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鍵穴ラビュリントス

狭く深く(?)オタク
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プラトニックlove好き

万葉のうた 岩崎ちひろ

2015-03-16 06:04:26 | 万葉集
私が今まで、中大兄皇子(天智天皇)のことを書いてきた資料です。
『万葉のうた』
  大原富枝  文
  岩崎ちひろ 画

ぜひぜひ「万葉集」のカテゴリーをご覧あれ。
中大兄皇子大好きです……❤

古典とウメ 3

2015-03-07 07:28:30 | 万葉集
今回は『万葉集』というより、そのあとの文学のお話になります。


●古今和歌集(905年)
ウメの香りが好まれるようになる。

ウメの香りを詠んだ歌は、30首。
鑑賞が色ではなく香りにうつる。


色よりも 香こそあはれと おもほゆれ 誰(た)が袖ふれし 屋戸の梅ぞも
[作者]詠人しらず

状況と訳:作者 (男性か?) の家にあった (女性により?) 梅の花が手折られたのだろう。
「花の色より香りの方が心に沁みたのためだろうか、私の家の梅の花が手折られている。手折られた花は誰の袖に入っているのだろう」
花が「袖ふれし」とは「手折られる」の、そして、さらに一歩進めれば、「袖に入れられる」の婉曲語法だろう。(「nouse」さんから引用)


●西行『山家集』

この春は 賎(しづ)が垣根に ふれはひて 梅の香とめん 人親しまん
[作者]西行


訳:この春は、静かに垣根に触れるように梅の香りがただよっている。(それに)人がつられてやってきたようだ。


●源実朝の暗殺された日の朝詠んだ歌

出でいなば ぬしなき宿と なりぬとも 軒端(のきば)の梅よ 春を忘るな
[作者]源実朝
『北条九代記』に載っている。

訳:わたしが立ち去って主人のいない家となっても軒端の梅よ 春を忘れず咲いておくれ

暗殺された日っぽいですね(汗)


●定家『明月記』
『明月記』は定家が19歳~74歳のことを書いた日記らしいです。

1、八重白梅
2、白梅
3、八重紅梅
4、紅梅
5、薄紅梅
6、早梅(早咲きで1月下旬開花)

庭に6種類もの梅を栽培していたようです。





これで「古典とウメ」シリーズを終わります。
お付き合いくださり、誠にありがとうございました。



古典とウメ 2

2015-03-04 06:48:53 | 万葉集
今日は、「紅梅」と「ウグイスの誤解」について書いていきたいと思います。

●万葉時代に日本に紅梅はなかった

昨日、『万葉集』にウメを詠った歌は119首あると書きましたが、そのうちの28首はウメのことを「雪」と見立てる歌があります。
多すぎやしませんか?
ということで、紅梅はなかった、という結論らしいです。

平安時代になって清少納言が出てくると、『枕草子』の「木の花は」に


木の花は、濃きも薄きも紅梅。桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし。


と、木の花の筆頭に紅梅が書かれています。その頃にはもう普及していたんだなとうかがえます。



●メジロ

よく、「うめとうぐいす」をセットにして言われますよね。ところが! それは大伴家持の歌による誤解なのです。

ウメの時期にウグイスは来ないし、ウグイスは花の蜜より虫を好んで食べます。
そう、ウメとウグイスは全く関係ないのです。
全てはメジロの誤解でした(;´∀`)


誤解の原因の歌。
原文は見つからなかったのですが、

鶯の鳴きし垣内(かきつ)ににほえりし梅この雪に移ろふらむか
[作者]大伴家持

訳:ウグイスが鳴いている垣根の内に色が映えてて梅(白梅)は今降っている雪に混ざって散っちゃうのかな?


↑このウグイスは、メジロの間違いです。



古典とウメ 1

2015-03-03 18:30:33 | 万葉集
この前はカルチャースクールに行って、単発で「古典とウメ」という講座があり、受けてきました。
万葉人はウメの香を知らなかった?!――という副題です。
ここで大事なのはウメの「香」です。万葉人の上流階級にいるひとたちはウメの存在にはもちろん、気づいていました。ウメは渡来して間もないのでした。


――というわけは、
『万葉集』にウメの歌は119首ありますが、そのうちの88首つまり75%が詠人判明。
『万葉集』にサクラの歌は50首ありますが、そのうちの26首つまり50%が詠人判明。
『万葉集』にハギの歌は141首ありますが、そのうちの57首つまり40%が詠人判明。

詠人判明とは、どういうことでしょうか?

……詠人判明というのはどのぐらい社会に普及していたかの物差しになり、多いパーセンテイジほど上流階級が歌を詠んでいる、ということになります。つまり、ウメ、サクラ、ハギのうち一番多く詠人判明しているウメはまだまだ庶民には広まっていなかった、ということです。


=(イコール)渡来して間もない。
『万葉集』の中の東歌3348番~3577番にはウメのことについては一切歌われておりません。


119首のうち、ウメの「香」について歌われているものはわずか……1首。

その1首を紹介して、今日は終わりにします。


宇梅能波奈 香乎加具波之美 等保家杼母 己許呂母之努尓 伎美乎之曽於毛布


梅の花 香をかぐはしみ 遠けども 心もしのに 君をしぞ思ふ
[作者]市原王(いちはらのおおきみ)

訳: 梅の花の香りの良さに、遠く離れていますけど、心のままに、あなた(中臣清麿きよまろ)のことを思っています。





『古今和歌集』になるともっといっぱいウメの香を歌ったものがありますけどね。


つづく。

追伸 ちなみにこの先生、湯浅浩史さんは、電車で居眠りして20分遅れてやってきた正直でなかなか良い先生でしたよw

④⑤鏡王女

2013-01-30 17:00:00 | 万葉集
④額田王(ぬかたのおおきみ)の姉である鏡王女(かがみのおおきみ)をも妻にしていたにもかかわらず、あとでもらいうけた額田王のほうをより愛した
⑤あとで鏡王女は、家来である中臣鎌足(なかとみのかまたり)の正妻としてあげちゃった


お久しぶりです。
あとでヘタリアのカテゴリーにも書きますが、今日は日英同盟締結の日!

それはおいといて、
では④⑤あわせていきたいと思います。


君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹


君待つとわが恋ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く
[作者]額田王

訳:あなたの訪れを心待ちにしている、と、私の家の簾(すだれ)を動かすものは…?なーんだ秋風でしたか。あなたかと思ったのに。

  ここでいうあなたとは天智天皇のことです。次の歌が続きます。


風乎太尓 恋流波乏之 風小谷 将来登時待者 何香将嘆


風をだに恋ふるは羨し(ともし)風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
[作者]鏡王女

訳:秋風さえに恋い慕うとは羨ましいものですね。風にさえ天智天皇がいらっしゃるのかと待つのでしたら、何を嘆くことがあるのでしょう、何も嘆くことはありませんね。



鏡王女は、『万葉集』では「鏡王女」、『日本書紀』では「鏡姫王」と、記されているそうです。藤原不比等の生母とする説が有力――だそうです。

鏡王女は額田王の姉という説をわたしはつかいます。

昔は、女のところに男が通ってくる通い婚でしたから、上のような歌になるわけです。


しかし天智天皇もそう鏡王女につらくあたっていたわけではありません。


以下のような相聞歌もあります。


妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾


妹(いも)が家も継ぎて見ましを大和(やまと)なる
      大島の嶺(ね)に家もあらなくに
[作者]中大兄皇子

訳:恋しいあなたの家をいつも見ていられるといいのに。大和の大島の嶺にわたしの家もあるといいのに。

  ここでいうあなたとは鏡王女です。次の歌が続きます。

秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者


秋山の樹(こ)の下隠り逝く水のわれこそまさめ御思いよりは
[作者]鏡王女

訳:秋山の木陰を流れて行く水のように静かに、わたくしのほうこそあなたのことをより深く思っていますわ。


素朴で優しい歌ですね・・・。

でも、中大兄皇子はのちに鏡王女を、家来である中臣鎌足の正妻にとやってしまいます。
なにがあったんでしょうね。


以上、中大兄皇子の“やばさ”についての説明でした!
みなさんはどのひとが好きですか?

③額田王

2013-01-26 08:19:00 | 万葉集
③弟の大海人皇子が自分の妻にしていた額田王(ぬかたのおおきみ)を、とりあげて自分の妻にした

額田王は最初、大海人皇子(のちの天武天皇)の目にとまった美少女で、2人のあいだには十市皇女(とおちのひめみこ)まで生まれたにもかかわらず、大海人皇子の兄である中大兄皇子(のちの天智天皇)はいつのまにか額田王を自分の妃(きさき)の一人にしてしまいました。


茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖ふる
[作者]額田王

訳:あかね色に輝く、紫草のはえている御料地に、行くところ、ああ、あなた、そんなに袖をふらないでくださいまし、野の番人に見られてしまうではありませんか。

「袖ふる」とは、この時代、恋愛の意志表示でした。つまり、好きだよー、ってことです。
ここでいう「君」・“あなた”とは、大海人皇子のことをさします。
標野というのは宮廷の御料地のことです。
紫草、という根から紫色の染料をとる薬草の群生地に行くところなのでしょう。


   これは相聞歌で、次の歌が続きます。


紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

紫草(むらさき)のにほえる妹(いも)を憎くあらば
         人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
[作者]大海人皇子

訳:紫草のように美しくはなやかな愛しい人よ、あなたがいくら人妻であるからといって、どうしてわたしが恋せずにいられるだろうか。



額田王は、宮中で神に仕える役目の采女(うねめ)でしたから、別格の自由な妃でした。

有名な長歌を一つ、挙げておきます。

  味酒(うまさけ)三輪の山
  あをによし   奈良の山の
  山の際(ま)の い隠るまで
  道の隈(くま) い積もるまでに
  つばらにも   見つつ行かむを
  しばしばも   見放けむ山を
  こころなく   雲の  隠さふべしや
【反歌】
  三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや

[作者]額田王

(原文・・・
 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也
 【反歌】三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉)



学校で習ったんですけどね。
長歌とは五七五七……五七七となっている歌です。短歌が五七五七七ですからね。一番短い長歌は五七五七五七七となります。
ただ、この長歌は古い形をとっていて末尾部分が五三七となっています。
さて、長歌にはふつう終わりに「反歌」といって長歌をまとめあげる短歌がついています。

「味酒」と「あをによし」はそれぞれ枕詞です。
三連目と四連目、それに五連目と六連目はそれぞれ対句となっています。
また、この【反歌】は二四切れとなっています。

反歌を訳すと、
訳:三輪山をそんなふうに隠すのか。せめて雲だけでも思い遣りがあって欲しい。隠してよいものか。いやいけない。


なんか、三輪山とか大和三山とかについていろいろ語りたいんだけど、ヘタリアのアニメの感想を書きたいので、それは省略~。






②間人皇后(中皇女)

2013-01-23 08:00:30 | 万葉集
②同母の妹とできていた

読み方は、間人皇后(はしひとのおおきさき)・中皇女(なかつすめらみこと)です。

彼女は舒明天皇と斉明天皇(皇極天皇)の子であり、斉明天皇の弟である孝徳天皇の皇后にたちました。つまり彼女からしてみれば叔父さんと結婚しました。
でも、彼女は少女の頃から、兄・中大兄皇子との宿命的な恋愛に悩まされていました。
40歳を超えるまで中大兄皇子が皇太子でいたのも、それが一つの原因とされています。


難波宮から大和に遷都するかどうかで夫・孝徳天皇と兄・中大兄皇子が対立したとき、彼女は夫を見捨てて、兄と母とともに大和へ帰ってしまいました!

次の歌は、そのときに孝徳天皇が詠んだ歌です。
万葉集ではなく、「日本書紀」に載っているそうですが。


かなきつけわが飼ふ駒は引出せずわが飼ふ駒は人見つらむか
[作者]孝徳天皇

訳:(かなきとは、馬が逃げないように首にはめておく木のこと)
  私が厩(うまや)から引き出しもしないで大事に飼っておいた馬を、
  どうして他人が見たのであろう。

つまり、古文の「見る」には「男女の関係をもつ」という意味もあるので、

 私の愛しい皇后を、中大兄皇子が身も心も全部取っていってしまった、
 なんでだよーこのくそ!

っていうことです。
このあと難波宮で孝徳天皇は崩御し、斉明天皇に(実質的には中大兄皇子に)と政権はうつります。



ちなみに、①で説明しておいた有馬皇子が紀州へ護送されるときに、間人皇后はこの義理の息子に付き添っていった、という説があります。
そのとき詠んだ歌であろう歌を一首。


吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾

わが欲りし野島は見せつ底深き阿胡根(あごね)の浦の珠ぞ拾はぬ
[作者]中皇女

訳:私が見たいと思っていた野島は見ることができました。しかし美しい阿古根の浦の真珠はまだ拾っておりません。


その真珠とは有馬皇子の命――と考えられます。
中皇女とたいして歳も違わなかったであろう有馬皇子を想う、優しさとさびしさが溢れている歌ですね。





①有馬皇子

2013-01-22 18:49:10 | 万葉集
①有馬皇子をおとしいれた

※②~⑤は明日以降になっちゃうかもです。


では、①、さっそくいきます。

まずはこの歌から。


 磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武


 磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び
       真幸くあらばまた還り見む

[作者]有馬皇子

訳:磐代の浜の松をくるりと結び、幸いにも帰ってこられるならば、またそれを見ることもできよう

その訳のあとに、ああまだ死にたくはなかった、という悲壮さが窺えると思います。

というのは・・・
以下、遷都の歴史と同時進行に書いていこうと思います。

36代目孝徳天皇は、飛鳥板蓋宮から難波宮に遷都しました。そしてまた、37代目斉明天皇(このお方は35代目で皇極天皇という名で天皇でした)が飛鳥板蓋宮に再び遷都しました。そして飛鳥川原宮、飛鳥岡本宮と次々と遷都します。

ところで、34代目舒明天皇の妻であり、自らが皇族の血をひいていることから、斉明(皇極)天皇は女帝ながらにして天皇の地位を継承したのです。
しかし、斉明天皇に即位したときに、これでは36代目の孝徳天皇の息子である有馬皇子の地位はあやふやなものとなります。

皇太子の地位は舒明天皇と斉明天皇の子である中大兄皇子に継がれました。

なぜ皇極天皇が斉明天皇として復活したか――それは、中大兄皇子が裏で糸をひいていたのです、自分がのち天皇になるために。中大兄皇子としては皇太子として自由に政治を執り行い、来るべきときがきたら天皇になるつもりであることは、有馬皇子にも分かりました。
しかし、当然有馬皇子をおす勢力もあります。
有馬皇子は身の危険を感じて、気狂いのふりをしていたと言われています。

しかし、あるとき中大兄皇子その他もろもろが紀州に湯治にと出払っている最中、まだ十九歳の有馬皇子は蘇我赤兄(そがのあかえ)にそそのかされてついに謀反をおこしてしまいました。
中大兄皇子と蘇我赤兄の思うつぼです。
早速、紀州の湯に送られて処刑されてしまいました。
上の歌は紀州へ護送される最中詠んだ歌です。

「天と赤兄と知る、吾は全ら(もはら)知らず」
と中大兄皇子が糾問したときに答えたというのは有名です。

19歳という若さで散っていきました。


・・・という悲劇の皇子です。



 家有者 笥爾盛飯乎 草枕 旅爾之有者 椎之葉爾盛

 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕
         旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る
[作者]有馬皇子

訳:宮にいれば立派な器に入れて神にささげものをするのだが、旅の道中であるので椎の葉に盛ります、お許しください。



私、ハムレット好きなんですけど、有馬皇子ってハムレットに似ていると思いませんか?

復讐じゃないですけど、気狂いのふり&19歳という年齢で散っていったというのが、
中三のときに研究したシェイクスピアについて、
私なりにハムレットは19歳じゃないかって仮説たてたんですよ。

これ、すんごい込み入った内容なので詳しくは私の中三論文参照(学校にあるかな?ないかな?)で。
簡潔にいうと、

現在シェイクスピアの正式な原稿は一つも残っていない。では『ハムレット』だ『十二夜』だといっているものは一体全体なんなのかというと、彼の時代エリザベス朝に、出版されたテキストがシェイクスピアの「作品」ということになる。これは当たり前、でもそのテキストが複数あり、ところどころ微妙に英語の綴りが違っていたりするとどちらが正しいのかで問題となるのだ。

『ハムレット』のもととなるテキストは3つある。
なんと、有力な2つのテキストではハムレットの年齢は30歳ということになっているのだ!でも、ハムレット7歳のときヨリックが死んだことのみテキスト3つが同じならば、海賊版では今のハムレットの歳は12+7=19歳ということにもなりそうだ。

~て予想を私なりにしてみたんですがね。

だって、もし30歳だとしたら、「彼の母がクローディアスの抱いたような情欲の対象となることなど、ほとんどあり得なかったろう」(フランク・マーシャル『「ハムレット」研究』1875年から引用)。
でも、読むものではなく観る劇として『ハムレット』をみれば、「当代の名優リチャード・バーベッジ(1571-1619)がグローブ座でハムレットを初演したとき、彼がほぼ30歳だったのは確実である」(訳者:野島秀勝『ハムレット』岩波文庫(2002)解説346頁から引用)。つまり、年齢など観客にとってはどうでもいい要素なのだ。


ま、ここらへんで終了ー!
明日の俺もかっこいいぜ☆




中大兄皇子こと天智天皇について

2013-01-22 13:33:50 | 万葉集
天智天皇は天皇に即位する前までは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と名乗っていました。
・・・常識ですね。


で、それで、なかなか即位しなかったんです。
なぜ、なかなか即位しなかったかというと、

1.皇太子の身分でいるほうが自由に振舞いやすい
2.自分と同母の妹とみちならぬ相思相愛関係をもっていた

からです。

この万葉の時代、異母兄弟姉妹であれば結婚は許されたものの、さすがに同母の兄弟姉妹の間柄では結婚はNGでした。

中大兄皇子いろいろとやばいですね。
以下、どのようにやばかったのか説明しておきますが、
簡潔にまとめると、


①有馬皇子(ありまのみこ)をおとしいれた
②同母の妹とできていた
③弟の大海人皇子が自分の妻にしていた額田王(ぬかたのおおきみ)を、とりあげて自分の妻にした
④額田王の姉である鏡王女(かがみのおおきみ)をも妻にしていたにもかかわらず、あとでもらいうけた額田王のほうを愛した
⑤あとで鏡王女は、家来である中臣鎌足(なかとみのかまたり)の正妻としてあげちゃった



中大兄皇子と、その妹の中皇女(なかつすめらみこと)の母は、斉明天皇(=皇極天皇)です。

分かりやすくするために、系図をしるしとくと、
(天皇という字の次の数字は第何代目の天皇かをしめします)
(水色の字は女性であることをしめします)


    ――――――――
   Ⅰ        Ⅰ
   Ⅰ       皇極天皇35=======舒明天皇34
   Ⅰ      (斉明天皇37)  Ⅰ 
   Ⅰ           ―――――――――――
   Ⅰ          Ⅰ    Ⅰ      Ⅰ
  孝徳天皇36==間人皇后  Ⅰ     天智天皇38
   Ⅰ        (中皇女) Ⅰ    (中大兄皇子)
   Ⅰ               Ⅰ      Ⅰ
   Ⅰ               Ⅰ     ―――――――
  有馬皇子             Ⅰ    Ⅰ       Ⅰ
                天武天皇40===持統天皇41 弘文天皇39
               (大海人皇子)Ⅰ         (大友皇子)
                     草壁皇子


んと、系図にちゃんとみえますかね。

ではまず、①の、悲劇の皇子、有馬皇子のお話からいきたいところなんですが…、いまはちょっとお出かけするので、あとでうpします!
あとでもみてくださいね!


今はちょっと簡単に…
    ひとつ万葉集の歌の紹介を。


渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曽


海神(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日さし
         今夜(こよい)の月夜清けくありこそ

[作者]中大兄皇子

訳:海原の大きく旗がなびくような雲に西日が射している、今夜の月はさやかであってほしいね。

 新羅に侵攻された百済を救援するときの船旅の途中、
 詠まれた歌とされています。
 このときは斉明天皇の時代です。
 額田王もこの船旅に同行したといわれています。


ではまたあとで!



万葉集のこと

2012-12-29 17:07:00 | 万葉集
万葉集っていいよね。
心がほっこりします。

―万葉集の基礎知識―

万葉がなという、漢字の音訓を組み合わせた言葉を用いていますから、原文は漢字です。

万葉集の歌は大きく分けて三つに分かれます。一つは相聞歌、これは一般に男女が恋の歌のやりとりをした対になっているものです。二つ目は雑歌、これは主に季節をめでる歌や旅先で詠んだ歌です。最後に、挽歌、これは哀悼を表す歌です。


月讀之 光二来益 足疾乃 山寸隔而 不遠國

月読の光に来ませあしひきの山きへなりて遠からなくに

[作者]湯原王(ゆはらのおほきみ)    などなど……

湯原王は天智天皇の子の志貴皇子の子(つまり天智天皇の孫)です。

訳:月の光が照らすなかわたしのもとに来てくださいな、山を隔てているほど遠くはないのですから



湯原王は男ですが、高位の男を待つ女の立場を装って詠んでいる歌です。
高位のというのは、「来ませ」の部分で分かりますね。

これも相聞歌の一つです。





月読とはつくよみ、もしくは、つきよみと読みます。

もともと月読は日本神話では三貴子の一人です。
三貴子とは、黄泉の国から帰ってきたイザナギが禊(ミソギ)をした際、生まれた三人の神々のことです。イザナギの片目から生まれたのが太陽を司る天照大御神(アマテラスオオミカミ)であり、イザナギのもう片方の目から生まれたのが夜を司る月読命(ツクヨミノミコト)、イザナギの鼻から生まれたのが海を司る須佐之男命(スサノオノミコト)でした。三貴子は三柱の貴子とも呼ばれます。

太陽と月の神をこのように双子らしく考える考え方は他の神話でもうかがえます。
ギリシャ神話では太陽の神アポロンと月の女神アルテミスは双子(とされています。

と、難しくはそうなっていたのですが、この歌の場合「月読」は単に月として捉えてよいでしょう。