森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

良い運、悪い運

2022-08-28 12:06:42 | 森の施設

 

      よい運、悪い運

 

  長い人生には、良い偶然、悪い偶然に遭遇します。努力だけでは、良い偶然に出会う

確率はそう高くないと思っています。良い偶然を良い運、悪い偶然を悪い運と言い換える

こともできます。それでは、どういう思考をすれば良い運に恵まれるのでしようか。それ

は思考の問題ではなく、仕方のないことなのでしようか。

 私はこれまでの78年間の日々の生活、仕事において数知れない、良い運に恵まれて今日

を迎えられています。そこで私なりの良い運の掴み方について述べたいと思います。

 

1、先ずは、今自分が生きていることは、大変良い運の積み重ねの賜物です。どんな方でも

親しい人を無くしたり、自分より若い人が亡くなっていることを新聞とかテレビ等の報道で

目にしたり耳にしたりされています。ただ他人事と思って遠くの縁の方ならばねさほど気に

もとめないかも知れません。でも、自分は今確かに生きているのです。それは大変運のよい

証しです。だから、戦争や災害、疾病などで、若くして多くの人が亡くなっているのに自分

は今生きていることを良い運の巡り会わせであり、自分は運の良い人間なんだと思うべきです。

 

2、自分という人格を持った自分が生まれたこと、これは奇跡と言っていいほどの良い運の蓄

積があったればこそです。何百年、何千年、人類は発生して満万年もの間において、自分の

ご先祖となってくれた多くの人達が、戦争や災害や疾病を乗り越えて生を繋いでくれたお蔭

であること間違いのない事実です。自分という人格が生まれる確率は極めて低いのです。そ

れにも関わらず生まれてきたということは、良い運の何ものでもありません。多くの人々は

この理屈は理解できていても、心の芯から魂からそう思っておられる人はそう多くはないで

しょう。

 私は生まれたのも奇跡、今生きているのも奇跡なんですね。つまり生きているすべての人は

良い運を兼ね備えておられる人達なのです。

 

3、もし、悪い事態が発生した時には、どのような考えかたがひつようでしようか。これは私が

5年前に経験した事実をお話ししましょう。

 ある日曜日に冬の大雪で一部壊れた山小屋の修理をしていた時のことす。大方の修理も終わり

かけ最後の板を取り付けるために、梯子を建てて2mの高さまで登りドライバ-でとりつけようと

した時に梯子ぐっ!らと傾いてねこれは倒れるとおもった瞬間に気を失ってしまいました。

 気がついた時は、倒れた梯子の横にぽか-んと立っていました。その時に友だちといたのですが、

何かどっさという音がしたので来てみたら、何をぼさっと立っているのかと言われました。ああ、

私は梯子がたおれて梯子とともに地面に倒れたのだと、思い自分の躰をみつめましたが、どこも

血なども出ていなく、特に強く痛むところも無いようでした。

 それから自宅に帰り夜になって風呂に入って躰を点検したところ横腹に手の平よりも大きな内

出血がありました。しかし、痛みはなく、骨のどこも打っていないようでした。これなどもし、

あの時、梯子が倒れた時に意識があったならば、落ちてゆく恐怖と手をついたり、頭か方を強打

したに違いなかろう。と思った時、なんて自分は運がいいのだろうとつくづく思いました。これ

までも、仕事や人との出逢いで奇跡的に良い運に恵まれたことは数え切れないほどあります。

 私はつくづく良い運に生まれてきたのだとそのたびごとに強く感じています。

 

 理屈で解っていても、ちっと悪い事態になると、運の悪さを感じるものですが、その時には、

もっと最悪の場合と比較してみれば、このくらいで済んだのは運が良かったのだと思えるものでは

ないでしようか。

 間違いなく、この世に生まれ、現在生きている人達はすべて運のいい人だなのですから。

     あなたもね。

 

 

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時代小説から学ぶ

2022-08-24 09:38:06 | 森の施設

 

           時代小説から学ぶ

 

 高齢者になるにつれ、読物は時代物が多くなってきた。藤沢周平、池波正太郎、山本

周五郎などである。その山本周五郎がある講演で語ったと言われる言葉はある。

「慶長五年の何月何日に、大阪城で、どういうことがあったか、ということではなくて、

そのときに、道修町(どしようまち)の、ある商家の丁稚(でっち)が、どいう哀しい思いを

したか、であって、その悲しみ思いの中から、彼がどいうことを、しようとしたかとい

うことを探究するのが時代文学の仕事だ」

 江戸時代は基本的に身分社会である。士農工商とわかれていただけでなく、侍のなか

にもあるいは商人のなかにも議びしい上下の身分の別がある。

 その厳しさが哀しい思いを強いてゆく。そしておそらくはこの悲しみは、一見、自由

で平等に見える現代のわれわれにも深いところで通じるものがある。

 時代小説を読みながらいつも思うことは、もし自分がその時代(江戸時代)に生きていて

商人とかあるいは丁稚とかいわゆる町人であったなら、どのような思いで生活しているだ

ろうかと。この経済、文化が発達し、80年近く続く平和な現代と比較して有難いと思う

半面、自由でありながら、何か事を起すと世の中の規則に何重にも縛り付けられているよ

うに感じるのは私だけだろうかと思うのです。

 江戸時代の市井(しせい)の人々、とりわけ社会の隅のほうにいる人々の悲しみを描いた

ものをよく好んで読んでいます。最近以前とは少し違った読み方になっているようだとき

ずいています。それは、市井で暮らす彼らや彼女にもその身分の範囲で実にのびのびと暮

らしている人達も多くいることを行間の中に感じることが多くなっています。

 情が深くお互いに助け合って生活している姿から学ぶ点が多いと。

 

 

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40にして迷う

2022-08-18 10:59:43 | 森の施設

 

    40にして迷う

 論語に40にして迷わず、50にして天命を知り、60にして耳従う、70にして個々の欲する

ところに従いて矩を越えず。とあります。これをどう解釈して自らの生き方に生かすか。

 私は、40歳ぐらいになると、このままの人生でいいのかと迷う。50歳になると自分の

役割・天命というものが掴めたのかどうかを思い悩む。60歳になると自分の意見を聞いて

欲しいが、他人の意見を聞きたがらない。70歳を過ぎれば先の短いのを意識するあまり

他人に迷惑をかけてしまう。そういうものなんだという戒めの言葉であると思う。

 

 

 

 

  

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8月15日 墓参り

2022-08-14 14:31:32 | 森の施設

 

      墓参り

 私は墓参りが出来ない。いやあまり好きではない。墓参りは好きですることではなく、

ご先祖をお詣りし自らを戒めるためだと解っているのだけれど。

 48年前に故郷を捨てて遠く北海道に移住してきました。だから両親のお墓は遠くて

ここ20年間近くも参っていない。親不孝者と非難されるだろう。

 お墓は誰の為のものなのか、故人のためと想う人は亡くなってからも何らかな故人に

意志があると思っているのだろうか。いや、そうは思っていないと思う。人類の歴史と

生活の風習で理屈ぬきに墓参りをしているのだろう。子供たちにお爺さんやお婆さんの

ことを知らし締めるために墓参りをするのだろう。そして墓参りをすることにより自ら

の精神を浄化しようということもあるだろう。

 私は墓参りはしないけれども、心の中ではご先祖の多くの方々に感謝しています。私

まで命を繋いで頂いたことをです。もしご先祖の誰かが、不慮の事故や死に至る出来事

に若くして遭遇していたならば、私は生まれることが出来なかったのですから、これは

奇跡的に自分に生を与えて頂いた強運に感謝しています。

 

 

 

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一本の桜の木

2022-08-13 12:20:22 | 森の施設

 

    一本の桜の木

 描かれているのは一本の桜の木だが、遠くから観ると湯上りの若い女性が佇んでいる

よにも見える。色香が漂う不思議な名画で、素人でも、何回観ても飽くことがない。

 この絵を観ながら思う。

 運のいい時というのは、満開の桜のようなものだ。美しく華やかで、一目わひく。

 一方、不運に見舞われ、不遇わかこっている時は、桜の木が土の中に根付こうとしてい

る時期である。

 人は満開の花に目を奪われ、色や枝ぶりわ誉めそやしているが、根っこを張っているだ

けの木には目もくれない。あるいはね「この桜はダメだね」などと言っている。眼に見え

ない土の中のことは無視され、花をつけていなければ敗者として処理されていくが、今の

世の中である。

 だが、しっかりと根を張った桜は、やがて芽を出し、驚くほど豊かな花を咲かせる。

 不運とは、幸福の根源にほかならないのである。

                     米長邦勇著 「不運のすすめ」より抜粋

 

  写真は時期を逸した桜であるが、8月の桜の木は葉桜を謳歌している。

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