
清き心の未知なるものの為に㉗・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より
一本の線、一抹の影、一点の色-----それらの火と燃える表現力。
花、山、岸辺、人体の語る言語、ある一瞬のまなざしのなかの光と影との和合、うなじの
うずくような美しさ、アルプスの牧場で朝日を浴びて咲く白いクロッカスの聖杯のような花
冠-----感応が語る、官能を超絶した言語によることば。
(自我)愛には、食道楽的な側面がある。われわれの国語には、この好みの味覚をあらわすに
ふさわしい適切な抑揚が欠けている。こう言うほかない。おまえの自我愛は、保護してやら
ねば咲くことがない。その法則は単純である。------何人にもけっして愛着を覚えるな、また、
なんびとにもけっしておまえに近づかせるな。ということである。単純-----かつ宿命的である。
自我が自我を楽しめるように保護してやろうとする努力は、自我のまわりに氷のように冷たい
環を作りあげ、そしてその環が徐々に核心にむかって蚕食してゆくのである。
なんたる茶番劇。あなたの茶番劇ですぞ、おお、人間どもの主人方よ!猟犬どもの主人は
といえば、自分が畜生どもの王国の一日だけの王様でしかないのを知っている。また彼は、
狐を追い詰めるのに自分のよりもよいやり方があるのを知っている。ところが、それに引き
換え-----
どのように社会的階層のなかで陰謀が始ろうと、闘いが交わされようと、さらに、そのほ
かのもろもろの外面的な事情にもかかわりなく、(最優秀の頭脳)といわれるような者でさえ、
自分自身の社会的地位をめぐって争う段になると、かならずある種の幼稚さをさらけだすも
のである。そういう場合の術策は数がじつに限られている! そして、そのような目標を追
い求める者は、雌鳥を追いまわしている雄の大雷鳥のように声で盲目になってしまうもので
ある。------とりわけ、自分がもっとも目先が利くと思いこんでいるばあいにそうなる。せ
めて、こう言って神の恵みを願うとしよう。-----利己心は免れがたいものでありますが、
けっしてこれがユ-モアの感覚にみちた自己省察までも麻酔させることがありませんよう
に、と。なぜならば、そのような反省だけが大事にいたらぬようにしてくれるからである。
相手にとって大切なことしか語らぬ。自分が知る必要のあることしか尋ねぬ。以上のいず
れのばあいにおいても、話合うことの範囲は、話し相手がほんとうに話すことのできること
がらに留めておく。結論に達するためにのみ論じあう。話題がなんらかの意味をもつ相手ど
うしでのみ(声に出して考える)たがいに完全に心の通い合うふたりのあいだで、あからさま
には語らぬ言外の意を無駄話で伝えるばあいを別として、おしゃべりを時間と沈黙とのなか
にはびこらせぬ。(空しき言葉を口にするたびに・・・)という格言の真実性を経験した者に
とっては、以上のことはためになる養生訓である。しかし、社交生活ではあまりありがたが
られない。