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森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

21世紀(22世紀)に生きる君たちへ・・・司馬遼太郎 後半

2025-08-24 10:24:44 | 森の施設

 

  21世紀(22世紀)に生きる君たちへ・・・司馬遼太郎 後半

「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」と、中世

の人々は、ヨ-ロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。

 この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、先に述べたように、近頃再び、人間たち

はこのよき思想をとりもどしつつあるように思われる。

 この自然への素直な態度こそ、21世紀(22世紀)への希望であり、君たちへの期待でもあ

る。そういう素直さを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。

 そうなれば、21世紀(22世紀)の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。

そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬し合うようにな

るにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。

 

 さて、君たち自身のことである。

 君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。

 ------自分にきびしく、相手にはやさしく。

という自己を。

 そして、素直でかしこい自己を。

 21世紀(22世紀)においては、特にそのことが重要である。

 21世紀(22世紀)にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が、洪水

のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのし

っかりした自己が、科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。

 右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心に

おちいってはならない。

 人間は、助け合って生きているのである。

 私は、人という文字を見る時、しばしば感動する。ななめの画(かく)がたがいに支え合

って、構成されているのである。

 そのことでも解るように、人間は、社会を作って生きている。社会とは、支え合う仕組

みということである。

 原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社

会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているの

である。

 自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。

 

 このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。

 助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情になっている。

 他人の痛みを感じることといてもいい。

「いたわり」

「他人の痛みを感じる事」

「やさしさ」

 みな似たような言葉である。。

 この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。

 根といっも、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばな

らないのである。

 その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、

と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。

 この根っこの感情が、自己の中でしっかり根付いていけば、他民族へのいたわり

という気持もわき出てくる。

 君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、21世紀(22世紀)は人類が仲良く暮

らせる時代に成るに違いない。

 

 鎌倉時代の武士たちは、

「たのもしさ」

ということを、大切にしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たね

ばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないの

である。

 もう一度くり返そう。さきに私は自己の確率せよ。と言った。自分にきびしく、

相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、

とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、

「たのもしい君たち」になっていくのである。

 

 以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことが

できない心がまえというものである。

 君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねば

ならない。

 同時に、ずっしりとたくましい足取りで、大地をふみしめつつ歩かめばならない。

 私は、きみたちの心の中の最も美しいものを見つづながら、以上のことを書いた。

 書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。

  

 

 

 

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21世紀(22世紀)に生きる君たちへ・・・司馬遼太郎

2025-08-23 10:37:09 | 森の施設

 

    21世紀(22世紀)に生きる君たちへ・・・司馬遼太郎

 

 私は、歴史小説を書いてきた。

 もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。

 歴史とはなんでしよう、と聞かれるとき、

「それは、おおきな世界です。かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なの

です」

と、答えることにしている。

 私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。

 歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常

を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。

 だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この

楽しさは------もし君たちさえそう望むなら-----おすそ分けしてあげたいほどである。

 

(この思いをおすそ分けして貰いたいので、投稿者は22世紀の人たちとした)

 

 ただ、さびしく思うことがある。

 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。

 私の人生は、すでに時間が少ない。例えば、21世紀(22世紀)というものを見ることができないに違

いない。

 君たちは、ちがう。

 21世紀(221世紀)をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしい担い手でもある。

 もし「未来」という町角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。

「田中君、ちよっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀(22世紀)とは、どんな世の中でし

よう。」

 そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角

には、私はもういない。

 だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。

 もっとも、私には21世紀(22世紀)のことなど、とても予測できない。

 ただ、私には言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。

 

 むかしも今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自

然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているという

ことである。

 自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、

水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。

 さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。

 人間は、-------繰り返すようだが-------自然によって生かされてきたる古代でも中世でも自然こそは神

々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力

をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。

 その態度は、近代や現代(1990年代)に入って少しゆにいだ。

 ------人間こそ、いちばんえらい存在だ。

という、思いあがった考えが頭をもたげた。20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうす

くなった時代といっていい。

 

 同時に、人間は決しておろかではない。重いあがるということはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つ

まり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、という素直な考えである。

 このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実

にすぎないこのことを、20世紀の科学は、科学の事実として人々の前にくりひろげてみせた。20世紀末の

人間たちは、こりことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるよう

になった。

 おそらく、自然に対し威張りかえっていた時代は、21世紀に柄付くらつれて、終わっていくに違いない。

                                善篇終り 

                                後編は明日以降に投稿します。

 

 

 

 

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清き心の未知のものの為に54・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より

2025-08-21 14:26:24 | 森の施設

 

   清き心の未知のものの為に54・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より

 

 仕事のうえの気がかりが絡むとき、こうして、光と熱と力との感覚が湧いてくる。外部

から・・・・。グライダ-の搭乗員を支える空気とか、泳いでいる人を支える水とかと同

じように、私を支えてくれる元素がなにかある。用心深い知性のはからいが、証拠だの論

理だのと要求して邪魔立てするものだから、おかげで私はそのことまでも「信ずる」こと

ができずにしまう。おかげで私は、認識の用語によってそれを究めて、ついにはそのなか

から実在を解読するすべを見出す、ということができずにしまう。しかし、こうして魂の

磁場が私の体験をつうじてほかに見え隠れする。これは、ことばと行為とによってたえず

祈り、そして聖なる意志にしたがって生きている、じつに多くの人たちによって、果断な

く続く現在のなかに作りあげられた磁場なのである。

 「聖者の通功」-----そして------そのなかに生きる------ある永遠の生命。

 

 「安らぎを得るため」に、自己の体験ないし確信のなにものも否認したりはせぬ------

 

 私に与えよ、死ぬに値する大儀を!-----

    ことばなく、また冷然と

    城壁は立ち、旗織は

    風にはためく。

 

 孤独が苦しくてならぬのは------

 だれひとり、重荷をともに担う者がいないからではなく、

 むしろ、わたしが

 自分の重荷しか担っていないからだ。

 

 欲望に盲(めしい)となることもなく、

 何びとの内面に立ち入る権利も、私にあろうとは感ぜられず、

 私の存在の裸形をさらすことを惧れ、

 ともに生きる条件として十全の諧和を求めてきたからには、

 どうして、別の成り行きがありえたろうか。

 

 おまえの孤独がおのれの生死にふさわしい目標を見いだす励ましの突き棒となるように、

祈れ。

 

 疲労に、苦痛は純摩し、死への慕わしき思いはつのる。このようにして、孤独に打ち勝て

そして、決定的に生から逃れよ------と、おまえは誘われるかもしれぬ。------いけない!死は

おまえから生に捧げる決定的な贈物たるべきであり、生にたいする裏切りであってはならぬ。

「わが心身を擦り減らす」------自分の仕事をしながら、しかもほかの人たちのために。-----

-----それはそれでよい! しかし、そうしてよいのは、自分の姿をあたりに見せつける(おそ

らくは、他人の称賛を得たいとさえねがいつつ)ためではないばあいに限ってのことである。 

 

 

 

 

 

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清き心の未知なるものの為に53・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より

2025-08-13 09:03:28 | 森の施設

 

   清き心の未知なるものの為に53・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より

 

 何百年も経てきた生の流れ、何千、何万年も経てきた人類の潮。悪しき性、死と悲惨、

犠牲と愛。この展望のなかにおけば、私の(自我)などなにを意味しているのであろうか。

理性の語るところに従えば、私は自分の財宝、自分の快楽、自分の力、自分が人びとの

心のうちによびさます尊敬などをもとめなくてはなるまい。それでいて、いの述べた展

望のなかにおけば、そのようなことこそまさしくもっとも取るに足らぬものなのだとい

うことを、私は知っている------知らずして知っている。そこにこそ神のいましたもう認

識。

 内面の静寂を保つこと-----喧噪のただなかにあって。開かれたまま、穏かなままでいる

こと、雨の降り注ぎ、麦の芽ばえる、肥沃な時間に包まれた、しっとりした腐葉土のまま

でいるとこと-------白昼の不毛の光を浴びて、埃を巻き上げ乍ら広場をどしどし踏みしだ

いてゆく人たちが、どれほど大勢いようとも。

 

 土の感覚が肉体の感覚と出会うとき-------土のなかの土となり、草木の間の草木となり、

土から出て土に帰る動物となる。この自己合一のなかで、肉体の汎神論は確認せられる。

 

 自分の敵に親切であるのは容易である-------根性のなさゆえであれば!

 

 空虚への嘔吐感(おうとかん)のほかには、おまえが空虚のなかに詰めこむための生命

あるものはないのか。

 

 いままで、おまえはそこにいた。------それだけのことであって、たいしたことではな

かった。おまえは生涯をつうじて、なんと多くの歩数、なんと多くの時間を費やして、追

い求め、聞き、見たことか------だが、なにものをか。

 

        虚無のなかにいて

        しじまのなかで泣き、

        夜の闇のなかで嘆いている------

        ちびの悪魔めが、

        いつ、いつなの、と。

 

 

 

 

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清き心の未知のものの為に52・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より

2025-08-09 12:51:29 | 森の施設

 

   清き心の未知のものの為に52・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より

 

 「夜は近きにあり。」道のなんとはるけきことよ。しかし、この道を辿るために要した時間

は道がどんなところを通っているかを知るのに、私にとって一瞬ごとにいかに必要であったこ

とか。

 

 「さらに遠く、私は連れ去られてゆく。」よし、よし、しかし、おまえは差し出された数か

ずの機会にたいして盲目だったわけではない!

 

 「御心を行なわしめたまえ-------」おまえは利害心から、運命を指先でいくら突っついて動

かそうとした。それはそれでよい。おまえは、他人の心のなかに、その運命をこのうえなく気

高いことばで刻み込みこもうとねがった。これもまた、それでよい。せめて、運命の結果がお

まえの頭脳を越えたところで、信仰のうちに決定せられるよう、さかしらな手だしをせずにお

まかせしてくれればよいが!

 「御心を行なわしめたまえ------」内面を外面に、魂を現世に先んぜしめること-------そのた

めに、どこへ導かれることになろうと。また内的な価値を外的な価値がかぶる仮面に成りさが

らせぬこと。しかもそうかといって、内的なことがらが外的な事柄に付与しうる価値にかんし

て盲目であってはならなぬ。

 

 孤独から身を守る麻薬剤としての仕事------交わるべき人々の代用品としての書物! 自分は

持っているのだ、戸口は明けてある、とおまえは言う。しかし、それは人びとを迎えるためか。

エンペドクレスが待っていたエト山は、人びとのかなたに超えてでた宿命ではないのか。

 

 もっとも困難なこと-------潔く死ぬこと。なんびとも免れぬ試練である。-------どれだけの人

が、この試験に堪える力を授かるように------さらにまた、試験官が寛大であるように-----折れ。

 

 生誕と死、愛の恍惚と苦悩-----社会的責任という「白昼の光」を放つ燈火のもとでの舞踏の背

後には、実在が隠れているのである。

 コクト---の「オルフェ」における鏡の象徴が、私にはなんとよくわかることか。すなわち、私

が実在に出合うとき、私が私自身に出合うことを妨げるものがあるから、その障害を貫いて行く

べき道を斬りひらいてゆくこと・・・・たとえそのために死の王国へ入らなくてはならなぬとし

ても、行くべき道を切り開いてゆくこと! それにしても、まさしくそのこと以上に強く願って

いることが、私にはなにかあるであろうか。いつ、またどのようにして、私はそうする可能性に

出合うのであろうか。

 私と人びととの接触は、もはや鏡に映った影との接触でしかないのであろうか。だれが、ある

いはなにごとが、鏡を戸口に転化させる機会を私に与えてくれるのか。-------機会を、それとも

義務を。つまり、私はあまりに(賢明で均衡がとれている)ために、すなわち社交的にいって、あま

りに自分のなかに閉じこもっているために、義務に屈する以外には、なにものかに組することが

ありえないのではなかろうか。説明のつくことである。!

 「未聞の領域の境界線に立つ------。」深海への潜水が極点であることを自覚し、しかも、本

能、経験、教育、(つつしみ)などのゆえに、首を水のなかに突っ込むことが恐ろしい。仕方さえ

わかってはいないからである。!

 

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