北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

卓球とスケート

2015-10-31 13:23:00 | スポーツ・健康
スポーツはあまり自信がない。野球等は、からきし駄目である。
それでも卓球とスケートは別である。

私が小学校5年生の時には自宅(信州飯田)の2階に卓球台があった。5歳上の姉が高校生で卓球部に入った為、父に買ってもらったらしい。
新品だったから、多分大工さんに作らせたものだろう。しっかりとした作りだった。

私もクラスの友人を呼んで、良く試合をした。いやむしろ遊びだった。
中学生になって、私が入りたかった吹奏楽部は未だ無かった為、卓球部に入部した。
ところが、同級生らも入ったが、皆私より強いのである。ほとんどつまらなかったと記憶している。2年生の時に吹奏楽部が出来たので喜んで鞍替えした。

しかし、昔取った杵柄と言う例えがある通り、素人よりは強い。
ある時、会社の旅行で旅館に卓球台があり、卓球をしたところ、同じ部署の若い連中よりは強くて鼻を高くした。
姉は高校以来、現在も続けており、私より強いのは間違いない。

スケートは、やはり小学生の頃から父に習い、まずは自宅庭の雪を踏みしめて作ったスケート場でだった。
最初は下駄スケートだから、刃のついた下駄の上に足袋をはいて、ヒモで縛る訳だ。
それはそれは寒くて、足は冷たかった。足の指先が痛いくらいだった。

「柏原つつみ」とか「松川プール」で練習して、休日にはバスで「沢城湖」に行った。

中学生や高校生の頃には、電車で七久保にある「千人塚」。そしてさらに遠出して「諏訪湖」「白樺湖」「蓼の海」まで足を延ばした事もある。
その頃には、靴スケートを買ってもらっていた。

都会住まいになって、子供を連れて「こどもの国」「二子玉川園」「新横浜」「よみうりランド」「東京オリンピックプール」「後楽園」と数えたらキリが無いほど良く行った。
都会人とは違い、腰を十分曲げて、両手は後ろに組んでも大丈夫だった。コーナーでもそのままバランスは保てた。通常「千鳥足」と言う滑りだ。
結構速く滑れるようになり、一周400mで約1分くらいだった。

「二子玉川園」では、子供も一緒だったので、カッコいいところを見せようとスピードを出し、止まるときにそのままフェンスにぶつかってしまった。
当然衝撃があり、右手と胸でまともに当たって止まった訳だから、右肋骨と右手首を打撲して痛く、しばらくの間、湿布した。
今も、右手首に痛みが残るのは、後遺症であろう。
やはりスピードは危険である。

会社の旅行で御殿場へ行った時だった。
翌日は「ファミリーランド」でスケートをする事になっており、誰かが私と後輩と「どちらが速いかカケよう」と言う話になった。
私は負けるかもしれないと弱気になり、「カケはしない」と言った。
ところが、ふたを開けてビックリ。私の方がダントツで速かったのである。「しまった」と思った。

都会の人混みの中を、右に左にスムーズに追い抜いて移動できるのは、スケートで鍛えた、人にぶつからない「凄ワザ」であろうか。

釣りバカ日誌

2015-10-30 18:43:00 | 映画
「釣りバカ日誌」とは、漫画であり、同名の映画のタイトルである。

映画は何本か見たが、中でも面白かったのは、№16の「浜崎は今日もダメだった」である。
佐世保を舞台にした映画で、尾崎紀世彦演じるバーのマスターと、その一人娘演じる伊東美咲が嫁に行く話だが、尾崎紀世彦の父親ぶりが大変よく、娘を思う気持ちに泣けてくる。

今秋、テレビ東京でも新しい「釣りバカ日誌」が始まった。社長のスーさん役の三國連太郎はすでに故人となり、ハマちゃんだった西田敏行がスーさん役で初回を見たが、面白そうである。

さて、私の「釣りバカ」ぶりは、会社勤めの頃、同僚に誘われて行徳近くの江戸川で「ハゼ釣り」をしたのが最初である。
当時、私の住まい近くに釣り具屋の「キャスティング」があり、簡単なハゼ釣り用サオを買った。

二人でボートに乗り、漕ぎ出して川の中ほどでイカリを降ろし釣り出した。エサの青イソメに何回も指を挟まれ痛い思いをした。
それでも、何匹も釣れて良かった。あの当たりの「ブルブル」感が良いのである。
帰って自分でさばいて、てんぷらにした。これぞ江戸前である。

それから本格的に、イシモチ、キス、カサゴ、カワハギ、ソーダガツオ、メバルを釣るようになった。サオやリール、クーラー、雨具、手袋などひととおり揃えた。
江の島や金沢八景、そして泊りがけで網代まで行った事もある。

網代は同僚の知人が所有する別荘に泊まったのだが、夜は宴会で余り眠られなかった。
釣りは早朝である。魚種は岩礁帯のカサゴねらい。

海は雨で風もあり寒く、そこそこ波もあり、まだ慣れない釣りで針にエサをつけるのがやっとで、下を向いているうちに、気分が悪くなった。船酔いである。

船べりで「ゲーゲー」吐いたが、段々ひどくなり、今度は「オエー」が続いて、吐きだす物も無くなり、ついに黄色い胃液まで出てきて、大変苦しんだ。私のゲロが魚のエサになった事だろう。
顔面蒼白。そこで私はサオ入れを止めたが、それまで岩に針をとられながらも、何匹か釣った。
後日、スーパーで価格を見たら一匹\800~¥1000していた。

カワハギ釣りの時であった。
カワハギ用のリールを買って、イソイソと出かけた。

エサはアサリ。何しろ相手は「エサどろぼう」と呼ばれる位、エサをとられてしまい、私は船長に「そこの人、もうエサなんかないよ」と言われ、「ウソだろ」と思い、サオを上げるとエサが無いのである。それでも何匹かかかり「ウマヅラハギ」も釣れた。

その後だ。大物がかかった。まるでヘミングウェイの「老人と海」を思わせる、すごい引きがあった。カジキマグロかも知れない。
魚は海上に上がるまで、分からない。

引きが強く、リールを巻いても空回り。右に左にあばれ、他人とおまつり(糸がからむ)をするし、やっと友人が糸をたぐってくれて上げたら、何と「イシダイ」だった。
縦に黒白の模様のある魚で口はおちょぼ口だから、釣るには大変難しい魚である。

まぁ、たまたま釣れたと思うが、これが私の一生の自慢の種となった。
帰って刺身にした。

八王子に引っ越してからは、釣りはしていない。道具はほとんど処分してしまった。

以上、イソメの痛さと、オエーの苦しさの私の「釣りバカ日誌」でした。



竹管独奏曲の尺八初演

2015-10-20 21:51:00 | 音楽・日々是尺八
青木鈴慕師の主催で、我々が若いころ「鈴慕奨励会」があり、若手セミプロ集団の演奏会を開催していた。
各人が競って古典を中心とした三曲合奏曲など、日頃の勉強振りを披露してきた。

そうした中で、現代邦楽作品も演奏するようになり、「鈴慕コンソート」と名付けて3回くらい演奏会があった。
鈴慕師主導による曲目の選択により、大概は尺八二重奏曲や尺八三重奏曲から、箏、三絃、十七絃も入るかなりの編成の曲もあった。

第3回の1987(昭和62)年10月、新宿モーツァルトサロンで、「杵屋正邦作品による」と題しての会で、私は鈴慕師お気に入りの「竹管独奏曲」を演奏する事になった。
元々は篠笛の為の曲であった。それを「尺八では初めてだから北原やれ!」と言われたのである。

鈴慕師から福原百之助の演奏したカセットテープをいただき、もの悲しい演奏ながら素晴らしい演奏に接し、不安も出てきた。

この曲は一尺六寸管を用い、サイドドラム、ボンゴとコンガなどが必要であった。
そこでジャズバンド二人に賛助出演していただいた。ジャズバンドは松下通信工業のカウントセイノウオーケストラ(C・S・O)と言い、横浜市の佐江戸工場(JR中山駅)にあり、そこへ練習に行った。

元々私は高校の時、吹奏楽班でボンゴを練習したこともあり、違和感はなかった。
ただ、邦楽曲は「序破急」で出来ており、ジャズの一定の速さでは無いので合わせるのに難しかった。

鈴慕師に言われ、杵屋先生宅にも尺八のみ練習を見ていただいたが、先生はボンゴとコンガの代わりにウチワのような太鼓を叩いていた。
ただしこの曲は本来、篠笛の為の曲であり、尺八で演奏するには、なかなか困難でオクターブ上げたり下げたりして演奏したところ、先生は「青木さんみたいだな」と言っておられた。どうやら自分で演奏しやすいように許可を得ずにやったからだと思う。

ジャズ奏者2人は邦楽の「間」が取りにくかったかも知れない。所謂「あうん」の呼吸だ。
それでも私は、リズム的な打楽器が伴奏でジャズでも演奏しているかのような気分で、もの悲しさとは程遠く、うれしさいっぱいの演奏であった。

杵屋正邦(1914~1996)の解説
昭和35年5月作曲、篠笛と打楽器の為に作曲された。
曲はアンダンテで始まり、アンダンティーノ、アレグレットと徐々に速くなり、レントで終わる。
打楽器は、サイドドラム、タムタム、ボンゴ、コンガ、シンバル等を使用して曲に変化を与えている。これらの打楽器の使用は邦楽作品では極めて珍しい。
もの悲しく、寂しいメロディは、篠笛の特徴である。(杵屋正邦記)


尺八でジャズ・ポピュラー

2015-10-16 20:42:00 | 音楽・日々是尺八
尺八でジャズ・ポピュラーの先駆者は村岡実(1923~2014)や山本邦山(1937~2014)であろう。
この卓越した両人の演奏がレコード化されて、我々の知るところとなった。
村岡実は知る人ぞ知る、美空ひばりの「柔」の伴奏や「遠くへ行きたい」の尺八で有名である。

1968(昭和43)年、大学2年生の春だった。私は村岡実のレコードから「子象の行進」の曲を知った。映画「ハタリ」の中の曲である。この曲のメロディーとアドリブを2本の尺八で演奏するべく編曲して、大学の春の文化祭で演奏する予定であった。

ところが、星野仙一投手活躍の六大学野球の春のリーグ戦で我が母校が優勝してしまい、急遽提灯行列に皆行ってしまった。もちろん私もである。
文化祭は当然キャンセルした。
知らないうちに新宿京王百貨店や小田急百貨店の屋上ビアガーデンを乗っ取り、校歌の大合唱であった。生バンドも仕方なく伴奏してくれた。

一方の山本邦山は1967年、有名なニューポート・ジャズ・フェスティバルに日本のバンド、「原信夫とシャープス・アンド・フラッツ」と共に参加して一躍、時の人となった。
YouTubeに邦山演奏が出ているが、難しい「テイク・ファイブ」を難なく吹きこなしている。
何しろ5孔尺八であるし、4分の5拍子のリズムで、その難しさは尋常では無い。

ただサックス奏者などに言わせると、世間的には批評は厳しいものがある。楽器の難しさを知らないからだ。
私も練習だけはしている。

1995年、大和市の中学校でクラス毎に父兄の講話があり、私は音楽室で尺八を演奏した。
何曲か演奏したが、音楽担当の先生のピアノと、ぶっつけ本番で「アメリカン・パトロール」をジャズ的にコラボし、私がメロディーで、ピアノはコードを弾いていただいた。
この時の状況はタウン誌に演奏写真と文が掲載された。

ジャズ映画の、「ベニイ・グッドマン物語」や「グレン・ミラー物語」のDVDを見たが、私は「茶色の小瓶」が好きである。

この曲を、在京高校同窓会でのアトラクションに呼ばれて演奏した。
この時、会場にいた方々を2つに分けて、交互に手拍子を打たせたが、思うようにそろわず、もくろみは失敗した。
誠に乗りが悪かった事を反省している。

さらにジャズと言えば、「A列車で行こう」や「サマータイム」「ハーレム・ノクターン」等が好きである。もちろん楽器はサックスがいい。尺八と同じようにポルタメントが出来るからである。
(ポルタメントとは下の音から一音上の音までを切らずに、スリ上げてつなげて演奏する方法)

村岡実について記すと以前、新宿朝日生命ホールで演奏を聞いたし、何年か前に高円寺の尺八ライブにも行った。
その後、「本曲演歌独奏集」のCDを発売したので購入した。



その時宮崎のご自宅に、そのCDの楽譜を送っていただくようにお電話した。そして「先日ライブに行った」由を伝えたところ「又、やるからよろしく」とおっしゃっていたが、それが最後に聞いた言葉だった。


ブラバンでユーホニューム

2015-10-05 12:30:00 | 音楽・日々是尺八
小学校5~6年では器楽班に入り、小太鼓を叩いていた。だからリズム感はあると思う。
クラスごとの音楽会の器楽合奏では母に習って「金婚式」のオルガンを弾いた。

中学2年の時に吹奏楽班が出来て、入部した。担当の楽器を決める時に、小太鼓は一つ下の後輩がうまく、とても無理だった。トランペットは鳴りにくく(私は唇が厚くマウスピースからハミ出した)結局、鳴りやすかった低音楽器のユーホニュームを選んだ。小バスである。

ユーホニュームは、ユーホニアムとか、アニメにあるように「響け!ユーフォニアム」とか表示される。

練習では、ヤマハ楽器から津金五郎なるカリスマ先生が見えて、熱血指導してくれた。
独特の指揮法で、解りやすく、面白いように上達した。
だが、その後の発表演奏会で「浜辺の歌」を演奏した時、母が聞きに来て「ヘタで音痴で泣けてきた」と言われた。無理もない。2~3か月じゃあ上手くならない。

高校に入ってもユーホニュームを担当出来た。ブラバンと言えば大概、行進曲であり、「海兵隊」に始まり、日本の「君が代行進曲」「軍艦マーチ」などから、スーザ作曲の「星条旗よ永遠なれ」「エル・カピタン」「美中の美」「雷神」「ワシントン・ポスト」、タイケ作曲「旧友」など、かなりの曲を演奏してきた。
いまだにメロディーは浮かんできて、楽器の指使いが自然と動く。



写真の左側は中学生の時に最初に買った「日本行進曲集」の陸上自衛隊中央音楽隊のレコード。何回聞いたか解らない。右側はアメリカ・ミリタリーバンドの行進曲集で、主にスーザ作曲の曲が入っている。

ユーホニュームは対旋律と言って、トランペットやクラリネットが主旋律を演奏する時に、違うメロディーを演奏するので、これが結構カッコ良いのであり、経験者なら誰でもそう言うであろう。

同僚のH君は作曲の才能があり、テレビの主題歌「鉄腕アトム」や歌謡曲を片端から編曲して、野球の応援でも演奏した。私は「君といつまでも」を球場で立ち上がってソロ演奏した事もある。

文化祭では「べサメムーチョ」がユーホニュームのソロで、ほとんどスタンドプレーだった。独奏部分はカデンツァと呼ばれるが、本当に難しかった。

1965(昭和40年)年、高校2年生の時の吹奏楽コンクールの課題曲はブルック作曲・歌劇「パリスとヘレナ」序曲で、自由曲はシベリウス作曲「フィンランディア」だった。
優れたメンバーが揃っており、長野県大会で25人編成以下の部で見事優勝した。

3年生の時の課題曲は大栗裕作曲「吹奏楽のための小狂詩曲」で、この時の全国大会で優勝したのは天理高校でYouTubeで見られる。

便利な世の中になったもので、すっかり忘れていた曲目がネットで調べれば、音源まで検索出来て、まさに50年振りに曲と再会したのである。

その後、わが母校の編成はかなり大きくなり、オーケストラ的になった。
いつか演奏会のお知らせがあり、聞きに行ったところ、私達とは比べ物にならない位うまく、女性も増えていた。ジャズ的な曲も軽やかで見事だった。
大編成になってしばらく経つが、今年は長野県大会で最優秀になり、東海大会で銀賞だったようだ。

新宿に勤務している頃、新宿三井ビル広場で「木曜コンサート」が昼に時々あり、無料で聞けた。コンサートは継続している。
ほとんどが自衛隊のブラバンで、陸上自衛隊や海上自衛隊など行進曲やポップス、ラテン、アニメソング、ディズニーメドレー等の演奏を得意としている。
「エル・クンパンチェロ」を楽しそうに演奏していると、こちらまでが楽しくなる。
海上自衛隊の演奏では歌姫の「三宅由佳莉」さんの歌を聞いたとき、素晴らしいと思った。その後、立て続けにテレビに出演していたから、知っている人もいると思う。

1964年の東京オリンピックの時の古関裕而作曲「オリンピックマーチ」を、2020年東京で開催が決まった時に随分聞いた。まずトランペットのファンファーレで始まり「オリンピックマーチ」を聞くと、あの時の事を思い出す。私は高校1年生だった。私たちも練習をした。
いつ聞いても感動・感激する。けだし名曲である。

ブラバンのお蔭で、簡単な五線譜なら初見で尺八演奏できるのはうれしい。

古関裕而(1909~1989)は「若鷲の歌」など戦前は軍歌で有名だが、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」や、NHKスポーツ番組のテーマ曲「スポーツショー行進曲」や、夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」、NHKラジオ「ひるのいこい」と「日曜名作座」のテーマ曲など幅広く使用されている。