唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

天祐元年~四年 西暦904~07年

2020-09-02 10:00:17 | Weblog
天祐元年 その2 西暦904年
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唐朝は実質消滅していますで哀帝は昭宗の続きに記載します。

八月丙午,即皇帝位於柩前。
昭宗の九子で母は皇太后何氏。
昭宗が殺された時、輝王擁立のため何皇后は生かしておかされました。

十月甲午,全忠殺朱友恭、氏叔琮。
二人に弑逆の罪を押しつけたのですが、誰も信用などしません。

天祐二年  西暦905年
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二月,戊戌,朱全忠殺德王裕及棣王祤、虔王禊、遂王禕、景王秘、祁王祺、瓊王祥。
韓建がすでに大半を殺していますが、唐皇族を殺害して整理しました。

六月戊子,朱全忠殺裴樞・獨孤損・崔遠・陸扆・王溥・裴贄・趙崇等。
全忠は唐朝の文官大物貴族の大半を白馬駅で殺害し、黄河に投げ込みました。

九月甲子,朱全忠陷襄州,忠義軍節度使趙匡凝奔於淮南。朱全忠陷江陵,留後趙匡明奔于成都。
楊行密・王建に附く趙匡凝を征討し山東・荊南を手に入れました。

十一月庚辰,淮南節度使楊行密卒,以其子楊渥為淮南節度副大使、東面諸道行營都統。
都合の良いことに目障りな淮南楊行密が死んでくれました。

十一月辛巳,朱全忠為相國,總百揆,封魏王。十二月乙未,全忠為天下兵馬元帥
十二月甲寅,殺宰相柳璨及太常卿張廷範。
殺蔣玄暉及豐德庫使應頊、尚食使朱建武。
簒奪までもう一歩ですが、その手順の緩慢さに全忠は苛立っています。


天祐三年  西暦906年
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正月、魏博羅紹威、誅牙軍眷属。
八月癸未,朱全忠陷相州。
牙軍の専横を懼れた紹威は、全忠に依頼して魏州の牙軍を全滅させます。地方駐屯軍は反しますが、全忠軍によって潰滅させられます。田承嗣以来の魏博牙軍は消えましたが、紹威の力もなくなり、あとは全忠に迎合するしかありません。

十月辛巳,楊崇本會鳳翔、涇原、鄜延、秦隴兵以討朱全忠,戰于美原、敗績。
茂貞軍が全忠軍を攻撃しますが敗退します。

八月、朱全忠以幽、滄相首尾為魏患,欲先取滄州,甲辰,引兵發大梁。
河北完全制圧のため劉仁恭父子を征討します。まず滄州[劉守文]が包囲され陥落寸前に、支援する力の無い仁恭はひたすら克用に援軍を求めます。克用は潞州を攻めて牽制します。

閏十二月戊辰,李克用陷潞州,昭義軍節度使丁會叛附於克用。
潞州を守る全忠将丁會が突然反して克用に降りました。旧將朱友恭や氏叔琮の扱いをみて會も猜疑したのかもしれません。全忠は驚愕して河北から撤収します。

◎.淮南は楊渥[行密の子、不安定]、浙江錢鏐、福建王審知、嶺南劉隠、湖南馬殷が分領して相争っていました。
◎.河東李克用は劣勢で自己防衛がせいぜいでした。
◎.鳳翔李茂貞はある程度自領を回復しましたがも敗戦の痛手をおっていました。
◎.劍南王建は領土を広めていましたが、覇権に関わる力はありません。茂貞と連携して全忠の侵入を警戒するだけです。
◎.魏博羅紹威.義武王處直.成德王鎔は全忠に服属しています。

天祐四年  西暦907年
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三月,劉守光囚其父仁恭,自稱幽州盧龍軍節度使。
残置した全忠将李思安の攻撃を畏縮した仁恭は防ごうとしません。たまりかねた子の守光が防戦し仁恭を幽閉しました。

四月甲子,皇帝遜于位,徙于曹州,號濟陰王。
状況が悪化するのを懼れ、東都に戻った全忠は、急遽哀帝を廃位して即位します[大梁国]
唐朝の滅亡です。唐は全皇族を京師に留置していましたので、滅亡と共に家系も絶えました。

梁開平二年二月遇殺,年十七,諡曰哀帝。

天復三年~天祐元年 西暦903~4年

2020-09-01 10:00:55 | Weblog
天復三年 その2 西暦903年
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三月,朱全忠陷青州。楊行密陷密州。
新唐書はこの辺はでたらめで、実際は「朱全忠攻青州。楊行密軍密州に入る。」
全忠は師範を攻めます。単独ではどうにもならない師範は淮南楊行密の支援を求めます。

五月壬子,荊南節度使成汭及楊行密戰於君山,死之。武貞軍節度使雷彥威之弟彥恭陷江陵。
全忠に従う江西杜洪は楊行密に圧迫されています。全忠は荊南成汭に洪をたすけるように依頼し、汭は主力軍を東下させます。その隙を朗州雷彥威につかれて江陵[荊南の使府]を寇掠されてしまいます。汭の麾下は動揺して潰乱し、行密軍に大破されて汭は敗死しました。

六月乙亥,朱全忠陷登州。辛亥,朱全忠陷棣州,陷密州。
戊午,平盧軍節度使王師範叛附于全忠。
全忠の猛攻により師範は降ります。行密軍も撤収します。この戦闘中に全忠の嗣子友寧が戦死してしまいました。

十月,忠義軍將趙匡明陷江陵,自稱留後。王建陷忠、萬、施三州。甲戌,陷夔州。
成汭の死後、領域は山東趙匡凝と劍南王建が分け取りしました。雷彥威は蕃族あがりの水賊なので寇掠はしますが維持でできません。

十月丁丑,平盧軍將劉鄩以兗州叛附于朱全忠。
勇戦していた王師範麾下の鄩が主命により降りました。

十二月丙申,朱全忠殺尚書左僕射致仕張濬。
濬は全忠の対唐朝政策の指南役でしたが、簒奪をねらう全忠には邪魔になったようです。


天復四年/天祐元年 その1 西暦904年
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正月乙巳,宰相崔胤罷。
全忠派の胤でしたが、禁軍を再建しようとして募兵したことで全忠の疑惑を招きました。それに胤はあくまで唐朝の継続を望んでいましたので全忠との路線の違いがでてきたのでしょう。

正月戊午,全忠遷唐都於洛陽。
閏四月甲辰,至自西都。
全忠は、茂貞等の勢力圏に近い京師長安から、自分の勢力圏内の東都洛陽に昭宗を遷すことにしました。

閏四月乙巳,大赦,改元「天祐」
唐朝最後の改元です。

八月壬寅,全忠以左右龍武統軍朱友恭、氏叔琮、樞密使蔣玄暉兵犯宮門;是夕,皇帝崩,年三十八。
全忠は簒奪の邪魔になる昭宗を殺害させました。幼少の輝王を擁立します。