清き心の未知なるものの為に㊹・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より
可能性の道に賭けること。なぜか、彼が他人のために自己を犠牲にするのは、はたして至上
の自己中心思想から彼自身のためにすることであるのか。それとも、彼は他人のために自己を
成就するのか。人性と超人性とは別個の世界のものである。「われ新しき戒めを汝らに与ふ、
なんぢら相愛すべし。」
内面の可能性------それは外面の可能性と危険な仕方で作用しあっている。可能性の道は、
エルサレム入城のさいのホザンナの叫びまで通じていた。-------ところが、これらの叫び声は、
彼がその後に選び取った以外の可能性をも可能にするはずだったのである。
われわれの不安の欲望が無数にあって、しかも無数の仕方で鎮静せられうる。というのはひ
とつの真実である。しかしそれらの不安や欲望が結局においてひとつのものでしかなく、そし
て唯一の仕方によってしか克服せられえない。ということを確認するのが平凡なのと同じくら
いに平凡な真実なのである。おまえにとって究極において必要なのは、おまえが必要な人間だ
と感ずる------すくなくとも、そう感ずるように思う-------ということなのである。
孤独がわれわれに課せられたものであろうと、われわれのほうから探しもとめたものであろ
うと、それがわれわれの前に開いてみせる将来の展望はただひとつしかない。すなわち、荒野
において熱望するか、それとも可能性に賭けて、ついには個人を超越する交わりのうちに生き
る権利をかちうるにいたるか(ただし、そのためには山をも動かすほどの信仰が必要ではなかろ
うか)、そのいずれかを選択することなのである。
三月の陽光。ほっそりとした樺(かば)の木が凍てついた雪の上に細長い陰のなかで、大気の冷
えきった静寂がしんしんと結晶しつつある。そのとき------突如-----ためらいがちな音色、鶴の
呼び声。おまえの現実の外にある、もうひとつの現実、実在そのもの。突如、楽園がひらける。
-------われわれは、われとわが知識のゆえにそこから追い出されてきたのであるが。
彼は幼い娘を連れてやってきた。その子は一番上等の晴着を着ていた。その子が、自分のよそ
行きの外套をどんなに大切にしているか、おまえにもわかった。ほかの人たちも気づいた------
だが、、かれらは冷淡な様子でこんなことを思っていた。あれは前には別の幼い娘のよそ行きの
外套をどんなに大切にしているか、おまえにもわかった。ほかの人たちも気づいた----------だが、
彼らは冷淡な様子でこんなことを思っていた。あれは前には別の幼い娘のよそ行きの外套だった
のだ、あれはいつかの年にもよそ行きだったのだ、と。
午前中は、陽が照って、お祭り雰囲気が漂っていた。いまでは、もう大部分の人が帰った後
であった。風船売りは売上を勘定していた。太陽もやはり行くところまで行って、いまでは雪の
かげに隠れていた。彼が幼い娘を連れて、春の喜びを味わい、爽やかで明るく光る復活祭の日射
しにあたたまろうとやってきたときには、あたりは薄ら寒く、もうほとんどだれもいなかった。
しかし、その子は満足していた。ふたりとも満足していた。それというのも、彼らはもうある
種の謙遜を知っていたからである。おまえはまだこれからその謙虚を理解せねばならぬ。それは、
決してひき較べることをせず、いまあるものを斥けて、(別の物)や(もっと多くのもの)を求めよう
とすることのけっしてない謙虚である。
粗食、きちんとした身なり
楽しみは短く、口数は少ない。
清涼の空間のなかに
低く、星がひとつ------
暁の星がひとつ。
かくも峻厳な淡い光のなかに
事物が生き、
そして、われわれは在る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます