唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

幽州盧龍軍節度使 その6

2012-02-18 10:59:01 | Weblog
・宝暦2年[826年]克融は反唐朝的な傾向を保っていたが軍乱により殺され、少子延嗣が立てられた
が器量がなく、都知兵馬使李再義(賜名されて載義)がこれを殺して自立した。
・載義は克融の方針を変えて親唐朝的な立場をとり、いまだに留置されていた張弘靖の家屬を釈放し、
太和2年[828年]には横海李同捷の討伐にも協力した。
・大和5年[831年]軍乱により載義は逐われたが、唐朝はこれを優遇して宰相に任じ、
山西節度使を与えた。乱を起こした楊志誠は反唐朝的な立場をとった。
・大和7年[833年]志誠は官位の不満から、遣外使節を留置するなど反唐朝的な立場を強めた。
・しかし大和8年[834年]志誠も軍乱により逐われ、河東節度使となっていた載義の襲撃を受け、
嶺南に流される途中殺された。
・代わってたった史元忠は中立的な立場であった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 幽州盧龍軍節度使 その5 | トップ | 幽州盧龍軍節度使 その7 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事