦中の官物の納付が遅れ、朝廷から戦を辞めるようにとの通達も無視した為、
戦は、義家の私戦とみなされ、褒美どころか、官物の督促を受けることとなる。

また、東北での絶大な人気を背景として、荘園の寄進を受け、荘園を拡大する。


(4)1091年、源義家と源義綱の内乱
【兄、源義家の冷遇】
清原兄弟の内乱を鎮め、大きくなり過ぎた「源義家」の力を牽制する為、
院は、院宣をだして、ちの力を抑えた。
・諸国の「源義家」の随兵の入京を禁じる
・「源義家」に荘園を寄進する事を禁じる。
・翌年には、義家の持つ諸国の荘園を院宣によって停止した。

【弟、源義綱の優遇】
その逆に、弟の源義綱を取り立て、事実上兄の源義家より出世させて、
パワーバランスを図ろうとした。
しかし、「源義綱」は、第一級国司の美濃守に任命されるが、
美濃で比叡山とトラブルを起こし、それ以来、源義綱の出世はとまる。

【兄弟対決】
1091年、京市街で、兄「源義家」と弟「源義綱」が領地争いの内乱をおこす。
鎌倉時代に書かれた『百錬抄』では、「天下の騒動、これより大なるはなし」
と記され、京の都が震撼したと書かれてある

京での源氏の勢力は、ここで一旦沈み、
かわって、平氏が院の寵愛を受けて台頭してくるようになる。
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font size="3">(5)昇殿を許された源義家
1098年、白河院の強い要望で「源義家」は、昇殿をゆるされ、再び院の寵愛を受ける。
これは、この頃台頭してきた平家とのバランスをつける意味もあったと考えられる。


(6)1108年源義親の反乱
平氏と源氏の衰勢が逆転した転機

「源義家」の息子「源義親(よしちか)」は、九州で略奪と官史を殺した為、
隠岐に流された。だが、出雲で再び反乱を起こした為、白河法皇の起用で、
「平正盛」が追討にあたり「源義親」は討伐される。

これを機に、源氏に代わって桓武平氏が、京で力を持つようになっていった。


山川出版「詳細日本史研究」P125では、
(6)の源義親の反乱が記載されているだけである。

平安後期 15章-8 「平安中期の仏教2(六勝寺と熊野詣)」

2014-03-08 | 平安時代
(1)院政と六勝寺
院政の時代に天皇家によって建てられた、6つの勝がつく寺

①白河天皇→法勝寺(ほっしょうじ)
今の京都市動物園のあたりにあった。
       「国王の氏神」と称された大規模な寺で、九重の塔は、白河院の権力を象徴した。
        建築の費用と労力は地方で財をなした受領や武士、公家のワイロ的申し出や、
        売位売官の「成功」に頼った。

②堀川天皇→尊勝寺(そんしょうじ)

③鳥羽天皇→最勝寺(さいしょうじ)
今の岡山グラウンド~京都会館のあたりにあった。

④待賢門院→円勝寺(えんしょうじ)
鳥羽天皇の皇后、待賢門院(たいけんもんいん)による、唯一の女院御願寺。
       今の京都市美術館の位置にあった。

⑤崇徳天皇→成勝寺(じょうしょうじ)

⑥近衛天皇→延勝寺(えんしょうじ)

覚え方①「ほっそんさいじょうえん」
覚え方②「法を最も尊けいする成人は、延々としゃべる」


(2)院政と熊野詣
院政の新たな仏教権威

白河院の院政の頃、藤原摂関家の氏神である奈良・興福寺や、
天皇家の鎮護寺である延暦寺が、武装化して院に押し寄せる強訴が相次ぎ、
朝廷と大寺院との関係性が、危うくなっていった。

そこで、白河法皇は、「熊野三山」の仏教的体制を整え、権威を与え、
院自らが、大勢の高級貴族を引き連れて、熊野詣を繰り返すことで、
新しい、院政の仏教寺院を世に知らしめた、と考えられる。

白河法皇の9回の熊野詣のうち、後半3回は鳥羽上皇を連れて行っており、
鳥羽上皇は21回、後白河上皇にいたっては34回の熊野詣を行っている。

こうして大寺院に権威権力を与え、その地域の中核とすることで、
寺院に地域の商業利益が入り、大きな収入を得ることが出来た。
院は、そうした利益を取り込んでいった。

ただし院政を冷静に見ていた、当時の関白「藤原忠実」は
「毎年の熊野詣、実に不思議なことなり」とその根拠を疑っていたようだ。


(3)鳥羽離宮
院政の天皇達が愛した別荘兼墓所
白河院の時、院の近臣(藤原季綱)から、別荘地であった鳥羽の土地屋敷の献上を受け、
そこを気に入った白河院が、自らの墓所として「安楽寿院」という寺社に改築した。
白河院に続き、鳥羽天皇や近衛天皇もここを墓所としている。


平安後期 15章-7 「平安中期の仏教(強訴)」

2014-03-07 | 平安時代
(1)平安中期の、寺社勢力

1036年の藤原摂関家時代、有力寺社は、その権力と武力を増していった。
寺社荘園の権利の主張や、地方中小寺社を取り込んで権力の拡大をすすめていった。

①【興福寺VS東大寺】
1037年、藤原家の寺である奈良「興福寺」が、聖武天皇建立の「東大寺」を焼き討ちする。

②【岩清水八幡宮の国司追放】
1037年、但馬国の岩清水八幡宮別当が、寺社から年貢を取り立てることを不服とし、
但馬の国司を朝廷に訴えたものが認められ、国司が流刑となる。

③【延暦寺の強訴】
1039年、高級貴族の子弟を、天台座主(僧のトップ)に押し付けられたことを不服とした
延暦寺の僧が武器を持って立ち上がり、朝廷に強訴をおこす。
延暦寺の内部闘争も起きる。

④【伊勢神宮の託宣】
1030年頃、伊賀国の伊勢神宮が、お神酒専用田から年貢をとりたてようとする
国司を朝廷に提訴し、国主「源光清」は流刑となる。
その後も、神の託宣として、朝廷に対して強固な批判と要望を押し付け、
伊勢神宮が、天皇と同等の権力を持つことを誇示しだした。


(2)寺社に逃げる農民
権力を持った寺社は、農民と荘園を急速に拡大させていく。

この頃、国司が好き勝手に祖の税率を決めて、農民に厳しい取立てを行っていたが、
寺社が、朝廷をも黙らせる権力を持つようになると、
農民達はこぞって、有力寺社や、高級貴族の荘園に、農民自身が開墾した田畑を寄進して
逃げ込み、ますます寺社の収益は上がり、権力を増していった

神社に仕えた農民を「神人(じにん)」、寺に仕えた農民を「夏衆(げしゅう)」と呼ぶ。

こうして、武士が勢力を増すのと同時期に、寺社も勢力を増していった。



(2)延久の荘園整理令の寺社への影響
1069年、後三条天皇の時に出された「延久の荘園整理令」により、
有力寺社も、荘園を没収された。
(岩清水八幡宮は、34箇所の荘園のうち、13箇所没収)


(3)院政と強訴
平安後期、大寺社の僧が武装化して、院に対して強行な要求をつきつけた。

一旦は、荘園整理令によって、荘園拡大が阻止されたものの、
国から支給される寺社への「封戸(ふと・寺社への俸禄のこと)」が、
国司の滞納によって途絶えだした。
有力寺社は、再び独自の経済基盤として再び「荘園」の保有に走り、
地方武士出身者の低級僧侶を、「僧兵」として武装化させ、
武力によって、荘園の拡大や、他寺社との衝突を収めようとした。

また、院が仏教を厚く信仰し、鎮護国家を唱える寺社に対して強行手段を
とらないことをいいことに、仏教のご神体を持って、たびたび院に「強訴」に出た。


(3)2大強訴、南都と北嶺
特に強訴のひどかった興福寺と延暦寺のこと

南都(なんと) ------奈良の興福寺の僧兵は、春日大社のご神木である榊を掲げて京都に強訴に行った。
         春日大社は、摂関家「藤原家」の氏神である為、手が出せなかった。

北嶺(ほくれい) ----比叡山延暦寺の僧兵は、日吉神社の神輿をかついで強訴した。         鎮護国家(国や天皇家の安泰を祈る)天台密教の本部であったため、朝廷は対応に苦慮した。


(4)天下不如意
『平家物語の源平盛衰記』に、白河上皇が
鴨川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
と嘆いたという逸話がある。

これは、『天下三不如意』とよばれ、京都市内を流れる賀茂川の氾濫、すごろくの目と、
山法師=比叡山延暦寺の僧兵の3つは、自分の意図に従わないもの、
という意味。上皇の権力の大きさと、山法師への苦慮がうかがい知れる。


(4)院政と仏教と武士

寺社の武装化した強訴に対して、朝廷(院)は、武士を起用して警備、取り締まりにあたった。
武力に対して、武力で応じることは、のちに保元・平治の乱を起こし、武士社会を築いていくことになる。