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ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

命が助かるのもお産も当たり前だろうか?

2007-04-15 | 医療

 旭川赤十字病院の医師が急性膵炎の治療を誤ったとして札幌地裁が賠償命令の判決を出した。という記事を読みながら、ああこれでまた医者が減るのだろうなあと漠然と思っていた。北海道の医師不足はいつも話題になっていて、先日もその話題を某所で講演したばかりだ。
 今日は北海道ではないが、研修医がバイトしたとニュースになっている。医者は増やせ、でも、○○にしろ、××は駄目だ、▽▽を守れ、医師に対する規定と要求はどんどん厳しくなりガチガチだ。でも、患者の側が云々されることはあまりない。

 私は一つ一つの事柄の詳しい内容は知らないし、何より人の命がかかっているのだし、現実に家族を失った人の状況ははかり知れないものがある。自分は患者さんの命第一主義の医者である方だと思うし、そのためにずいぶん喧嘩もしてきたと思っている。が、その私でも、ニュースを聞かされる度に思うことがある。
 命が助かるのが当然という風潮になっていないだろうか?
 いや、命は助からなければならない、助かるべきだ、が、それでも、である。
 人の命は、マイカーを修理工場に出すのとは違う。修理に出せば直るというものでもないし、直らなければ弁償してもらえるものとは違う。
 医学がどんどん進歩して、人が不安を抱かなくて済むようになるのは、大歓迎なことだ。
 が、だからと言って治療が簡単になったということは違う。
 どんなに医学が進歩しようと、治療は相変わらず重く、人の生身の身体は相変わらず人には把握しきれない。人の身体、人の命は、そんなに簡単なものではない。
 その「簡単ではない」に日々苛まれる医師と、昔に比べ「簡単に」治ると思っている人々の間に、何か大きなギャップがあるように感じるのだ。

 それは特に、産婦人科領域のトラブルを見る度に強く思う。
 私は本気で言いたい。
 子供を生むのは本当に命にかかわる大変なことだ。
 が、世の中、病院に行けば赤ちゃんが生まれるのは当たり前、と思われていないだろうか。赤ちゃんを生みにくいのは病院が減った(産婦人科医が減った)せいだ。病院に入院すれば(産婦人科医さえちゃんといれば)、イコール赤ちゃんを連れて帰ってこれる。
 本当に??
 赤ちゃんをお腹から取り出すのは当たり前じゃない。実はとんでもないことが起こっている。どんな正常妊娠の場合でも、赤ちゃんも、お母さんも、一歩間違えば死ぬ可能性が、お産の間もお産の後も、次々と生じている。
 こんなことを言うと、よけい少子化が進むのかもしれないけれど、女性の大変さ、凄さをよく理解しないまま「病院に行けば赤ちゃんが出て来る」的に簡単に安心を謳う風潮こそ、少子化を進めているようにも思う。
 女性が赤ちゃんを産むのは「当たり前」ではない。
 女性が命にかかわる凄いことをやった結果として、子供が出て来るということが、あまり理解されているように思えない。
 昔はお産は命にかかわる大変なことだった。子供を亡くしたことのある人はたくさんいたし、妊娠や出産は女性のダントツ死亡原因だった。私は全国の民俗関係を取材しているけれども、神社にこれほどの「安産祈願」のお守りがある理由を考えてみればいい。「産後の肥立ちが悪くて・・」という言葉が昔よくあったが、それは産後の出血が止まらないことだ。直径30センチもある胎盤が、女性の身体の内部から子供とともに剥がれるのである。それでも大出血しないで済む見事な人体の仕組みが女性の身体を守っているのだが、何も知らない人にはまず、直径30センチの範囲の内臓出血を想像してみてほしいと思う。それが、すべての出産女性に、それもお産の度に、起こるのである。
 今は出産は病院で管理され、ずっと安全に、安心して子供を産めるようになった。
 本当ならこれ以上嬉しい話はない。
 が、それでも命がけのことが起こっていることには、今も昔も何も変わりない。
 病院に入院すれば赤ちゃんが生まれる、のは、コンビニに行けばおにぎりが買える、のとは全然違う。でも、コンビニのおにぎりくらい当たり前に考えられてしまっていないか?? 医師不足のニュースも含め、最近の話題を聞かされる度に、そういう気にさせられるのである。

 何言ってんだ、命が助かるのが当たり前じゃないのはよくわかってるし、子供を生むのは本当に命にかかわる大変なことだってことが当たり前だろ、とたくさん言われることを祈りつつ。

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罵詈雑言じいさんの涙

2007-03-29 | 医療
 昨日、札幌市内での病院を辞めてきました。本当は勤務は火曜日までだったけど、申し送りを書き終われなかったので、昨日も行って書いてきました。今後、私が担当していた患者さん方をどれだけ診てもらえるのかわからないけれど、各々の人についての注意事項やら、ルーチンの検査や、最後のあがきの遺書みたいなもんです。

 4年間いました。担当の患者さん方と、そのご家族と、看護師さんたちと、介護さんたちと、みんなで本当に一つ「家」みたいな時期もあった。家族というのとはちょっと違うけれど、互いに何も言わなくてもものすごく信頼し合っていて、介護療養型の老人病院の、まぎれもない「日常」というのがしっかりとあったと思います。寝たきりでも、意識がなくても、それでただ毎日が過ぎていっても、その日常こそが「健やか」で「幸せ」なのだと、そう言いきることのできる日々でした。笑えるトラブルから容態急変まで、みんなでがっちりとその「日常」を守っていた。
 でもその日々も、厚生省の方針転換以来、正反対方向に狂いました。ただ「患者さんをちゃんと診たい」というごくシンプルな願いすら叶わず、「なぜ!?」と自問しながら、机上だけで決めてくる経営者側とぶつかりながら、頭をかきむしって、最後に絶望して辞職を決めました。なぜ辞めたか一々書いていてもらちがあきませんが、一言で言えばそんな感じです。

 最後の日には、あちこちの病棟に散ってしまったかつての担当患者さん全員をまわろう、などと考えていたのですが、何時間も申し送りを書きまくっているうちに、どんどん冷静になってそんなセンチなことはやめました。全員にお別れを言いにいけば、「良い話」なのでしょうが、現在担当の患者は昨日がっちり回診し、家族への話も済んでいる、遠い病棟に行ってしまった患者さんたちは、"あの日"に、やるべきお別れは終わっているはず。今さら未練だけで余計なことはするまいと思いました。
 ああ、でもあの人には声をかけていかないと。

 それは、常に怒りまくっていて、暴言、悪態、罵詈雑言の限りを尽くし、頑として薬も飲まない、食事も食べないという寝たきり老人、Kさんです。もともと頚椎症でまったく身体が動かず、ある時から一切の食べ物を拒否し始め、何も食べないのでどんどん痩せ、極度の栄養不良となり、この病院に搬送されてきた時には、栄養不良で全身の組織が崩壊を始めていて、身体のあちこちに穴がボコボコ開いているような状態でした。無理矢理首から栄養を点滴され、そのこともものすごく怒っていました。
 傷の処置をしなければ悪くなる一方なのに、触ろうとするだけで怒りまくり、暴言を吐き、見舞に来る家族に病院の悪口をとくとくと聞かせるので、皆手を焼いていました。実はKさんの脳も心臓も肝臓も腎臓もどこも悪い所がなく、ただひたすら「食べない」ために身体の崩壊が起こっているのです。「食べてね」と言い聞かせても、「バカヤロー人の身体だ!」と怒って、まったく聞いてくれません。なので、ある意味自業自得である、のに、ものすごい罵詈雑言を浴びせてくるので皆で困っていました。
 でも、私は何かしらピンと来るものがありました。というのが、触ろうとする前に必ず「胸の音聴くよ」「足触るからね」「消毒するよ冷たいよ」「薬詰めるからね痛いよ」等々一言かけると、絶対いやがらずに静かにしているからです。Kさんの暴言罵詈雑言は、指一本動かすことができなくなってしまった人の、「自分の身体を勝手にされたくない/勝手に触られたくない」という究極の自己主張ではないかと思いました。「痛い!」と怒り出すKさんに、「ここには○○の傷があって××になっている、そりゃ痛いに決まっとるわい」と説明するとじっと聞いていました。首もまわらないから、今自分の身体のどこにどんな傷があってどういう具合になっているかもわからない、それも怒りのもとだろうと思いました。
 その後足を切断し、命が危ぶまれる時もありましたが何とか切り抜けました。それでもKさんはまったく食べず、そして、身体に栄養を補給するチューブを胃に直接つないでからは、「人の胃に勝手に穴を開けやがって!」と怒ったきり口をきいてくれなくなってしまっていました。
 そのKさんの所に最後に声をかけに行きました。
 「調子はどう?」といつものように声をかけても、よそを向いて無視しています。
 「今日でね病院辞めるんだ」と、正直にKさんに話しました。「Kさんはね、栄養不足で痛いことになってるだけだから、これから絶対に良くなるから、だから投げやりにならないで、しっかり栄養をとってね。最初に来た時にくらべたら、間違いなく良くなってるから。背中の傷もお尻の傷も良くなってるから。でも時間はかかるからね、良くなるのはものすごくゆっくりだから、まだしばらくは絶対痛いからね、でも絶対良くなるから、怒ったりしないで栄養をとってね。」
 ・・・と言い聞かせていると、ありゃ! Kさん泣いてる。
 「バカヤロー」とか言いながら、そっぽを向いて泣いています。
 「しっかり栄養をとるって約束してね」 うんうんと頷いています。「まだ痛いのは続くからね」うんうん、「時間はかかるからね」うんうん、「でも栄養さえとれれば必ず良くなるからね」うんうん・・・・。
 また明日になれば、馬鹿野郎だのあっち行けだのいつもの悪口が始まるのでしょう、でも、今日私が言ったことは、きっと覚えていてくれる、そう思いました。
 そして、なんとなくわかったことがありました。Kさんがかたくなに食事をとらないのは、頚椎症で指一本動かせず、毎日100%の介助をしてもらわなくてはならず、自分では自分の身体に何一つすることができない人の、最後の精いっぱいの「自分の身体は自分でコントロールしたい」という主張なのだということです。「食べない」という形での、究極の自己主張なのでした。それで結果的には痛いことになって、怒りまくっていたけれども。それで首に点滴されたり、胃にチューブをつながれたりして、ますます怒る状況になったのだけれども。

 Kさんの病室を出てから、もう1箇所だけ、他病棟の患者さんを回診しに行きました。
 もともと私が診ていた患者さんなのですが、厚生省の医療改革で不本意な病棟替えがあって、不本意にも担当をはずされてしまった患者さんでした。この患者さんも暴言暴力、幻覚幻聴があって手におえず、最近になって「やっぱりお前が診ろ」と言われ、他の病棟に往診するような形で診に行っていました。
 自分の担当でない病棟に行くのはものすごくやりにくく、正直いまひとつちゃんと診きれていなかったのですが、最後に今日は診ておかないと・・・。
 病室に入って、「元気?」と声をかけると・・・・。
 あら不思議。いつも暴言暴力でキツイ表情をしているその患者さんが、満面ニッコリするではないか。
「元気だヨ。」
「元気でいてね。」辞めるとは言えず、肩をポンポンと叩くと、
「うん、ありがと。」
 ものすごく珍しいことに、御礼まで言ってくれるのでした。
 詰所で、最後にその患者さんのカルテを書きました。
 この病院での最後のカルテを、この文面で締めることができるのは、幸せなことなのだと思いました。
 私たち医者は、患者さんが日々何事もないことを、何よりも望んでいるのだから。

     H19.3.28
       笑顔みられる。
       特変なし。




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しょっぱい北海道

2007-02-13 | 医療
 北海道に赴任して10年を越えるが、いまだに食べ物に慣れない。
 道外の誰もがみな、北海道は食べ物がおいしいでしょう、とうらやましがるが、私はいまだに北海道の食事が駄目だ。
 おそらく、魚も、貝も、果物も、野菜も、素材そのものはとびきり美味いのだと思う。わざわざデパートで高級食材を買わなくても、近所のスーパーで300円くらいで売りたたかれているメロンが絶品に美味かったりする。が、なまじっか素材が素晴らしいがために、それを料理する文化がほとんど育たなかったのではないかと思うのだ。素材をそのまんま載せた海鮮丼や、そのまんま焼いたジャガバタやらホタテバターが溢れているが、いわゆる北海道料理という分野はない。
 本州から引っ越してきた馴染みのシェフが、ヒラメの昆布〆のことで嘆いていた。北海道では、他のシェフも含め、誰も昆布〆というものを理解してくれないのだという。「ヒラメは捕れたてを生で食うのが一番旨いのに、それを昆布で巻いて一晩も放置しておくとは何事だ、鮮度が落ちるじゃないか」と怒られるのだそうだ。かくして、ヒラメの昆布〆と聞けば私なんかは思わずつば一杯になってピヨピヨ寄って行きたくなるのだが、こんなに新鮮なとびっきりのヒラメが手に入るにもかかわらず、私は北海道でヒラメの昆布〆を食べることができないのである。

 今日もまた、発売されたばかりのカップ麺を試して、途中でげっそりして食べられなくなってしまった。
 実は、北海道のカップ麺は他地域よりも味が濃い目に・・・というより、あからさまにしょっぱく調整されている。そうしないと売れないのだと言う。
 カップ麺だけでなく、北海道はとにかく、しょっぱい。ひたすら、しょっぱい。
 それは、かつてニシン漁が栄え、そして炭坑が栄えた北海道では、肉体労働で汗水流す人々の求めに応じて塩分の多い食事が供されたからだと言われている。汗とともに体外に失われてしまう塩分を補うのに、その食事は理に叶っている。十分な量の塩を身体に補給し、疲労を回復させるためにも、十分に塩が加えられた食事は必要だったのだ。
 だからと言って、かつてのようなニシン漁も炭坑もなくなった現在、食事だけが変わらないというのはおかしな話だ。伝統の味、と名打っているラーメンや鍋は、しょっぱくて舌も涙も飛び出しそうになる。要は、北海道料理という分野があるのではなく、味が濃くてしょっぱいことが、「北海道の伝統」なのである。
 もう身体は塩分を必要とはしていない。のに、人々は過酷な労働者並みの塩分を摂り続けているのだ。

 かくして、私が北海道の地方病院で、外来に来る患者さんを診て一番にげっそりするのは、とにかくこぞって血圧が高いことである。体調が悪い人しか病院には来ないのだから、一般よりは血圧の高い人の割合は多いだろうが、それでも、北海道の患者さんは「またか」というくらい血圧が高い。正常範囲の人も中にはいるが、それは血圧の薬を飲み続けている結果である。頭が痛い、胸が苦しい、息がくるしい、身体がだるい、足がむくむ、めまいがする、みんな、高血圧である。
 ついでに病院で出してくれる食事さえも、私にはしょっぱい。時々、箸が止まってしまう。
 同じ病院食を、入院患者さんみんなが食べているのだが・・・。

 北海道のみなさん、どうかこれが普通の味付けだと思わないでください。
 道外、特に西日本から来た人間にとっては、しょっぱくてたまらないです。

 出張で、大阪より西、九州でも八重山でも、とにかく西、西に行くことがあると、もう涙出るくらい何でもたいらげてしまう。漬け物一つとっても、西日本ではしょっぱくはない。塩(もしくはしょうゆ)をかける「加える」文化と、ダシを滲み出させる「引き出す」文化の違いとも言えるかもしれない。
 かくして皆が「何でもおいしくていいねえ」と羨望のまなざしで見る北海道にいて、私はやっぱり食べ物が駄目だ。でも食べられないおかげで、塩分の過剰摂取にならないで済む・・? それが幸いなのか、不幸なのか、よくわからないけれども。




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医療費はマジ高い

2007-02-06 | 医療
 最近、国民健康保険料の滞納と、医療費の踏み倒しが話題です。そちらにまわすお金があるなら食べ物に・・という、ギリギリの生活をしている人が増えている一方、払えるのに払わない人がたくさんいて病院が困っているのも現実です。
 飲食店で飲み食いして代金を払わなければ、すぐ警察が来て逮捕されてしまうのに、病院で代金を払わなくても逮捕されないというのは、とてもヘンな感じがします。財布を持って行かなければドラッグストアでだって薬を買えないのに、病院では財布がなくても薬をもらって逃げちゃうんですね。それは「犯罪」なのに、病院だとそれが「犯罪である」という感覚が薄れてしまうのです。
 そこには、生命に関することには金のことを言うな、という意識が横たわっているように思います。金のあるなしで命が左右されるのはおかしい。究極のところ、生命に関することなんだからタダで供給しろ、ということです。医療費や保険料を払わないという現実手段に出ないまでも、病院は金がかかりすぎる、保険料も高すぎるという不満の底には、命が掛かっているのに!、という意識が大きく関わっているように思います。


<医療費は、本来しっかりお金をかけるもの>

 でも、ニュースで報道がされるたびに、私たちの側がもっと自覚するべきだ、と強く思うことがあります。
 医療費は、マジ、本当に、高い、ということです。
 冗談抜きに、もともとかかってる値段が半端ではないのです。
 人体に、命に、直接かかわるものなのです。安価に半端に済まされてはたまりません。
 薬も、検査費も、手術費も、現実にものすごいコストがかかり、たくさんの人と時間が注ぎ込まれた末のたまものです。薬一つとっても、「絶対に大丈夫」と証明されるまで、実に10年以上の歳月をかけて出来上がっています。そこに至るまで一体どれだけの人間と設備と実験動物の命が費やされたか考えてみれば、安易な値段にはならない(なってはいけない)ものであることが理解できると思います。手術なんか、実際に人の身体を切るんです、千円や二千円のレベルで話ができるものではありません。
 ものすごくお金のかかっているものを、私たちは助成費や保険料のおかげで実際以上に安価に受け取っている、ということをもっと私たちは自覚しなければいけないと、強く思います。

 今まで、なまじっか保険証の本人は1割負担でよかったり、高齢者はタダだったりしたものだから、それらは安く、もしくはタダで供給されるもんだという意識が身に付いている。急に3~5割負担になったり、タダじゃなくなったりしたものだから「高い!」「払えない!」と言っている部分もとても大きいと思うのです。

 まだ本人1割負担だった頃、自分で自分に薬を処方したことがありました。ストレスや疲れが溜まると出て来る症状で、それに出すお決まりの薬があります。が、会計に行って自分で目ン玉が飛び出ました。何にも考えないでお決まりの薬を処方したら、8000円を越える支払いになっていました。1割負担なのに8000円を支払ったということは、今、手の中にあるこのちっこい薬は、実際は8万円ということです。ストレスだけだったのに、8万円も使ってしまった! それ以来、自分で病院にかかる度に、レシートをよく見て、もとの値段を計算したりして、現実には自分のためにいくらの医療費が費やされたのか、一々確認するようにしています。
 現在3割負担の人は、支払い×3分の10倍して、現実の負担額を自覚することが必要なのではないでしょうか。
 そうすれば、実際にはいくらのお金が、医療のためにぐるぐるとまわっているのか、見えてくると思います。私たちが普段考えているよりも、はるかに巨額な金額が。


<健康保険は誰のため>

 ところで、上記のように本来8万円のお薬に、自分は8000円しか払わなかった・・・残りの7万2000円は、一体どこから出て来るのか?
 それが、もうひとつ問題になっている健康保険です。
 私が安易に処方してしまった薬のために、誰かべつの人が出してプールしておいてくれた7万2000円が使われてしまったのでした。
 普通私たちは、自分のもしもの時のために、健康保険を払い続けていると思いがちです。万一手術とかで何百万もかかる事態が起こった時のために、数万円づつ保険をかけておく、という考えです。だから、自分は健康で病院にはかからないんだから健康保険も払いたくない、という人はけっこう多いのではないでしょうか。
 でも実際は、健康保険は他の人のために使われると思った方がいいです。
 火災保険とか自動車保険みたいな個人のための「保険」じゃなくて、「わたし」が払ったお金で「誰か」の命が助けられているんです。

 私の友達でも、保険証を持っていない人はけっこういました。自分は病院の世話にはならないんだから払わない、というわけです。健康をさておいても他に使いたいことがある(いかにも若いうちは考えそうなことですね(汗))。そういう友達は、骨折しても病院に行かずにじっと温泉につかって治してしまったり、それでも病院に行かなければならない差しせまった状況になると、保険証を持っている人に借りて、なりすまして行っていました。
 かく言う私も、2年間くらい保険証がありませんでした。
 それまで常勤だった大学病院を辞めて、非常勤になったのですが、当時はいろいろな手続きまで頭がまわらず、それまで給料から天引きされてきた健康保険料や年金が、一切停止になってしまったのです。ということに気が付かないまま2年が経ち、突然手術をしなければならないことになり、初めて保険証がないことに気が付き・・・・区役所に行くと、そこでまたしても目ン玉が飛び出ました。
 ええと、保険証をつくってもらうには、その前2年間滞納した分、
105万円
 を支払わなければつくってもらえませんでした。
 というか、払えませんてば! いきなりひゃくまんえん! でも、保険証がなければ、手術代はもっと何百万もかかるのです。

 この時初めて、保険料はマジ高いんだ、ということを自覚しました。
 私は2年間、まったく病院にかからなかったけれど、その2年間分の105万円を払わなければならない。
 自分ではまったく使う必要のなかった105万円が何に使われるかというと、それこそ少ないお金で受診しているじっちゃんばっちゃんのほぼ全額の治療代に充てられたり、3割負担でかかっている人たちの残りの7割に充てられたりするわけです。
 今私が働いている老人病院では、一人あたり月々50万円くらい入院費がかかります。でも皆さんが実際に払っているのは月額15万円くらい。残りの35万円は、誰かが払っている健康保険料から支払われているという仕組みです。私が目ン玉が飛び出た105万円は、ばっちゃん一人の3か月分の入院費にしかならないですね・・・。そこで使い果たされて終わりです。そういうじっちゃんばっちゃんが日本全国にどれくらいいるか、また3割だけで病院にかかっている成人が日本全国にどれだけいるか、1回考えてみればいい。必要な健康保険料は気が遠くなるほどです。
 
 だから、病院に行って支払いを踏み倒す人や、健康保険料を払わない人は、ただ払わないんじゃなくて、ただでさえ窮々な他人のお金を喰っているのです。


<どうすればお金を払わなくて済む?>

 このとんでもない医療費や健康保険料を払わなくて済むにするには、とにかく医療にお金をかけないことです。
 では薬の値段をもっと下げて、手術代ももっと安く、診察費もバーゲン状態にすればいい?
 実際に、特許の切れた薬剤を安く作ったり、技術革新で大掛かりにならない手術ができるようになったりと、医療を行う側はものすごく努力しています。
 が、前述したように医療の安売りは、人体に直接かかわるものだけに危険です。
 人件費を削る以前に、医者も看護師も足りなくてアップアップしています。医療にかけるお金を減らそうとすると、医療従事者を安い給料で長時間働かせて、さらに何かあると訴える、という悪循環で、ますます人が減っているのです。
 今言っていることは、
 「生命にかかわっているのだから、最高のものを提供しろ。手抜きは許さない。カンペキじゃなかったら訴える。」
 「でも、保険料も医療費も払うのはイヤだ。生命にかかわっているのだから、金を払わなくても、誰でもいつでもすぐさま医療を受けられるようにしろ。」
 という矛盾なのです。

 これを矛盾なく実現するには、薬の値段や手術の値段を下げることではなく、みんながもっと病院にかからなくすることではないでしょうか。
 ちょっと痛いだけで、夜中に病院におしかけて医者や看護師やレントゲン技師や血液検査の技師の多くの人件費をかけて高い薬を出してもらうのをやめるのはもちろん、普段から自分の身体に気をつけて、本当に病気にならないようにすることです。
 現代の私たちは「権利」を主張することに慣れてしまっています。医療を受ける権利。薬を出してもらう権利。救急車に来てもらう権利。
 その一方で、好きな生活を送る権利。好きな物を好きなだけ食べる権利。やりたいように毎日を送る権利。
 糖尿病だと言われたけど、オレの身体だ、好きなものを好きなだけ食べさせろ、タバコもやめない、散歩なんてめんどくさい、これで死んでもオレの身体なんだから文句言うな、・・でも現実に目が見えなくなったり足が腐ってくれば、入院しない人はいません。初期の頃はまだ診察だけで済む内容も、入院するほどになった時には、莫大な治療費がかかります(しかも、莫大なお金だけかかって、治りません)。
 血圧高いけれど、しょっぱいものが好きなんだ、しょっぱいものを食べられないなら死んだ方がましだ、ラーメンの汁くらい最後まで飲ませろ、でも脳梗塞を起こしたら救急車は来てね、というわけです。
 そんな矛盾をやっている限り、医療にかかるお金はいくらあっても足りないのです。

 保険料、医療費、高いのは政府のせいでもなんでもなく、普段から身体に無頓着な私たちの意識が、結果的に医療費を高くしているのです。本当に意識を高く持って、しっかり予防し、気をつけて生活した上で、それでもやむを得ず病気になってしまった、事故にあってしまった、という時こそ十分にお金をかけて、たくさんの医者や看護師や技師さんに囲まれて、その時点で最高の医療が受けられるようにした方がいいのではないでしょうか。
 
(2007.2.6)





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