清き心の未知なるものの為に53・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より
何百年も経てきた生の流れ、何千、何万年も経てきた人類の潮。悪しき性、死と悲惨、
犠牲と愛。この展望のなかにおけば、私の(自我)などなにを意味しているのであろうか。
理性の語るところに従えば、私は自分の財宝、自分の快楽、自分の力、自分が人びとの
心のうちによびさます尊敬などをもとめなくてはなるまい。それでいて、いの述べた展
望のなかにおけば、そのようなことこそまさしくもっとも取るに足らぬものなのだとい
うことを、私は知っている------知らずして知っている。そこにこそ神のいましたもう認
識。
内面の静寂を保つこと-----喧噪のただなかにあって。開かれたまま、穏かなままでいる
こと、雨の降り注ぎ、麦の芽ばえる、肥沃な時間に包まれた、しっとりした腐葉土のまま
でいるとこと-------白昼の不毛の光を浴びて、埃を巻き上げ乍ら広場をどしどし踏みしだ
いてゆく人たちが、どれほど大勢いようとも。
土の感覚が肉体の感覚と出会うとき-------土のなかの土となり、草木の間の草木となり、
土から出て土に帰る動物となる。この自己合一のなかで、肉体の汎神論は確認せられる。
自分の敵に親切であるのは容易である-------根性のなさゆえであれば!
空虚への嘔吐感(おうとかん)のほかには、おまえが空虚のなかに詰めこむための生命
あるものはないのか。
いままで、おまえはそこにいた。------それだけのことであって、たいしたことではな
かった。おまえは生涯をつうじて、なんと多くの歩数、なんと多くの時間を費やして、追
い求め、聞き、見たことか------だが、なにものをか。
虚無のなかにいて
しじまのなかで泣き、
夜の闇のなかで嘆いている------
ちびの悪魔めが、
いつ、いつなの、と。
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