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ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

斜里町は面白い

2007-04-17 | 知床
春嵐が迫る中斜里澱粉工場

 町長選と町議選が告示になりましたね。
 知床開拓の取材に始まって病院勤務も・・・と、月の3分の1を斜里町で過ごしていますが、「おもしれー、おもしれー」と膝を叩いてしまうことばかりです。正直、いわゆる知床(観光地として脚光を浴びている風景!野生動物!~な知床)はそんなに好きで通っているわけではないのですが、斜里という街は面白い。
 何が面白いかというと、一つはこの、住んでいる人々の距離感です。斜里を「舞台」に、まあ腹に一物も二物もありそうな人たちがごろごろしている。斜里町というのは北海道の隅っこでだだっ広いのかもしれないけれども、人口も土地も、地域としての大きさが実に程よいのです。誰かの名前を口にした時に、「ああ、○○さんちのおじさんね」と、すぐに顔が思い浮かぶ距離感に、皆がいる。それは、互いにツーツーに知られてしまう田舎の心地悪さかもしれないけれど、お互いの顔が、本当に一人一人の人間の顔として見えるという、実に心地良い距離感でもあるのです。
 ふだん病院には不特定多数の患者さんが次々に来て、お互い医者と患者という肩書きだけでしか顔を合わせることができないけれど、ここでは、病院という枠を越えて、患者ではない普段の生身の個人を思い浮かべることができるのです。そして、町長であろうが議員であろうが、大会社の社長であろうが、「あー、あの人とは同級生でさ」「サークルが一緒だった」「同じ農協に勤めてたから」といった調子で、肩書きや職業の前に、"近所人"であるその人をみんなが知っている。みんなお互いに手が届いて、お互いに顔を合わせて喋ることのできる距離に、斜里の人々はいるのです。
 そんな中での町議選。
 今回面白かったのは、町立病院の事務長のいきなりの辞職ですね。
 最近の厚生省の医療改革や、地方病院の医師不足、民営化の問題などがどんどん押し寄せてくる状況の中で、ついにキレた事務長、いきなり、
「黙ってられねー、オレが町議になる!」と、病院を辞めて町議選に立ってしまった(@▽@)
 わー、いいぞー事務長、やれやれー!!
 いや、面白がってないで、マジに凄いと思いました。医療の状況が悪いなら悩む、のではなく、悪いなら自分が政治に出て変えよう、と本当に出ちゃうんですから! こういう人たちが病院を動かしている斜里の病院はすごいなあ(いいなあ)。そして、「できなきゃオレがやる」と、出ていくことができる・・その可能性が現実感を持ってみんなに開けている・・・この「距離感」が、やっぱり斜里町なのでした。
 だからなのか、斜里はオジサンたちが元気ですね。自分でどんどん何かやってしまうオジサンがごろごろしている。
 誰かがやってくれる、のではなくて、自分がやる、というのは、斜里という街の開拓者精神なのかもしれません。
 

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先日のでんぷん工場の訂正

2007-04-15 | 知床
 そういえば、先日、個人農家がやっていた澱粉工場は昭和30年代「の」主力産業だと書いてしまったのですが、調べたら、昭和30年代「まで」の間違いでした(汗) 一番のピークは昭和10年代くらいだったようです。澱粉の生産がすたれたのではなくて、30年代にホクレンの工場ができたので、そちらでの生産に移ってしまったのでした。今も斜里町には巨大なホクレンの澱粉工場が稼働してます。

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澱粉工場、そして馬小屋、30年以上前の

2007-04-09 | 知床
斜里町内峰浜から見る夕陽

 夕方勤務があいたので、斜里町郊外にミニ調査に行きました。開拓時代の一斗缶の家を探しているのです。
 斜里町の農家は古くから大規模にやっている家が多く、本当に古い納屋や物置小屋がたくさん残っています。ウロコ状の壁を見つけては「一斗缶か!」と寄っていってじっと見つめるのですが、残念ながらトタンです。昔は、木の壁の上にトタンをぴっちりと貼付けて、風をよけたのでした。トタンの古い家は、北海道内のあちこちにたくさん残っています。
 広い畑の中に点々とある農家の一つに寄っていくと、やっぱりトタンの家です。納屋の前で作業していたご主人にきいても、トタンしか聞いたことがないなぁ~と。

 しかし、そのご主人の背後にある木造の納屋が、あまりにも年代もので、使い古された土臭い佇まいと、古くからずっと使われ続けてきたであろう道具類がちらちらと見えるので、思わずそそられてそちらを見に行くと、
「ああ、その小屋は、昔のでんぷん工場。」
 まぁーじっすか。
 この一帯から知床開拓地にかけては、全国有数の馬鈴薯生産地で、一時期は2000箇所を越える澱粉工場が点在していたのでした。昭和30年代の主力産業です。
 いきなり訪ねた農家さんが、その昔の澱粉工場跡だったとは! しかもその建物が納屋として残っているとは! なんとゆー幸運(笑)
 昨日は取材拒否にあって悩んで悶々としていましたが、がぜんワクワクしてきます。
 じゃあ他の建物は残っていないかと見回すと、ありましたよ、当時の馬小屋が。
 しかもその旧馬小屋(現在物置)のすごい所は、・・・・まだ馬草がぎっちり積んである・・・。もちろん、当時の馬を飼った間取りも棒もそのまんま。そして中に入らせてもらうと、なんと壁にはその時代の鞍がいくつもぶら下がっているのでした。
 すごいーーーー、むちゃくちゃ感動です。
 えええと、何を感動しているかと言うと、今まで知床開拓地を取材していて、すでに知床開拓当時の建物も生活もなくなってしまい、古い白黒写真でしか見ることのできなかった諸々と、まったく同じものが目の前にあるわけですよ。道具の掛け方から、屋根の上に飛び出した剥き出しの木の棒に雷子がついて電線が掛かっている所まで、私が「実際にどういう風に使われていたのか知りたい」と思っていたカタチがまさにそのまんま目の前にあるわけです。
 それも、その一部だけが取り出されて博物館で展示されているのではなく、普通の生活の中に実際に使われている状態で、目の前にあるのです。
 現在は当たり前ながら馬も飼っていなければ、澱粉を作っているわけでもない。のに、そのまんま残っているのが凄い!
 馬を飼っていたのも30年くらい前までじゃないかと言います。
 この家は古い建物を今のご主人が使い続けたからこそ倒壊しないで済んだ、しかも、それなのによく馬草やら棒やら捨てなかったと思うのです。
 しこたま写真を撮らせていただき、最近の苦労がちょっと吹っ飛ぶ気分を味わせていただきました。ラッキーーー。久々に、自分の取材には神様がついてる、と思えた一刻でした。

 ちなみに、ご主人のハウス(巨大である)の中には、芽吹いたばかりの小さな緑が一面に。それは初めて見るビートの苗で、1メートル四方に1500株くらい、しかもよく見ると1株づつが直径1センチくらいの筒に包まれていて、筒ごと畑に植えられるようになっていました。よくできてきます。雪が消えつつある広い大地一面に、さっそく芽吹いた緑のはっぱは、なかなか可愛いものでした。

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知床開拓に黙ってしまう時

2007-04-08 | 知床

 私は知床開拓に対する間違ったイメージを何とかしたくて取材をしている。何が間違っているかって、現代の私たちを含め、知床開拓を「外」から眺める人間が、開拓の歴史をろくに知らないまま何の気なしに与えたキャッチフレーズが、そこで生きてきた人々の人生を否定し、今もまだなおお元気で生活しているもと開拓者の方々を社会から抹消してしまうからである。それが、どんなに悪気がなかったとしても。
 たとえば、「自然が厳しいから失敗した」これは実際には大嘘である。しかし、「こんな所に住むのなんか無理でしょ?」という、都会の暮らししか知らない観光客の一方的な感覚が、知らずうちに、今はもう開拓していないというだけの理由で開拓者に「失敗者」のレッテルを貼る。
 特に、「知床の自然は人が住めないくらい厳しい」と思いたがる願望が、現代人にはあるように思う。そういうごく単純な願望が、本当はその自然の中でちゃんと暮らしてちゃんと住んでちゃんと生きてきた人々の人生を抹消してしまうのだ。
 そして、↑に私が書いた「自然が厳しいから失敗したというのは大嘘である」という文章を読んだ時にすら、"自然が厳しいから失敗した"という前半の部分しか読んでもらえない。"それは大嘘である"という後半の部分は伝わらないのである。読む側があまりにも、「自然は厳しい」という前半部分のイメージ(願望)だけで凝り固まっているから。かくして、私が「大嘘である」ということを言いたくて文字を書けば書くほど、「失敗した」という文字ばかりが人々の目にさらされて、よけいな逆効果になってしまうのだ。
 
 私は本当に、知床開拓に生きた人々の本当の姿を人に知ってほしくて取材をしている。みんなものすごい知恵を持ち、ものすごく頑張ったすごい人たちである。
 しかし、そういう目的なんですと、どれだけ口をすっぱくして力説した所で、もと開拓者の人々にも伝わらない。
 開拓者であることを明らかにされる、書かれてしまう、というだけで、取材を申し込むと人々は口をつぐみ、逃げていってしまう。
 私には信じられないことに、いまこの世の中においても、いまだに、開拓者と聞いただけで見下し、蔑み、村八分のようにする人々がいるのだそうだ。特に親戚や友人たちなどの冷たい目や言葉が。
 しかし、そういう悪い見方の中でじっと長い人生を生き抜いてきた人々の前に、突然若輩の私が現れて、悪い見方をくつがえしたいんですと言ったところで、みんな逃げていってしまうのが関の山だ。ある人が以前、苦労の日々を語った所、「よく自殺しませんでしたね」と感想をもらったのだそうだ。私はそれは「よくぞ生きてきましたね」という賞賛ではないかと受け取るのだが、もと開拓者の人は「何、じゃあ自殺すればよかったってことか」と怒っていた。「死ねと言われてるのと同じことだ」と。それほど、今までずっと開拓者の方々が晒されてきた世間からの誤った見方や誤った決めつけは根深い。

 私は黙って、自分の信じる所を黙々と調べていく他は手がない。
 開拓者の人々にも望まれてはいない、ということを、時々痛感して黙る。
 私の取材は誰かに望まれたのでもなく、誰かに頼まれたのでもない。
 それでも、自分は開拓者の人々が生きてきたことが、そうやってないがしろにされ抹消されていくのが許せない。そして世代が変わりつつある今、封建制度も小作制度も農地解放も知らない私たち若い世代は、もっと新鮮な気持ちで、知床の大地に生きた人々の実は凄かった面を見ることができると信じている。
 私は自分の思う所のためだけに、続けるだけだ。

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この1か月のことなど

2007-03-26 | 知床
 ブログを1か月放置してしまいました。この間にサイト立ち上げ、写真展、出版の契約、病院勤務の整理など、目まぐるしい1か月でした。
 サイトは、
http://members3.jcom.home.ne.jp/rei-t/
 まだ試行錯誤の段階ですが、ご興味のある方はどうぞ。
 (先日悩んでいた機材紹介は、まだです。)

 「100平方メートル運動30周年記念事業」に合わせた斜里町での写真展は、自分の写真65枚に、開拓者からお借りした過去の白黒写真30枚以上を展示するという、合計100枚にも及ぶ大規模な展示となりました。
 役場の方々まで巻き込んでの準備で、精魂尽きた・・・という感じではありますが、1)概要、2)知床での生活、3)信仰とコミュニティ、4)知床における産業、5)知床の未来に向けて、と、詳しく展示させていただくことができ、さらに今回は今まで以上に知床開拓に関心を持つ人々が来てくださり、初めて「言いたいことを言えた」と思うことができました。
 特に最終日のシンポで、斜里町長が200人を越える人々の前で「開拓の歴史はものすごく大事な歴史であるので、何が何でも残していかなければならない!」とスピーチしたのには、嬉しいながらびっくり仰天でした。「言った!(祝)」という感じで(笑) というのも、今までは、開拓は恥ずかしい歴史だから展示しない、とか、観光の目障りだから早く朽ちて無くなってしまってほしい、などのネガティブな声しか聞いてこなかったので、今、知床にたずさわる世代が替わり、知床に人が生きた歴史を見直そうという動きが出てきたことは、ものすごく画期的で初めてのことなのです。
 というので、喜んで開拓者の方々に「町長が言ったよ!」と電話してまわったのですが、皆さん「ふーん町長が」「へー今頃そんなこと言うんだ」という感じで、なかなかシビアでしたね。
 それに、やはり「知床が厳しいから開拓が失敗した」という固定化されたイメージは根強く、そう簡単に人々の見方は変わるものではないことも思い知りました。もと開拓者の方々が、そして、その周囲にいる私たちが、現実に知床で生きた生活のことを、誇りをもって語ることのできる日が来ることを祈っています。

 私事ですが、明日、1つ病院を辞職します。
 辞職届けを出した日の前日と、最後の週となった昨晩は、不思議なもので、本当に文字通り眠れませんでした。半年間悶々と悩み続けて辞職を決めましたが、やはり患者さんのことと、病棟の現場のことを考えると、そこらに転がってもがきたい気持ちです。明日が過ぎれば、また眠れるようになるのでしょうか。

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人が生きている現場、という方向から

2007-01-26 | 知床
 最近のちょっと嬉しかったニュースは、道議会議員やすむら啓二(保村啓二)さんが斜里町の町長選への出馬を決めたことだ。
 ちょうど現町長の牛来さんの任期満了が迫っていて、牛来さんは再出馬はしないと宣言していたので、斜里町やもと開拓者の皆さんと、次は誰がなるんかね、とよくお喋りしている所だった。知床の旧開拓地は斜里町の一部だ。知床開拓の歴史は、歴代の斜里町長が次々に打ち出す方針に翻弄されてきた歴史でもある。取材を続けていて、前町長から今に至るまでこまごまとした裏話や、人々と町長との間の繋がりについていろんな人々の口から聞くにつけ、斜里町長という知床の歴史と切っても切れない重要な存在が今後どうなっていくのか、複雑な気持ちで見ていた。

 という所へ先日、保村さんとばったり会ったら、「明日、出馬を表明します」と言う。よっしゃ、やった、という気持ちである。というより、保村さんは斜里町という北海道のすみっこの方よりも、もっと中央の方に出て行ってしまうんだろうなあと勝手に思っていたので、この土地にとどまってこの土地の政治家の長になるという話に、私は斜里町民でもなく選挙権も持っていないのに、思わず喜んだ。

 初めて保村さんに会ったのは、もと開拓者の方々の敬老会だった。斜里町の防風林から外にはずれた、昭和40年からの団地に40年前から建っている小さなコンクリートの集会所前の草むらには、政治家の先生方の車がピカピカと駐車されていて、「知床が世界遺産に登録されたものだから、今頃になって、開拓者を尋ねてきて」と、ぶつぶつこぼす人もいた。私は敬老会での開拓者のじっちゃんばっちゃんの写真を写していた。議員さんは複数いたが、ダルマストーブや古ぼけたテーブルの周りに車座になって話し込んでいる皆の様子を見ていて、一発で保村さんが気に入った。というのは、保村さんが実によく、「人を見て」いたからだ。政治家が開拓者を見に?くる、というのではなく、一人一人のもと開拓者と正面から会話にはまりこんで、一つでも二つでも何かを汲み取ろうとする意識が感じられた。この人とは話ができる、と、私は端から自分勝手な品定めをした。
 敬老会が終わってからもと開拓者の人たちにその話をすると、ああ、あの人は国鉄にいたからね、一緒に働いた人だからね、サークルも一緒だったからね、と笑って言う。でも私が「人を見ている」「話ができる」と感じたのは、もっと別のところにあるような気がした。
 その後も保村さんと会うことが度々あり、道議会議員保村啓二の取り組みについての記事を読むこともあり、そして思ったのは、この人はあくまでも地域密着の、現場の人だ、ということだ。それも、まさに「人」に焦点をあてて現場を見ている人だった。
 私は政治家には、中央にいて政治を管理しながら、時々地方の現場を「見に」来る人と、地方の現場にいながら、中央にその現実を持って行く人がいると思っている。保村さんは明かに後者の人だ。
 そして、なんで自分が「気に入った」のか突然理解した。

 病院で、患者を診ている病院や大学で、自分が突き当たる一番大きな壁は、いつも現場と管理者の大きなへだたりだ。現場には患者が生きている。生きて生活している。でも病院の経営は、患者が「生きている」こととはまったく関係のないところで、なんで?と思うようなやり方で進んでいく。この1年で有無を言わさず始まった厚生省の医療制度改革もそうだし、それに巻き込まれた病院経営側の苦労もよくわかるのだが、それでも、「こういう辛い時は、ファイト!ファイト!」と唱えてがんばるんです、とニコニコしている病院管理者の言葉を聞くたびに、ファイトと唱えなくていいから、1度でいいから現場に来て、詰所のその椅子に座って、現実に何が起っているのか見てみろよ、患者がどういう状態でベットに寝ていて、どんなふうに毎時間を生きていて、家族がどんなふうに付き添っていて、看護師がこの人数で実際にどのように動き、医師がどのように動き、介護士が実際にはどう動いて何をし、何ができ(できないで)いるのか見てみろよ、患者がどれだけ「生きて」いて、周りのスタッフがどれだけギリギリなのか1日でいいから、いや半日でいいから、いや、1時間、そこにじっと座って見ろよ、そうしたらもっと違うやり方が見えて来るだろうが、と胸の中で毒づいてしまうのだ。
 自分は現場の側から離れられない。現場とは、現実に人が生きて生活している場所だ。その側から、いつも中央で管理してくる側に向かってばかやろーとふっかけている、現実を見ろよ、現実に生きている人を見ろよといつも思っている。夕張市に1時間だけ視察に来て、それじゃ足りないんじゃないですかという問いに対して、勉強して来ているんだから夕張のことはわかってる、と言い切った中央政治家の姿に、ばっかじゃねーのと毒づきたくなるのも、同じことだ。そういう自分のインスピレーションが、保村さんを目敏くマークしたのだった。

 「保村さんねえ、町長選に落ちたら農家やるって言ってるよ。」なんて人が笑いながら話す噂話が、どこまで本気なんだか知らないが、私はやっぱり保村さんだなあと思って笑ってしまう。町長という政治家と、農家という地方地域の現場の最前線が、無意識のうちにも保村さんの中では見事に表裏一体になっているのだ。
 現場の側で人を見る目と人を聞く耳を持つ人物が、政治家の肩書きを持ち、さらに町長になるかもしれない。
 これはやっぱり、最近の嬉しいニュースなのである。


*******************

  子供の時、医者と政治家にだけは絶対なるまいと思っていた。テレビニュースの汚職や事件のイメージが強烈だった。その自分は医者になり、今度は政治家の応援をして喜んだりなんかしている。
 政治家も、医者も、汚職だの犯罪だのとヤリ玉にあげられるのは、それだけ人の現実の生活に深く根ざしているからこそ人の心やのっぴきならないお金がからんでくるのではないか。逆手にとって悪いことをする余地がある分、それだけ人の命や生活に深く関わって助けたり役に立ったりできる位置にいるのではないかと、今は思っている。

(2006.1.26)



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知床開拓スピリット

2007-01-25 | 知床
 今日流れたニュースでは、夕張市の若手市民が中心となって「自分たちの夕張は自分たちが守る」と、次々新会社やNPOを立ち上げて、破たんした市の施設の運営を買って出ていたのでよかった。私が最近微妙に感じることのあった違和感は、間違いだったのかな、と、少しだけ安堵したような気持ちになりました。
 というのは、最近毎日のようにTVに流れる、夕張市が財政再建団体になった一連のニュースに、時々ふっと違和感を覚えることがあったからです。

 じっちゃんばっちゃんが住んでる田舎が好きで、歴史がありながら過疎になっていく地方の記憶を聞き書くことを生業にしていて、そして医師である自分は、ニュースで夕張が取り上げられる度に、すぐにでも飛んで行って、閑散とした団地にぽつんぽつんと残されたように住んでいる爺ちゃん婆ちゃんの健康状態をチェックしたり、いやそれ以前にまずただ、じっちゃんばっちゃんと一人一人しっかり顔を会わせたいと思ったり、踏み止まって全身全霊をかけている市立病院の先生が1時間でも休めるように当直を代わりたい、と落ち着かない気持ちになるのが正直なところです。が、実際自分が今働いている老人病院でちゃんとじっちゃんばっちゃんを診れているのか、自分が担当している人の一人さえも守れているのか、夕張ほどではないにしろ、同様に医師が足りなくて呼ばれて行っている小さな知床の街で、ちゃんと自分の責任を果たせているのか、こちらの街の病院の先生が1時間でも休めるようにちゃんと当直できているのか、知床で生きてきた人々の取材を全うできているのか、今ニュースを見て飛びつきたくなるような諸々を、まず身近な札幌や知床の人々に果たしてできているのだろうか、等々、自分の足もとを見ると、浮ついた気持ちも一挙に消沈する現実の自分の姿があるので、目の前の己の本分にしっかり足をつけて全うできないうちは、それ以外の何処へ行っても何もやることはできないと思ったり、今やっていることを本当に自分で「できた」「責任を果たした」と思える時までは、余計なことは考えずに目の前の道を進むだけだ、と思ったりするのです。

 などという身勝手な葛藤を、夕張の外の人間が外側から勝手にやっていることさえが、おこがましい余計なことだと思うのですが、それを置いても、夕張市に関するニュースの中で、特に高齢者の方々が「市や国は今後どうしてくれるんだ」「何をしてくれるんだ」「自分たちは放置されている」という、いたたまれない怒りをぶつけている姿に、一瞬「?」と違和感を覚えることがあるのです。

 というのは、今まで知床開拓を取材してきて、知床を開拓してきた人々には「国はどうしてくれるんだ」「責任は」「何をしてくれるのか」といった感覚が、まったくないからです。
 いや、表に出ないだけで、ないとは到底考えにくい。でも、それを言う余地さえ許されない所から、知床開拓は始まっているのでした。
 そもそも知床開拓というもの自体が、のっけから「国が国民を放棄する」所から始まっているのです。戦後の混乱の時代、日本国内は焼け野原で土地不足、食糧難、でも満州や樺太からは次々に人が引き揚げてくる、農家の次男三男も行き場がなくて溢れている、それを一挙に解決しようと政府がはかったのが戦後開拓で、あぶれた人を未開の僻地へ送り込み、自分で土地をつくれ、自分で食料を調達しろ、自分で作った物は土地も穀物も全部やる、だから後は勝手にやれ、後は知らん、と放り出した。
 「嫁さんだけ連れてくればいい、後は何もかも全部揃っている、家もある、馬も道具もある」という言葉を信じて知床の未開地に降り立った人々は、そこで初めて"国に騙された"ことを知り愕然とした。何も知らずについてきたハイヒールの「嫁さん」たちは、ハイヒールなんかもう無縁の世界に来たことを知るわけです。
 知床の未開の原野に人々を片道切符で置き去りにした国が、人々に「何かしてくれる」もへったくれもないわけですよ。
 でも人々は、「騙された」と愕然としても、自分たちの人生を放棄をしなかった。騙されたと思うなら、怒って帰ればいい。が、人々は帰らなかった。逆に、帰らない、と意地になった。じゃあこの土地でやってやる、というエネルギーを開拓にぶつけた。
 もうその日から生活しなきゃならないわけで、国が何をしてくれるかとか言ってる余裕なんかなかったわけですよ。国から放置された所から、何もない所から、「知床」は始まっているわけです。

 家なんか当然無い。家の建材もない。自分で木を伐って草を葺いて家を作る。見てくれなんか気にしていられません。毎日、毎分ごと、この瞬間も生きてなきゃならないから、貧しいだの悲惨だの言われようが、ボロ家だろうが何だろうが、自分たちの手で一から雨をしのいで、暮らす場所を作っていくわけですよ。
 水道がなければ、自分たちで水脈を探しに行く所から始める。森を分け入って、毎日の飲水に適する水源を探しに行く。そしてあの知床の森の中に、網の目のように水道管をはりめぐらせるまで至る。
 バターの製造機だって、農業試験場に見に行って帰ってきたら、自宅で見よう見まねで機械を作ってみる。そして本当にバターを製造してしまう。
 医者なんていないから、病気にならないように、ケガしないように、まず自分たちが注意する。細心の注意ですよ。誰が何も言わなくたって、予防医学ですよ。医者を送ってくれないとか、病院がないとか、そういうことを言うはるか以前の話なわけで。流氷で海が閉ざされちゃったら、病人を舟で搬送することも不可能。即、命に直結するから、本当に真剣に予防医学です。ケガしてしまった時、腹痛を起こした時、どうしたらいいのか、何の木の汁を塗れば炎症がおさまるとか、何の実を食べたら痛いのが治るとか、子供たちでも知恵を叩き込まれていた。それでも治らなくて、医学が必要で、じゃあどうするかと言ったら、自分たちで医学を調達しようとする。子供を看護学校に入れて、家族に医学がわかる者がいた方がいいから、とやるわけです。

 もう40年以上も昔の北海道の辺境の話と、現在の夕張市を比べること自体が無理があるかもしれません。が、それでもそういう知床の、人々の生きる姿を取材してきた身からすると、夕張のニュースは時々ちょっとだけ、「?」と思ったりする。夕張の市民を被害者として報道するニュースの向こうに、まだまだもっと、夕張の人々の潜在的な力が眠っているような気がするのです。

 本来北海道というのは、"開拓スピリット"で出来上がってきた土地です。たぶん、日本の他の地域よりもどこよりも。だからこそ本州の人々の憧れを集められたのだし、「遥かなる山の呼び声」や、「幸福の黄色いハンカチ」「北の零年」といった、今や夕張の目玉の一つともなっている、フロンティアスピリット溢れる映画が次々と北海道を舞台に作られたのだと思うし。
 そして、戦後開拓で国に騙されて来てみたらとんでもない原野だった、でも頑張って今日の土地を作り上げたんだよ、という話は、知床に限らず、弟子屈や根室など北海道の至る所に転がっている。知床だけが特殊例ではないのです。
 北海道はせっかく、他のどこにもない開拓スピリットを持っているのだから、それを北海道人の中に眠らせたまま年老いさせていくのはものすごくもったいないと思う。北海道のいろんな自治体が悲鳴を上げていて、財政難だとか過疎化とか高齢化に直面しているけれど、この北海道開拓スピリットをもってすれば、北海道、まだまだ全然力を持ってるんじゃないかと思ったりするのです。

(2007.1.25)


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