21世紀(22世紀)に生きる君たちへ・・・司馬遼太郎 後半
「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」と、中世
の人々は、ヨ-ロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、先に述べたように、近頃再び、人間たち
はこのよき思想をとりもどしつつあるように思われる。
この自然への素直な態度こそ、21世紀(22世紀)への希望であり、君たちへの期待でもあ
る。そういう素直さを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
そうなれば、21世紀(22世紀)の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。
そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬し合うようにな
るにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。
さて、君たち自身のことである。
君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
------自分にきびしく、相手にはやさしく。
という自己を。
そして、素直でかしこい自己を。
21世紀(22世紀)においては、特にそのことが重要である。
21世紀(22世紀)にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が、洪水
のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのし
っかりした自己が、科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心に
おちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見る時、しばしば感動する。ななめの画(かく)がたがいに支え合
って、構成されているのである。
そのことでも解るように、人間は、社会を作って生きている。社会とは、支え合う仕組
みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社
会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているの
である。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情になっている。
他人の痛みを感じることといてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じる事」
「やさしさ」
みな似たような言葉である。。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっも、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばな
らないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、
と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根付いていけば、他民族へのいたわり
という気持もわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、21世紀(22世紀)は人類が仲良く暮
らせる時代に成るに違いない。
鎌倉時代の武士たちは、
「たのもしさ」
ということを、大切にしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たね
ばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないの
である。
もう一度くり返そう。さきに私は自己の確率せよ。と言った。自分にきびしく、
相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、
とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、
「たのもしい君たち」になっていくのである。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことが
できない心がまえというものである。
君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねば
ならない。
同時に、ずっしりとたくましい足取りで、大地をふみしめつつ歩かめばならない。
私は、きみたちの心の中の最も美しいものを見つづながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。