ただウェブに駄文を綴るのみ

駄文綴り続けて早1年。
誰かのためになることを書いたら負けかなって思ってる。

いじめは娯楽であり,また(いじめる側の)コミュニケーションの手段である

2006-11-17 | 駄文ぼやき
 マスコミでもネットでも,いろんなところで好き勝手にいじめについて語られているので,自分もその波に乗るためにいじめについて書こうと思う。

 いじめについて議論する際,どうにも理論的な話にしようとするものを見かけるが,その全てに対してなんとも言い様のない違和感を感じるものである。そもそもいじめってのは,人間の醜い感情の部分を抑え切れず,ひどく拡大したものであり,そんな人間の感情など理論に当てはめることなど到底不可能だと思うわけで,この手の話は理論的に語れば語るほど,いじめの根本からは全くかけ離れた話になってしまい,結局議論という名のゲームにおいてのみいじめとはこうであるという結論が出されるだけに留まり,いざ議論によって出た結論を元にいじめ対策をすれば,いじめる側はそれをあっさりと回避するだけの知恵と狡猾さでいじめを繰り返すか,既にいじめが通り過ぎた荒野だけが残るにすぎない。

 もしいじめというのを本気で阻止したいなら,いじめが起きている,または起こっているかもしれない場所へ行っていじめられてる本人に対して手を差し伸ばし,いじめに立ち向かうことが重要であり,ネットでいくら議論をしていようが適当な記事書いて「善意でこの記事を転載してください!」と言ってようが,所詮は自己満足の領域にすぎず,んなものでいじめられている者が救えるわけでもなく,またいじめを防ぐこともいじめにあっていることに気づくこともできるわけではない。いじめに本当に気づくんだとしたら,そんな議論もすることなく気づくもんであり,またそうあってほしいものであり,結局のところ,議論やそれらを読破している間にも自分の子供はいじめられているかもしれないことに気づくこともなく,日々をただ過ごしていくにすぎない。いじめは会議室でもネットの議論の場でもなく,現場で起こっているのであるということだ。


 少し脱線気味。これじゃいつまで経ってもタイトルに書いてあること書けないので戻るが,いじめを起こすグループには3つの要素があると思っている。

1.いじめられる側がいじめる側の想定した反応を示すことに対する快感や,そのことによって人を支配しているという快感を与えてくれる娯楽の一つとして捉えているグループ。
2.誰かをいじめるという行為が昨日のドラマの話や休みの日は何をするのかといった,自分たちのコミュニティでの話題の一つとして楽しみ,より活発なコミュニケーションとして利用しているグループ。
3.対象の人格がひどいため,何をやられたってしょうがないと思う上で,嫌がらせなどを行うグループ。

 どちらのグループにも共通するのが,どんな手段であれ,相手をいたぶったり馬鹿にして見下したりすることを楽しんだり笑ったりすることである。それは人として誰もが持っている感情であり,どれだけ否定しようとも否定しきれない醜い感情である。その感情に悪意というものはなく,単に楽しいから,面白いからやっているという感覚があるだけにすぎない。そのため,どれだけ悪意を探そうとしても悪意がないのだから見つけようがないのである。
 この記事を万が一読んだ方に伺いたいことがある。あなたは誰かを馬鹿にしたりすることを楽しんだり,優越感に浸ったりしたことはないだろうか? 少なからず誰もがあると思うが,それを集団で共有し,そしてさらに継続・エスカレートさせていったものこそいじめであると断言しよう。ここでもし,3のように「いや,相手にもそうされる理由があった」と言おうものなら,それはいじめを正当化させるための卑劣な言い訳にすぎず,単に(自分に都合の悪い)現実を見ようとしてないだけにすぎない。


 昨今,いじめを苦に自殺する少年・少女の問題がたびたびニュースで取り上げられている。まったく取り上げないのもどうかと思うが,あまりに頻繁に取り上げられる数を見ると,単に苦しくて自殺をした以外に理由でもあるのかと思ってしまう。まぁ,苦しいから自殺するというだけならいいが,もしいじめた相手に後悔させたい,自分をいじめていたやつに罰を与えたい,とかいう思いで自殺するなら効果はないと言っときたい。

 まず,自殺することによっていじめを行っていたものたちにどれだけ罪というものを実感させられ,また罰を与えられるだろうか。もし実感させられるんだとしたら,それは集団に取り入るためのコミュニケーションの一つとして仕方なくやっていた,という下の下の方に分類されるもののみにすぎないのではないだろうか。「いじめは楽しい」――そう感じている人間にとって,自分たちがいじめたやつが死ぬことは,いじめを後悔するどころか「あいつ死んだな。おもしれー。」と楽しむのではないか。前に北海道あたりの自殺した学生の葬式でいじめた側の連中が笑っていたという報道を聞いたことがあったが,いじめを面白がっているものにとって,いじめていたやつが自殺されるというのは娯楽に新たな楽しみ・刺激が追加されたと認識されるだけにすぎないのではないか。さらにエスカレートさせると,いじめ問題で自殺する少年・少女が増えて騒がれている今だからこそ,「いま殺しても自殺で済まされるかもな」「TVとかでインタビューとかされるのかなwktk」といった具合に偽造した遺書を用意した上で,いじめを苦に自殺した見せかける殺人を実行する,そしてそれを楽しむ連中まで出てこないか,それが心配でならない。もし後悔させたいなら,自分をいじめている連中がどういった性質でいじめを実行しているのか,それを把握しなければ単なる犬死にしかならない。

 また罰を与えるにしても,現状では犯罪というわけではないため,大した罰も与えられないことだろう。
 現状で大した罰を与えられないならば,いじめというものを犯罪にすればいいという話もあるみたいだが,そうしたところでいじめが減るかといえば,少しは減るだろうが,いじめの数というのはあまり変わらないだろうと思う。そもそも,犯罪になったところでどうやって実行犯を逮捕するのか。逮捕する以上は何かしらの物証が必要だろうし,仮に防犯カメラなどにいじめの現場が映ってましたというならともかく,大体は現行犯逮捕以外に道はないのではないだろうか。もしいじめられていた本人が警察などに事情を説明したところで,証拠不十分で逮捕されなかったり,仮に護衛として見張りがついたとしても,それに勘付かれれば警察がいなくなるまで鳴りを潜めるか,見えないところでやられるだけではないか。
 だが,万が一に警察が優秀な力を発揮して見えないところで実行されるいじめなども検挙され,検挙率が高くなったらなったで,今度はいじめられている本人がいじめの実行犯を把握できないいじめ――精神的な嫌がらせ・いたずら――になるだけで,直接暴力などを振るういじめについては抑止効果は機能するかもしれないが,いじめはより陰険で狡賢いものへと取って代わるだけにすぎないのではないだろうか。そうなると,いじめの実態というのはますます外からでは分からない,複雑で不可視なものになっていくように思える。


 楽しくて面白いと感じることは,どれだけ学校で道徳などで間違っていると説いたとしても否定しきれない感覚である。どれだけ悪いことであると言われようとも,人は楽しいことを手放すことを惜しむ。むしろ,悪いことだと言われれば言われるほど,自分が悪いことをしているということに酔ってしまう可能性だってある。
 いじめは楽しくて面白いという感情を身につけてしまったら,いじめは悪いことであると理解されることは難しい。いや,難しいどころか不可能かもしれない。いじめなんて人の負の感情の産物であり,どれだけいじめは悪だと言ったって,それが楽しいんだからなくせっこない。
 もし本気でいじめをなくす気があるのだとしたら,いじめというものが楽しいものではなく,いじめを行ったことでどれだけ恐ろしいことが自分に起こるか,どれだけ痛めにあうか,そういう目に遭うから決して楽しいものではないと身を持って実感させるか,そもそもいじめることが楽しいという感情を持たせない教育を徹底して行う以外に道はないのではないかと思う。
 だが,これだけ騒がれている今は,いじめとは何かとか,どうすればいじめをなくせるかとかいう将来への考えをネット上で書いていたり,それらの記事に「その通りだ!」「いや違うだろ!」とやってるのなんて時間の無駄なんだから(もちろん,こんな中身のない記事が書かれている時間も無駄すぎ),自分の体を動かして,必死にいじめに立ち向かうほうが余程いいぞということである。動く気がなく,単に言うだけでは本当に救いたい誰かを救うことなんて無理。そんな言うだけで行動しない正義感などくそ食らえである。

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