森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

なぜ? どうしてか?

2022-07-09 08:07:27 | 思うまま




    なぜ? どうしてか?

  雪が白いのは、なぜですか?と5歳の孫に聞かれた。雪は透明だけれども光の加減で
白くみえるのかも知れないね。と答えようと思ったけれど、そんな言い回しでは5歳の孫は
理解できないだろうと思い。つぎのように答えた。

  もし雪が赤色や黒色など色がついていたら、どうなるでしようか。光に当たたら、すぐ
溶けてしまう。この世に現れた(生まれた)すべてのものは、一時でも長くこの世にありたいと
思っている。だからね折角雪になったのだからすぐ溶けないように白い色をしているのかも
しれないね。

  どちらの言い方が5歳の子供に理解してもらったか解らないけれども、歳を重ねると何
でもわかったつもりになってしまう。けれども本当のことは解っていないことも多いのかも
しれませんね。

  たとえば、もう一つ「水」は水素と酸素の化合物であるけれども、どうして、気体の二
つが結合すると水という液体になって人間の目でもみることができるのだろうか。と疑問に
思います。何についても「なぜ?」という疑問を持つことが大切ではないかと、自分にいい
きかせている。0


新たな疑問、たしか中学か高校でエネルギ-の保存の法則ということを学んだ。つまりどん

なエネルギ-も形こそ変れど、保存されると言う解釈をしています。それを前提に考えれば、

たとえば、光はどのように変化して保存されているのだろうか。音もそうです、消えてなく

なってしまっては保存できていないことになります。それでは、光や音は宇宙に漂っている

のだろうか。こんなことを小学生のように考えることがよくあります。ほんとうにエネルギ-

は保存され続けるのだろうか、この物理学の理論は正しいのだろうかと、思うのです。

78歳になった老人の妄想ですかね。

 

 

 

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青春時代に求めていたもの----真理を得て悟りを得る

2022-07-07 08:01:08 | 思うまま




       青春時代に求めていたもの----真理を得て悟りを得る

  20歳ごろから私は、この世の中にはどのような真理があるのか、そしてそれを
得て悟りを得たいとぼんやりと頭の中に湧いてくるものがあった。人は誰もが青春の
理想を求める純粋な精神状態であったと思う。そういう意味からすれば、私も普通の
若者であったのだろう。でも、それが今日(後期高齢者)に至まで思いの強弱はあって
も、真理は何かとか、悟りとはどういう精神状態だろうかと、追い求めている自分が
いるのです。
 
  20歳代には、そういう思いから、宗教や哲学、倫理等の書物を漁って読んでい
た。といっても専門的なものではなく、随想的で読みやすいものばかりであった。悟
りなどというと、修行僧を思い描いたり、宗教に深く入っていくということに成りや
すいが、私は、求めているものと裏腹に、何教であっても信心するということはこれ
までに全く無かったのです。

  この歳になって一つの考え方に行きついたように思う。それは、悟りというもの
は自ら求め続けていくことであって、これが真理だ、これが悟りだというものはない
のかもしれないという誠にとり止めないぼや---とした思いです。

  若い時に考えたのは、悟りを啓くということは、嬉しい時は嬉しく思い、悲しい
時は悲しく思うことだと思っていた。今でもそれを肯定する。どうしても悟りなどと
いうと、一切の出来事を無の精神で受け入れ、対処することだという、無機質的なこ
とと誤解されやすいだろう。と思っていて、誰にもこのことについて話題にしたり、
教えを乞うたりはしていない。変人扱いされるのを避けたのかもしれない。

  要するに、あまり真理とか、悟りということに凝ってしまってはいけないという
思いもあった。何でもほどほどにということが言われるけれども、私のこれまでの人
生の日々は、ほどほどであったものかと思う。これから何年ほど生きられるか全くそ
の目標も医師からの通告もない今、ただ、生きられるだけ生きよう。決して動ける間
は退屈しない日々でありたいと思っている今日このごろです。 0


 この言葉いまから3年前に投稿した内容です。読み返してもほとんど変わらない

自分が此処にいます。まだ小商いを続け、防犯パトロ-ルも3年目になります。私の

孫は東京に住んでいますが、娘の結婚が遅かったので、その孫は今小学校4年生にな

ったでしようか。その孫の通学道路のパトロ-ルができないので、札幌の住いの近く

の小学校の下校時に約1時間車で廻っています。これまで大きな問題・事故にも遭遇

しておらないことを安堵しています。車を運転できる間はこれを続けようと思ってい

ます。

 

 

 

 

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71歳からの5年間----死生観について

2022-07-06 08:05:51 | 思うまま




      71歳からの5年間----死生観について

  71歳になる1カ月前に、心臓のバイパス手術で入院していたが無事に退院する
ことができました。この間に死生観が少し変わったというべきか、何かそれに対する
思いが、今までと変化したようである。
  それは、自分にとって71歳という高齢でもあり、心臓の手術に8時間の輸血な
しでの手術ということで、果たして、成功してまたこの世に戻って来られるのか、そ
れとも? という思いを抱きながら手術室に入った、その瞬間に全身麻酔が効いて意
識が無くなった。

  そして、目が醒めたのは、夕方の18時ごろで、当日の10時に手術室に入ったの
で、丁度8時間要したことになる。医者が事前に言われた通りの時間であったので、
多分順調な手術だったのだろうと安心する思いでした。

  この手術のお蔭で、一度は駄目かと半分覚悟を決めていたものが、毎日食事時の
3回に分けて、15錠ほどの薬を飲んでいますが、その後の経過も比較的順調で推移
していることで、いわば二回目の人生を与えられたとも考えられ、人間はいつかは亡
くなってしまう定めであることを自覚したというか、させられたのです。このことは、
これからの後期高齢者として、とても大事なことで、何歳まで生きたいとか、一年で
も長生きしたいとか、という気持ではなく、これからは、生きられるだけ精一杯生き
ようという思いが湧いてきております。

  そうは言うものの、基礎疾患を抱えている身として、新型コロナに感染しないか
という恐怖感を感じていることは多くの高齢者と同じであり、死生観を確立したと思
っていても所詮、充分な悟りを得ているわけでは無いのでしよう。それも凡人の定め
というものかも知れません。いずれにしても、心臓のさらなる劣化で死を迎えるのな
らばまだいいのですが、新型コロナでは多くの方々に迷惑をかけることになるので、
感染予防に抜かりなく生活をしていきたい。  0

 この投稿から2年間が過ぎました。体調は大きく変わりなく、毎日軽い仕事をしてい

ます。とはいえ、78歳になるとさすがに足の衰え、記憶力の減退は避け切れず、も

どかしく感じる日々が続いています。でもこれで、いいのだと思うようにしています。

誰もが通り道筋なら当たり前のごとく、悩むことなく今できることをやり切ろうと考

えているところです。令和4年7月6日

 

 

 

 

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組織の運営の問題点---議論を好まない日本人?

2022-07-01 08:08:17 | 思うまま





     組織の運営の問題点----議論を好まない日本人?

  私は、会議においては比較的に進んで発言する人間だと思っています。
  現在、町内会の福祉厚生部の業務をして3年目になります。今年は、体調や仕事の
ことを考慮してこの3月で終わりにしたいと通告しています。

  一般の企業やこのような町内会の組織における諸々の会議の姿に一種の疑問と言う
か、これでいいのかと思える運営がなされている。このことは、組織のトップの考えや
方針にもよるが、全体的にみて日本人の特性か習性のようにも思われる。

  つまり、議論を徹底的にできにくい雰囲気を多くの人が作り出しているように感じ
る。良く言われることにこれらは、「和を以て貴ししなす」という聖徳太子の言葉から
我が国の精神風土が形成されて、今に至っている。これは、日本人の特性として、過度
な言い争いは慎むということであろうか。また「万機公論に帰す」「人皆党あり」とい
うことも聖徳太子の言葉のようであります。

  これらの言葉を古い時代のものだと否定をするものではありませんが、あまり、単
純にイメージされて、故人が述べた真の意味を理解した上で、議論はなるべく簡単にか

つ拘りなく行うのが正常な組織の運営だと多くの日本いやほとんどすべての国民が描い

ている姿ではないかと想像します。

  いつの時代も高齢者と若者、そして時代は常に移り変わって行くものであるから、
新しい考え、過去に経験のなかったやり方等についても、その原点に立って、つまり、
今議論しなければならないことはの原点、基本的要素は何であるかを見極めて、議論を
すべきで、もっと異質な意見、考え方をまず、聴く雰囲気というものが、この日本社会
には必要なことではないだろうか。現代の我が国の停滞、難局を乗り切って行くために

は大いに若者も齢よりも差別なく活発な議論ができる世の中にして行くことだと思う。

                               0

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60年前の奇跡 ------テニス試合における感激と苦痛(中学時代)

2022-06-23 07:49:07 | 思うまま




    60年前の奇跡-----テニス試合における感激と苦痛(中学時代)

  正式には、今から63年前の中学校における、部活としての軟式デニスの各種試合の

結果には、感激と日々の苦痛が忘れられない、貴重な経験であった。

  この学校は、兵庫県の淡路島にある洲本市立州浜中学校である。テニスには硬式と軟

式の二種類があり、現代では、硬式テニスが主流になっている。あのプロ選手の錦織選手

は硬式テニスである。私の中学校時代には部活、クラブ活動は軟式テニスが主流だったの

である。

  私は、8歳上の兄が高校で軟式テニス(これからは、総てテニスと呼ぶ)をしていた関
係で、特に勧められたわけではないけれども自然な形で中学校に入学した直後から入部し

た。それまで、兄とは年が離れていたこともあり、一度も一緒にしたり、教えてもらった

ことはなかった。

  三年間の各種の試合において、最後の試合に奇跡が起こったのである。各種の試合と

いうのは、地元の洲本市内のもの、そして、予選を通過すれば、兵庫県の大会がある。そ

して最後の大きな大会は近畿地域大会である。つまり、兵庫県、大阪府、京都府、奈良県、

滋賀県、和歌山県の県,府6地域での予選を勝抜いた選手の試合である。全国大会は当時は

なかった。
  私は、所属している学校でも二番手という実力は卒業するまで、変えることが出来なか

った。それでも、兵庫県大会でベスト8にくらい付くことが出来た。そして、三年生の最後の

年に兵庫県大会で3位までに入れば、近畿大会に出場できるわけだが、これまでの成績ではと

ても叶わぬ実力であったのです。

  でも、何と奇跡が二度訪れることになる。まず、兵庫県での大会において、ぎりぎりの3

位になり、近畿大会に出ることが出来る結果が得られた。このことは学校の関係者や家族も誰

一人予想していなかったのです。私にとって、これがまず、一つの小さな奇跡です。そして

10月に開催された近畿大会がいよいよ迫ってきていた。

  近畿大会においては、これまで、兵庫県から選ばれた選手が良い成績を上げていた。他の

地域の実力は全く情報がなかった。試合のプログラム(組み合わせ)はベスト8まで第一シ-ドか

ら与えられていた。当然、私はシ-ドなしで相手もシ-ドされていない選手との試合が3試合続

いた。3試合続いたということは、2試合に勝利したからである。その後は、いよいよ実力のある

と言われているシード選手やそれらに勝ち進んできた選手との試合になった。

  もちろんこの中学生最大かつ最後の大会で優勝しようなどという大それた目標は全く持てな
かった。とにかく、一試合でも多くやりたいという思いであったと思う。それが、あれよあれよ
というまに、決勝戦まで行ったのである。相手は奈良県の選手である。事前に彼らの試合も観察
することはできず、その実力は白紙の状態で決勝戦に臨んだ。たとえ負けても、準優勝というこ
とで胸をはって地元に帰ることができるという気持もあっただろう。

  この決勝戦で、私は一つの作戦を考えていた、それに徹して臨んだ。それは、相手側に取り
にくい強いボ-ルを撃てばいいのですが、その実力に自信がないので、その逆に、相手の打ちや
す緩やかなボ-ルを根気よく打ち返そうと考えて、かっこは良くない姿でのテニスであったと思
う。当然に決勝戦まで勝ち進んだ相手の選手であるから、その実力は相当のものがあって、こち
らが返した緩やかなボ-ルを強く打ち返された。前半は相手の強打に太刀打ちできなく不利なカ
ウントに追い込まれてきていた。

  それが、不思議なことに、こちらが初めから緩いボ-ルに徹していると、徐々に相手がミス
をし始めた。その時の思いは、相手も中学生であり、まだ、精神的にも充実していないだろう、
チャンスボールが続くと、却って力みが出て、肩に余分な力が入り、ネットに当ったり、オ-
バ-になるなどのミスがでるものなので、それを期待した。それは誰でも解っていることであっ
ても、ミスの確率が高くなる。それが中学生としての最大の大会であるならば、よりそのことが
顕著にでてしまう。その試合の結果は、観客の予想とは裏腹な結果になった。つまり、勝って優
勝してしまった。
  決して実力で勝ったとは到底思えない試合運びであり、我ながら呆気にとられたというのが
正直な思いでありました。

  そんな奇跡的な裏では、苦痛を感じていたこともある。軟式テニスは前衛と後衛のダブルス
での試合である。つまり、私が一人で優勝したものではない。たわしは後衛であったが、前衛の
相棒がいた。この相棒とは3年間一緒だった。実はその相棒との人間関係というか、大きな窮屈
さを常に感じながらの日々の練習であり試合でありました。相棒の人は、気持ちはやさしい面も
ある半面、私がミスをすると鋭い目で睨みつけらた。気の弱い面がある私は萎縮気味の苦痛を感
じていたのです。相棒とは、同じ高校に進んだ時に、相棒を離れることになった。

  60数年たった今、改めて思うと、そのような緊張するような相棒であったのが、却って練習
に励み、ミスをしないように努めた結果であったかも知れないと思うこともある。遠くから相棒
であったK君に感謝したい、お互いに消息は分かり合えていないが今でも元気でテニスをやって
いるだろうか。私は、71歳になった日から市の体育館で週一回硬式テニスをしている。 0

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