れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
☆は山川出版「詳細日本史研究」に対応しています。

平安後期 15章-13 「平氏政権」☆

2014-03-13 | 平安時代
(1)平治の乱後
[保元の乱]→[平治の乱]は、平氏の権力を絶対的なものにする機会であった。

平治の乱後、ライバルだった源氏は駆逐され、源氏以外の軍事貴族も淘汰され、
平氏が院庁別当、左馬頭、検非違使などの主要な地位を独占した。
特に、京の治安維持、軍事、地方反乱の鎮圧、荘園管理を独占した
ことが大きかった。

また、武士でありながら、初の「公家」となり、朝廷への出入りを
許可され、政治的な権力をも握っていくこととなる。

(2)平清盛の昇進
1159年、[平治の乱]で、後白河上皇と二条天皇を助け、源氏を滅ぼす。

1160年、平清盛は正三位参議へ昇進、武士で初の公家となる。

1161年、清盛は、検非違使別当となり、京の軍事、警察権力を掌握する。
同年 、清盛の妻の妹「滋子」が、後白河院の子(のちの高倉天皇)を産む。

1161年、後白河上皇は、鴨川東の「法住寺殿(ほうじゅうじでん)」に移り住み、
ここを院の拠点とする。

1164年、清盛は、後白河院の信任を得て「蓮華王院(三十三間堂) 」を造営し、
    本堂と千一体の千手観音像、古今東西の宝物を納めた。
    この寺院への平家の貢献度の高さを評価され、息子の重盛が正三位となる。

同年 、厳島神社へ、全33巻の豪華な写経を奉納する。いわゆる「平家納経」である。

1165年、二条天皇死去。
    2歳の六条天皇が即位し、滋子の子「憲仁親王(のちの高倉天皇)」が東宮になる。

同年 、娘盛子の夫、清盛にとっては娘婿である、関白「藤原基実」が死亡。
    関白家の所領を、未亡人である娘盛子が管理し大きな経済基盤を得る。

1166年、正二位 内大臣に就任。
1167年、従一位 太政大臣に就任となり、摂関藤原家を抜いて、朝廷トップとなる。


(2)出家後の清盛
1168年、0歳で即位した六条天皇が3歳で退位し、滋子の子「高倉天皇」が即位する。

同年 、重病にかかった清盛は、太政大臣を辞して出家し、「浄海」と名乗り、
    兵庫県の福原に別荘を設け、常時そこに住むようになった。
    私費で、福原の泊港を大改修し、宋の貿易船が入れるようにした。

清盛自身は退位したものの、平氏一門を朝廷高官、諸国受領、地方高官に就け、
朝廷を平氏一門で牛耳る状態にしていた。(公卿16人、殿上人30人超)

1171年、11歳の高倉天皇に、清盛の娘「徳子」が入内する。

大栄華を極めたこの頃、「平家にあらずんば人にあらず」の発言があったとされる。


(3)地方武士団と平氏

平氏が全盛を迎えた背景に、各地での武士団の成長があった。
全国の荘園管理の権利を持つ平清盛は、地方武士の一部を、
地方の荘園現地支配者である地頭に任命し、
機内・西国一帯の武士を家人(けにん)として、勢力を拡大した。

さらに、海賊や山賊の追討使でもあった為、鎮圧後に平氏の勢力に
組み込んでいった。

(4)平氏政権(六波羅政権)

平氏政権とは、平安時代末期の武士が表舞台に台頭する時代、
平清盛をピークとする、伊勢平氏による政権のこと。
平清盛一族の屋敷が、京の六波羅にあったことから「六波羅政権」とも言われる。

初 代:平正盛----白河院政
二代目:平忠盛---鳥羽院政
三代目:平清盛---後白河院政

【地方の統制】
平氏が全盛を迎える背景には、各地での武士団の成長があった。
平清盛は、彼らの一部を、荘園や公領の現地支配者である地頭に任命して、
機内・西国の武士達を家人(けにん)として、勢力を拡大した。

また、海賊・山賊の追討使として討伐した輩を、平家の支配下に組み込んでいった。

【朝廷での立場】
一方、朝廷内では、乱の度に院や天皇の為に武力を駆使し、
持てる経済力を惜しみなく使って、寺社や内裏の造営に尽くし、
時の権力者である「信西」や、関白家の摂政「藤原基実」らと婚姻を結ぶ
などして、朝廷内に深く入り込んでいった。

妻の妹である「滋子(建春門院)」が、後白河院の寵愛を受けて、「高倉天皇」を生んだあと、
その「高倉天皇」に、娘の「徳子(のちの建礼門院)」を中宮としていれ、
娘の産んだ子「安徳天皇」の外戚として、天皇の親族という血筋的な地位も
手に入れた。

朝廷内で、並び居る者のないほどの地位を手に入れると、
平氏一族を高官として採用し、朝廷内の官職を独占した。

【経済基盤】
父、平忠盛が築いた「日宋貿易」の巨額の経済基盤を、摂津の大和田泊(神戸市)の港を
修築したり、西日本の良港を獲得、瀬戸内海の海路を整備するなどして、
さらに強固なものとした。

また、数多くの知行国と、500余りの荘園を所有。

【平氏政権の陰り】
武士が、従来の貴族的国家組織にのっとって権力を増していく方法は、
周囲からの反感、反発が起こることが必至であった。

一族での官職の独占により、排除された旧勢力の反発。
力を持ちすぎた平氏に対する、後白河院の警戒。
後白河院とのパイプであった「滋子・建春門院」の死後、
それが一気に転がり落ちていくこととなる。


山川出版「詳細 日本史研究」P127
マンガ日本の歴史、石の森章太郎 第4巻