森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

アイヌ民族 5

2022-06-29 07:57:22 | アイヌ民族

 

            アイヌ民族 5

 

 和人の人口が増えればその分先住民であるアイヌの生活が圧迫を受けてしまいます。

たとえば、奈良県の吉野山麓の十津川村では、明治時代の豪雨による被害より、集団移住

(2,000人を超える)を余儀なくされ、1889年(明治22年)、北海道の現在の新十津川村に

やってきました。この奈良の十津川村というのは、郷氏の人達で、天皇一族の護衛のよう

な役割を担っており、移住の際には、天皇家から多額の資金援助があったということです。

 故郷を大雨で、土砂崩れで失った人達の苦しみ・辛さは想像を絶するものであったこと

でしよう。この集団が新十津川村(この名前は移住者たちが、後で付けた名前)に移住してき

たために、アイヌの人たちの生活空間が徐々に狭められていきます。アイヌの人たちは、広

大な大地を年毎に山菜や動物の捕獲をしての生活様式でありますが、その大地が狭められる

ということは、アイヌの生活を脅かせる結果になって行きます。

 

   ここ数年間の間に、国も地域もそして日本人も、アイヌ民族を真剣に考えるようになって

きていると思う。昨年には北海道白老に国の施設として「ウポポイ」というアイヌ民族の生

活様式を現した大きな共生施設が出来ました。まだ、新型コロナの影響で全国の皆さまには

まだまだ知られていませんが、是非ネットで「ウポポイ」と検索してご欄ください。0

 

 

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アイヌ民族 4 

2022-06-28 07:53:00 | アイヌ民族

 

      アイヌ民族 4・・・・和人・日本人の開拓移民から見て

 

 これまでアイヌ民族から見た明治期の歴史を見てきました。今度は、和人・日本人の

開拓移民から見てみることにします。

 この時期の開拓移民は、北海道の冬の厳しさなどはほとんど教えられずに、いわば騙

されて連れて来られたような人たちも少なくありません。明治近代化国家と言ってもま

だ日本の領土では無かった北海道を急いで日本の領土として確定したかったのでするだ

から、北海道の開拓を急いだのです。ですから時刻の国民をだますようにしてでも植民

地北海道に連れてきたのです。これは満州開拓の歴史を見たらよくご理解できると思い

ます。ブラジルへの移民を出す時にも、どんなに良い環境の大地がまっているかという

説明で、多くの人達が船に乗り込んだのです。移民政策というのは、決して生易しいも

のではなく、多くの苛酷な犠牲を伴うものです。

 元々アイヌの島(大地)であったところに、開拓移民が「新天地」を夢見てやってくるわ

けです。ところがその多くは、新天地どころか地獄の島だったのです。鬱蒼たる原野を田

畑にするには莫大な労力と長い時間が必要でした。生計が成り立つ凄惨をするまでの生活

はかなり苛酷だったでしよう。さらに、冬の寒さ、雪の問題がありました。春から秋にか

けては、農作物ができなくても、山や川には食料となるものが豊富にありましたから、と

りあえず命を繋ぎ長らえることはできます。しかし、白い雪で大地が覆われる厳寒の冬は、

そうはいきません。山菜類はまったくありません。秋には川に上ってきた鮭もいません。

その上に、マイナス10度~20度、今でこそ、断熱殿他かい暖かい家で暮らしていますが、

そのころは板張りのすきま風邪だらけの寒い家です。家というより小屋のような住まいで

会ったのです。こうしたことが2年、3年と続くうちに、体力のないものは凍死という悲惨

な現実に多くの開拓民が居られたのです。その様な環境ではとてもこれ以上この地にいる

ことはできず、故郷に戻ってしまった人たちも沢山いました。故郷に帰れる余裕のある人

はまだいいけれども、そのような体力も減退し資金も尽きた人たちは、この大地で身を朽

ちるより仕方が無かったのです。でも、、北海道に残って成功し広大な地主となっている

人達もおられます。

 この違いは、様々な要因がありますが、一つには資金力の問題です。つまり農作物の生

産体勢を確立するまでの生活を支えるお金がある場合は、越冬用の、冬を越すのに必要な

食料などを秋に買い求めて蓄えることができたでしよう。でも、何とか夢だけを持って少

ない当座の資金しか持ち合わせていなかった開拓民たちは、その日その日をしのぐための、

現金収入を求めて日雇路移動などの仕事をせざるを得ず、厳しい開墾作業に専念すること

もできず、その結果、冬の生活をより厳しいものにしてしまうという、悪循環に陥ってし

まいます。

  開墾を成功に導くもう一つの要因として語られているのは、先住民族アイヌの生活の

知恵でした。奈津の山菜にしろ、、食べられるものと毒草との区別がつかなくては、空腹

のお腹を満たすことができるどころか、命まで落としかねません。また、夏には何とかな

ったにしろ、長く厳しい冬はそうはいきません、冬を越すだけの資金のないものは生活の

知恵が必要です。この大地で長く過ごしてきたアイヌには、冬を越すたげの豊富な知恵を

持っていました。当然ながら、こうした高度な生活技術・知恵、つまり文化を有していた

からこそ、厳寒の地で長く生き続けて来られたのです。

 最初、先入観と偏見とで、アイヌを軽蔑していた開拓民も、喰うや喰わずの、もう生死

の境まできたときに初めて、アイヌにすがったものもいたようです。アイヌの生活の知恵

を教えてもらったのです。春にはどこに行けばいいのか、秋には鮭が川に上ってきますが、

シ-ズンはじめの鮭は脂がのっていて保存には向かないこと、冬近くに上ってくる鮭は脂が

少なく、保存用にはうってつけであること、オオバユリの根は、優れたでんぷんで、これ

を乾燥しておけば、冬の貴重な食料になること。寒い寒い冬の暖房の取り方、たくさんの

生活の知恵を授かり、生き延びた開拓移民はたくさんいたであろうと思います。この時代、

北海道を旅行した外国人の記録にも、言葉がだんだんアイヌ語的になっていった開拓移民

のことが残っているようです。和人がアイヌに同化していった例と言えるでしよう。もっ

とも、これは強制的でなく、必然的なものなのでしようが。

 

 一方、新天地を夢見てきたが、結局故郷に帰らざるを得ない人たちの中には、北海道で

生まれた乳の飲み子を連れての移動は困難だからと、アイヌコタン(集落)に我が子を、預

けていくものもおりました。アイヌはこうした子供たちを我が子と区別なく育てたという

ことです。(こういうことは、満州から引き上げる人たちのなかにも可なりの方々が居られ

ました)

 30年ほど前に亡くなられた方ですが、アイヌから尊敬を集めた長老がおりました。口に

はアイヌの伝統的な刺繍がしてあり、アイヌ語を母なる言葉・母語として育ち、ユ-カラを

はじめたくさんのアイヌの文芸を伝承され、刺繍(ししゅう)をはじめとする女の工芸も伝承

され、たくさんの優れた作品を作り、たくさんの後継者を育てて今日に至っております。

こうした功績から、たくさんのアイヌ文化伝承に関する賞を数多く受賞されました。アイヌ

からは女性の長老の敬称・尊敬語である「フチ」と呼ばれていました。このフチは四国の人

なのです。生まれて親からアイヌの家に養女に出され、そこで育ったのです。アイヌであり、

私たちの尊敬を集めたフチも、血のことをいえば和人なのです。このフチは、現在の北海道

旭川周辺で活躍されました。こうした例は各地にあるようです。0

 

 

 

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アイヌ民族 3

2022-06-26 07:45:10 | アイヌ民族

 

          アイヌ民族 3

 

  明治政府は、1877年、北海道地券発行条例を制定し、「北海道」を「無主の地」、

つまり所有者がいない土地として官有地に編入しました。さらに、北海道土地払い下規則

、北海道国有未開地処分法により、官有地としたアイヌモシリ(蝦夷地)を日本人に払い下げ、

「開拓」を勧めていったのです。政府は、大地を奪い、さらにアイヌ語の使用を妨げ、日本

語の使用を強制し、アイヌの伝統的な生活を法的二制限しました。こうして日本人化の強制

という同化政策が徹底して遂行されたのです。これらは植民地政策により、アイヌ民族抹殺

がいわば国策として作り上げられていきました。1871年(明治4年)の戸籍法公布により、アイ

ヌも天皇の赤子として「平民」に編入し、日本国民に統合となかせらも、「旧土人」として

扱い、法制度的にも差別して来たのです。

 ちなみに、この北海道旧土人保護法と同じ年に作られて、同じ年に消えてしまった銀行が

ありました、「北海道拓殖銀行」です。1899年北海道拓殖銀行法によって国策銀行として設

立され、1997年北海道旧土人保護法の廃止と同じ年にその銀行も金融恐慌のあおりを受けて

破産してなくなりました。北海道拓殖銀行は、道民の最大大手の銀行でありましたが。この銀

行を国は維持することなく、見放してしまったのです。

どちらも「植民地政策」を遂行するためのもので不思議な因縁を感じます。

 さて、「同化政策」と一言で行ってもなかなかピンとこないと思います。たとえば、あなた

の街ににA国人が大挙してやってきて、銃剣による暴力的な四這いのもとで「明日から日本語を

使うなA国語を話せ、飯は食うな、パンを喰え。仏教は信じるな、キリスト教のみを信じろ、農

民はすべて工場で働け、公務員は土木作業員になれ」とこのように嬌声され、その結果、言葉

(A国語)を離すことができずに「無知蒙昧なもの」と差別され、慣れない仕事ゆえに困窮せざるを

得ない状況を長年に渡って味わらせられたのです。

 これまで、アイヌ民族から見た明治期の歴史を見てきましたが、次回は、和人・日本人の開拓移

民から見ることにします。   0

 

 

 

 

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2、アイヌ民族

2022-06-25 08:12:18 | アイヌ民族

 

            2、アイヌ民族先祖

 アイヌ語で「アイヌ」という単語の意味は、英語の「man」に近いようです。

1、神に対しての人間

2、成人男性

3、夫

4、男性への敬称

 といった意味があるそうです。「アイヌネノアンアイヌ(人間の中の人間)という。

 アイヌモシリ(人間の大地)とは、カムイモシリ(神の国)に対しての言葉です。

 そのアイヌモシリの地理境界については、17・18世紀頃には、北海道、サハリン南部、

千島列島、本州北部(津軽、下北地方など)の広大な空間がアイヌの生活空間であったようです。

アイヌ民族の祖先はどこからきたのか、ということは、どうやら縄文人の血を濃く引いていた

ようで、古代の「蝦夷征伐」などの言葉にある「蝦夷」は、アイヌもしくはそれに近いものと

言えるでしよう。アイヌ文化が成立するのは13・14世紀頃ということです。ですから、「こう

した人々の子孫」をアイヌまたは民族と言えると思われます。

 ところで、なぜ蝦夷征伐という言葉が歴史に残ったのでしようか。「征伐」という侵略をす

るために何万人という大群を派遣せざるを得なかったからです。だから「蝦夷征伐」という言

葉が歴史に記されたのでしょう。

 江戸時代には、松前藩のもとでアイヌと和人(日本人)との間に交易が盛んになってきました。

当時、蝦夷地と呼ばれたアイヌモシリは、幕府(中央政権)の直轄地にされたため、アイヌ民族へ

の支配は一層強化されました。これは、ロシアの南下に対抗するためであったでしよう。

 江戸幕府体勢から明治近代化天皇制になり、「明治維新」と呼ばれ日本の近代化・民主化が

始りました。アイヌ民族にとっては新たな苦難の幕開けだったでしょう。1969年(明治2年)、明

治政府はアイヌモシリを「北海道」と、改称してしまいました。それまでの大地の住民であるア

イヌを「化外の民」とし、アイヌモシリを「蝦夷地」と呼び、外国と認識していたものを、突然

一方的に日本領土としてしまったのです。0

 

 

 

 

 

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アイヌ民族

2022-06-24 08:00:25 | アイヌ民族

 

     アイヌ民族・・・北海道

  私は札幌に移住してすでに48年、サラリ-マン時代の転勤も加えますと、丁度50年

になります。関西生まれの関西育ちですから、身内のものも含めて、アイヌとは全く縁

もないものです。

 その縁のないものが、一つの資料に出合って、アイヌに興味を持ちました。いわゆる

興味半分かも知れませんが、手許にある資料から断片的になりますが、ここに紹介いた

します。

 その最初に、問題 北海道はいつから日本の領土になったのでしようか?

回答1、いわゆる「北方領土」でさえ、「我が国の固有の領土」というくらいですから、

    北海道は当然「我が国固有の領土」で、ず--っと前から日本の領土である。

回答2、明治時代以降からである。

 

 こういう問いが紙面にありました。皆さんはどちらだと思いますか?

正解は2なのです。多くの人は、昔からず--っと日本の領土と思っていたのではないでし

ようか。資料によりますと、江戸時代の学者の林子平が「三国通覧図説」で、その当時、

「「蝦夷地」と呼ばれた北海道は外国と認識されておりました。ちなみに「三国」とは、

琉球、朝鮮、蝦夷地を指しています。だから、現在の北海道函館地方で江戸時代に管理

していたのは、松前藩です。その「松前藩のアイヌへの収奪が厳しいから、アイヌはこ

のままではロシアになびいてしまう。北海道の開拓を急がないとロシア領になってしま

う」という危機感がその当時の支配者(江戸幕府)にあったのです。裏を返せば、自国の領

土になっていないものと認識していたのです。

 しかし、我が国の小・中学校の社会科の地図には、古代から日本地図の中に北海道が

掲載されていて、考えることもなく、「北海道は日本の領土の一部」と思っていました。

というより、いつから北海道が日本の領土になったかなんてことは、考えてもみなかっ

たこではないでしようか。 

 

  私が最初に北海道に一歩踏み出したのは、今から50年前の10月でした。それは、北海

道開道100年記念の祝賀会が終った直後でした。今日まで、北海道の由来とか、原住民であ

ったアイヌ民族の事は、全くといっていいほど、考えもしていなかったのです。日本の最北

端の大地でまだ未開拓地だという意識しかなかったのです。次回はアイヌ民族がどのような

扱いをされてきたかについて、述べたいと思います。0

 

 

 

 

 

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