森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

わたくしというもの・・・宮沢賢治の詩

2017-01-12 09:44:00 | 老いの森
     わたくしというもの


      宮座堅持の詩集より

       ・・・・・・
     そしてわたくしはまもなく死ぬだろう
     けれどもわたくしというのはいったい何だ
     何べん考え直し読みあさり
     そうともききこもう教えられても
     結局まだはっきりしていない
     わたくしというのは・・・・

    死の直前宮沢賢治はこう歌っている。一生を宗教的精進と農民のために実践に生き抜いた
   彼にしてなお、「わたくしはというのはいったい何だ」と生涯の終りに言っていることに考
   えさせられる。凡人の私達を考えこませるに足るものだ。


  
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老年期の自覚と自己諷刺の役割

2016-12-20 13:09:49 | 老いの森
  老年期の自覚とその意味
 

  「老年期の危機を克服するのにはまず大切なのは自分が年を取ってきたことをいさぎよく認めることである」と言われます。
  しかたなしに認めるとか、強がりを云ってそれを認めないとかという人が多いのではないか。特に70歳前後になっても
  現役を続けられている方に多く居られるようだ。自分自身がそうだから。

   老年期に自分は突入したという自覚が無いところからは、老年期の意味も考えられません。今までと違った新しい人生を肯定的に
  受け止めて与えられた体力と環境に力強く再出発することが問われています。自分はまだ元気だからと過信してこれまでの生活
  環境のまま過ごすところに大きな危険が待ち構えています。このことは私が71歳の時の体験です。その体験が貴重なものとなり、
  元気な体に復帰することが出来たから良かったのですが、それで命を落としてしまう方も少なくないようです。タイミングと運の
  現れ方にかかってくるように思います。

  老年期を自覚すると、自らの生活態度も見直すこともあり、また老年期の他の方のことも理解できるようになって来ました。
  「老年期は稔の年齢とか人格完成の最終段階に至るこの門を勇敢にくぐり抜ける決心をすべき」と言われています。

  年齢には三通りがあるという「生活年齢」「生理年齢」「心理年齢」でありますが、老人は生活年齢だけに捉われて年寄りぽく
  なることが老年期を自覚することではない。生理的に課題が現れた時には、心理年齢を強く意識して強い心を培う絶好の機会と言えましよう。

 自己諷刺の役割

  日常生活の中で、私達は様々な仮面を身に着け、素顔を覆いかくそうとしている。他人の前で素顔を曝け出すことへの不安や、ありのままの
 姿以上によく見られたいという欲望が、知らず知らずのうちに幾つもの仮面を被らせ、本来の自分を見わせてしまう。ことに年を取るにつれて、
 面目を失うまいとする気持ちはますます強くなる場合が多い。このことについてある識者は次のように言われる。

 「ユ-モアの大切な一つの役割はこうした仮面を剥ぎ取って自分の真相を明らかにすることである。ユ-モラスな出来事は、時としてわれわれが
 無意識のうちに予期しない状況の中で起こり、後生大事に守ってきた仮面を容赦なく剥ぎ取ってしまう。そうすると、身勝手な願望によって描いて
 いた完璧な姿ではなく、かえって人間味のある、ありのままの姿になり、そのほうが本当はずっと魅力的である。
  こうして仮面を外されてはじめて、人間は新しい自己認識が可能になる。仮面をつけたまま暮すことに慣れてしまうと、いつのまにか仮面と
 本来の自分との区別が曖昧になってしまう。そういう自己欺瞞を打ち破ってこそより深い自己洞察が可能になる。
  特にすすめたいのは、自分を外から眺め、自分の欠点や失敗について笑う、自己諷刺能力を身につけることである。自己諷刺は、コンプレックスに
 おちいらないためにも、また人間同士の関係を円滑に保っていくためにも極めて大切である。」

  自己諷刺とはつまり自分を外から眺めてみることであると説いています。これがなかなか難しいことであります。私は、このことを「愛嬌」という
 ことに置き換えて表現するように考えかつ一様の努力をしています。難しいことではありますが、老人と言われる年齢になって、これも一つの目標  
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老年期を考える(2)

2016-11-29 11:00:50 | 老いの森

老年期を考える(2)

 連れ合いの重い病と自らの病そして家族の苦悩について

  自らが重いそれも生死を左右する病やその手術を強いられる時は、身体以上に精神的な苦悩が伴います。
 医学会によれば、がん患者などの大病を告知された方の3割り程度の方が「うつ」的になるそうです。そして
 このうつ的というのが、病気ではないため厄介なことで薬では如何ともしがたい症状ということのようです。
 自らの病もさることながら、連れ合いが生死に関わる重い病になった時の苦しみも自分の連れ合いがその状態
になって見なければわからない苦しみを味わいます。
 私は、一度に両方をほとんど同時に招き、現在夫婦ともそれぞれの病と連れ会いの病に格闘中です。家内は認知症
でそれも認知症患者の5パ-セントと少ない症状です。認知症の中でも特異な症状に家族が翻弄されています。

一番の問題は、本人が認知症の自覚がなく、無理やり病院に連れて行き入院までさせて、検査の結果判明しました。
家内はこのことを顔を合すごとに強く恨み言を重ねます。本人にしてみれば、どこも悪くないのに亭主が自分を病院に
閉じ込めた、それも精神病院に厳しく批判します。その上に、担当医の強い勧めで、家庭裁判所に成人後見制度の補佐
相当に申請しなさいとの助言を受けて1年前に申請し、約1年経って補佐として弁護士が決まりました。
 このことについても家内は激怒します。「死んでやる」「訴えてやる」と。このことは、家内の身になって考えると
当然の態度ではないかと思うだけに、家族の苦しみも重なってきます。

 しかし、人間すべての人が、いつしか病になり死を迎えることは避けられないことであり、それに至るまでに人それぞれの
状態がどのようなものであるかは、予測することは出来ません。私達のようにある日突然襲ってくる場合あれば、何年の闘病病
生活の延長線上で家族ともども苦悩と困難を迎える場合もありましよう。いずれにしてこの招かざる客に対して追い返すことは
できないのであるから、覚悟と割り切りに努めなければ、廻りを巻き込んで共倒れしかねません。言うは易くですが、精神の
在り方についてはなるべく、事前に学ぶ必要を強く感じます。事前では怠っていたとしても、生ある限りあるべき精神を学んで
行くこと事態が老年期の大きな要素と言えるでしよう。
 この精神の充実を求めて行くことが、老年期の収穫の一つとして受け入れたいものだと心に記しています。

 私自身は、狭心症という診断で、治療として二つの方法を医師から提示されました。一つはカテ-テルという金属パイプを動脈に
繋いで補修するやり方です。これだと2日か3日で退院できるようです。もう一つの患者の足と胸を開いて使っていない静脈を切り取って
劣化している動力や静脈を避けて直接心臓にバイパス手術をする方法です。この方法は何本必要化によって決められます。私の場合は4本でした。
詳しい内容を聞く数に私は、バイパス手術に決めて、8時間の輸血なしで実施されました。その後の経過は大変良好で、最低10年間は大丈夫だとの医師の
言葉がありました。71歳から10年間ですから、それで十分だと思っています。それまでに別の所が悪くなってくるだろう。それと、平均値というのは、
極めて当てになりません、10年以内の人もいるだろうし20年以上も元気な方もおられるようなので、それはその人に与えられた寿命から決まるものであるから、
自らの生命の限界を医師の言葉も平均値も信用しておりません。生きられるだけ生きるだけだと考えるようと努めています。

 心臓の手術というと極めて、大変なように思われるかも知れませんが、現在の医学と医師の手術能力は大変向上しており、まずは
過剰な心配をされないことだと思います。必ず手術は成功してその部分は元気を復活させてくれるものと願い、お祈りしています。
連れ合いの方は、決して看護疲れと心配で体調を崩されないようにどうぞお気をつけて下さい。 

  
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都会の孤独

2016-10-18 09:01:29 | 老いの森
 人が多く集まっている環境と、森でたった独りの環境でどちらが孤独感を味わうのだろうか。
毎週のように森に行って草刈りや、ちょっとした設備を作っています。しかし一人でも少しも孤独感
はありません。何度も同じ所に行っていると、小鳥や虫の声に聴き耳を立てることもあります。
 
 その反面、いろいろな会合や都会にある、店舗や施設というような多くの人々がおられる場所に行っても、
あまり落ち着きません。かえって孤独感さえ覚えることが少なくありません。人が沢山いるのにも関わらず
親しく話し合える人がそこにおらないという寂しさは孤独感の何物でもないでしよう。

 考えて見れば人が多く集まっているところは、それぞれが初めての出会いの場合が多いからでしよう。
マンションに何十年と住んでいても、なかなか親しく話をできる人をつくることは難しいです。
ここに現代の大きな問題点があるように強く感じています。その解決策の一つとして、地域の町内会や
老人会への参加があると思い。なるべく積極的に参加するようにしています。

 現代は通信技術の急速な発展をしていろいろな端末機の利用がなされています。このことも生身の人間を
避けて画面だけでやり取りをすることに慣れてしっているのでしようか。これは孤独を怖がり常にだれかと
繋がっていたいという願望からくる、手っ取り早い手段になっているようです。人によってそれらの操作に
依存してしまっている人も少なくないようです。

 一見すると森の中で一人で作業している姿は孤独感が漂う何物でもないように思われますが、ただ無心で
作業をしているわけではなく、いろいろと日常の出来事や家族のことを考えています。そのような時間は極めて
大切な一時だと思います。つまり、静かな環境で自分を見つめる時間というものは必要な精神的栄養素となって
いるように思うのです。
 
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連れ合いの病

2016-10-13 08:25:22 | 老いの森
長年に渡り中睦ましい夫婦でもいつしかどちらかが病に襲われます。夫が先か妻が先かはわかりません。
一般的には女性の方が長生きで夫よりも年が数年若いケ-スが多いでしよう。だから老いるのは夫の方が
先になってしまう家庭が多いのでしよう。
 私の場合は家内が68歳で認知症と診断されました。私は71歳で昨年バイパス手術をしたものの、その後は
普段の体力と活動が可能です。悩ましい課題がありますが、70歳を過ぎれば、早いか遅いかの多少の差はありますが、
必ず招かざるを得ない状況だと思います。
 自分が先に病になった方が良かったのか、妻の方が先の方が好かったのか、たった一度の人生において二通りの経験は
できません。家内を見守るのも辛い、特に認知症は本人にその自覚がなく、自分は健全だと主張することが、家族にとって
不憫とともに厄介な課題です。それならば、自分が先に認知症になった方が楽かと言えば、決してそうだとも思えません。
いずれにしても、人間として生を授かった限りは必ず通らなければ道筋です。
 そうと理解できれば覚悟を決めて全てを受け入れて、極端に嘆いたり、悲しんだりすることに対して、少しでもそれらを和らげる
気持ちを持つ努力というか考え方をすることが大切な心構えではないかと思っています。
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