森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

不動産業の談合

2023-11-22 15:45:43 | 森の施設

 

  不動産業の談合

 

 10年前に小さな賃貸マンションを多額の借金をして建てた。その工事会社の紹介で

マンションの管理業務を依頼した。返済は何とかぎりぎりで問題がないのであるが、管

理会社が少し遠方にあるので、マンションがある地域の不動産屋に依頼したいとある業

者に管理の依頼を頼むために、電話したところ何と、同業者仲間であるグル-プを作っ

てお互いに顧客の取り合いを無くそうと取り決めをしているという。そのために現在の

管理して貰っている会社から自分の所に変更することは出来ないと言う話でありました。

 顧客が自由に業者を選ぶことが出来ないシステムを作りあげているのである。これは

独禁法に抵触することになるだろう。小生も商いをしているから解らないでもない面が

少しはあるけれども、明確に断られてしまうと。あれあれこんなやり方でいいのだろう

かと思ってしまう。業者が自ら働きかけて、他からマンション管理をとるのではなく、

顧客が地元の業者にいらいすることが出来ないのだ。

 悪しきシステムは早めに改めないと、何かの時に大きな問題に発展するかも知れない。

 

 

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裁判は弁護士の為にあるのか

2023-11-10 08:48:49 | 森の施設

 

  裁判は弁護士の為にあるのか

 

  裁判に臨む時には、必ず弁護士があたっているように見られる。それが当たり前の如く

裁判になれば弁護士に依頼する。弁護士とは裁判の当事者の代理として存在し言論と文章で

闘うのである。

 何故、国民の権利である裁判を自分で望まずに代理人をつけるのか。これは裁判に関する

難しい知識がないためである。しかし相手から訴えられるにしろ、訴えるにしろその内容が

解っておれば、自ら裁判に臨むのは可能性が高いのである。初めての人が多いから、経験が

ないから弁護士に頼むことになっているのですが。裁判所の窓口(受附)に行って裁判に臨む

要領を聞けばいいのです。訴えるのであれば、訴訟の書き方、様式を教えてもらって、それ

に沿って訴える内容を文字にして提出すればいいのです。

 制度として決まっていることは、

➀個人であれば本人

➁組織団体であればその代表者

➂相手側(裁判所)から届いた書類には、必ず反論の文章を書いて、裁判所に送付する

④法廷の案内があった時には、必ず当事者が出席すること。

 以上の要点を抑えて於けば、代理人を頼まなくとも可能である。

 裁判の結果が心配になってくると思いますが、内容・案件にもよるが、自らが望む方が有

利になるケ-スが多い、何故ならなば、相手側は必ず弁護士を代理人として依頼します。そ

の依頼する費用は多額に及び、一審で捲けても控訴まですれば、相手は弁護士費用から和解

に応じてきます。

 これらの事は、言葉の空論ではありません。実際に経験して思惑通りの成果が得られました。

裁判は一生の間に一度も無い方がいいのですが、運悪くといいますか、そのような状況になっ

ても決して慌てず、自ら自身で臨むことをまず検討すべきだと思います。

 裁判所に相談に行くと必ず、代理人に依頼したらどうですかと、言います。教えるのが面倒

だからです。裁判に臨めるのは国民の権利であり、裁判所はその手続きを教える義務があるの

ですから、簡単な内容のものは自らで臨むことをお勧め致します。

 

 

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義はついに、不義に勝てぬか

2023-11-04 15:09:51 | 森の施設

 

  義はついに、不義には勝てぬか

 

 この言葉は、藤沢周平の「密謀」の一説である。徳川家康が政権を奪取した直後とそれに至数年

間の上杉家を主題にした歴史小説で、その主人公として直江兼続、景勝の心境と戦略を描いた小説

です。 石田三成の西軍が家康の東軍に敗れ、上杉家をどうするかと切羽詰まった時の兼続と景勝

の心境である。上杉家の大将である景勝は、「兼続は天下を争え、景勝には言ったが、家康との抗

争のはじまりはそれではない。おのれの欲望をむき出しに、義を踏み滲って恥じない人物に対する

憤りが、兼続や石田三成を固くむすびつけたのである。

 だがその抗ガンの男のまわりに、ひとがむらがり集まることの不思議さよ、と兼勝は思わずには

いられない。むろん家康は、義で腹をふくらまぬと思い、家康を担いだ武将たちもそう思ったのだ、

その欲望の寄せ集めこそ、とりもなおさず政治の中身というものであれば、景勝に天下人の座をす

すめるのは筋違い加もしれなかった。

 天下人の座に坐るには、その自身欲望に首のでつかって恥じず、ひとの心に棲む欲望を自在に操

ることに長けている家康のような人物こそふさわしい。景勝が新しい天下人が現れたと言ったのは

正しいのだ。-----儀はついてに、不義に勝てぬか。」と藤沢周平に言わしめている。

 現代の世界において東ヨ--ロッパや中東地域で戦争が勃発したことも、不義を巧みに正当化しつ

つ、多くの人々を犠牲にしているのである。そういう状況に接してもリ-ダ-たちは戦争を止めよ

うとはせず、返って我が正当を謳い続けている。これは人間の一つの大きな本能であり、姿の一面

であるのだろう。

 

 

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