ただウェブに駄文を綴るのみ

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SNSに招待されないってことはつまり,○○と一緒だってことなんですよ

2006-05-26 | Webのお話
2006年05月22日 lsty SNS, コバカパーナ SNS批判をすると必ず出てくる「ひがみ」発言。何様のつもりなんだろう。SNSに招待されれば偉いとでも思ってるんだろうか。
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 上記のLSTYさんのコメントから,SNS批判をすると「ひがみだろ」と言われることがあるようだ.そのことに対してSNSに招待されることが偉いことなのか? と疑問に思っていらっしゃるようですが,これは誤解を恐れず断言してみたい.偉いというか,やっぱ自慢になると思ってるんじゃない?

■友達100人
 どういうわけか,この日本という国には「友達100人」というフレーズが歌詞になるほど,友達の数が多いことが推奨されている…かどうかはともかく,友達が多いことには越したことはないはずだ.

 友達が多いということは,それだけその人に人望がある,それだけの人と仲良くできる明るい人だという一つのパラメータみたいなものがある.逆に友達がいないとなると,根暗だとかネガティブなイメージを持たれる傾向にある.

 SNSに招待されるということは,つまりそれだけの人望や人気があるという一つの証であり,それは自分にとって「SNSに招待してくれる友達がいるんだぜ」というステータスをもたらしてくれるのである.ここに,SNS批判をしている非SNSユーザには,SNSに招待されていない=友達がいない=根暗というレッテルが貼られ,それはネガティブなイメージとして恥ずかしいこととされるのである.
■SNSに参加してないやつ=童貞
 では,SNS批判をするとひがみと言わたり,自分がSNSに招待されるということを敢えて自慢していくのはどういうことだろうか.これは,下品な表現かもしれないが,SNSに招待されないやつを童貞/処女と置き換えて考えてみてはどうだろうか.

 ある時期を過ぎると,男女にはセックスに対しての興味ってものが当然の如く出てくる.そういうとき,童貞/処女であることがかっこ悪いとされる空気が出てきて,我先にと彼氏/彼女ができて非童貞/非処女になったとき,「俺/私はセックスしたわよ」と自慢話になったりしないだろうか.ここに「セックスを経験した」「彼氏/彼女ができた」というステータスを得ることができ,そのことを話すことによって羨望のまなざしを向ける人がいることで,「羨ましいだろ? くやしいだろ?」と優越感に浸るのである.

 SNSも同様に,「SNSに誘われたい!」という欲求が高い人が多いことだろう.そして,そういう人がいる以上,SNSに参加していることが自慢できるステータスとして存在しているように錯覚するのである.そう,錯覚である.必要以上に羨ましがる人がいてこそのものであり,それがなければ何の価値もないものである.そんなものが本当に自慢になると思うのだろうか? そして,それを疑問に思っている僕はひがんでるんだろうか?
■SNS批判はどうあってもなくならない
 例えSNSに興味もなく,またSNSについてオープンな場で語られていることからイメージして「SNSってなんか嫌」と批判すること自体はなくならないと思っていい.むしろ,SNSの規模が大きくなればなるほど,そこに失望してオープンな場にそのことを書いてしまう人は増えていくことだろう.そうなれば,当然参加してなくてもネガティブなイメージを持つ人も増えていく.これは仕方ないことだ.

 つまり,SNS批判というものの中にはひがみもあるかもしれないが,同時に失望感からくるものもある.そして,そこからネガティブなイメージをもって否定的になる人もいるのだ.それらについては決してひがみではないのである.

 もしも,SNS批判=ひがみという方程式を持っている人がいたとしたら,そんな価値観などそこらの粗大ゴミ置き場にでも捨ててくるべきである.その価値観は,ますますSNSへの不信感を募らせるものになりえるだろうからである.

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