唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

名君という偽装メニュ 太宗の履歴から その5 

2014-04-16 17:16:34 | Weblog
その後、貞觀十年頃までは安定していたが、太宗は父の高祖の死後、父と同じ過ちを
繰り返すことになった。皇太子に承乾をつけながら、弟の魏王泰の才を喜び特別扱い
を行うことである。兄建成と自分との闘争を忘れたようである。
正史では承乾にいろいろ不法があったことが記録されるが、これは後の理由付けと思
える。太宗の代理として太子に聴政させたところ、見事に処理したとの記述もあり、
それなりに有能な人物であったことは間違いない。

10.6 母である長孫皇后崩御  これにより承乾を庇える人がいなくなった。

11.6「詔荊州都督荊王元景等二十一王所任刺史,鹹令子孫世襲。」
「以功臣長孫無忌等十四人為刺史,亦令世襲,非有大故,無得黜免。」
なにを思い惑ったのか、封建制への復帰を図った。35人の子孫・功臣に各州を世襲統
治するという馬鹿げた治策を思いついたようである。統治者としては無能な幼児や武
臣に分与しても御機嫌取りにしかならない。
13.2 うまくいかないため廃止する。

12.1「《氏族志》成,分為九等。士廉等以黄門侍郎崔民幹為第一。太宗于是以皇族為首,
外戚次之。」
氏族を公正に分類すると、蕃族である鮮卑の末裔である「李氏」は低い地位でしかなか
った。太宗は皇族をトップとして、同じく蕃族出身の長孫氏や竇氏を上位とした。
これはもちろん不当なものだが、関東に跋扈する豪族対策としてはしかたがないものか
もしれない。この後も婚姻制限など抑圧策を強めていく。

14.12 侯君集が高昌國を滅ぼした。太宗はいつもの癖を出し、私的な掠奪を弾劾させ
その功績を腐した。君集はこれにより不満を持ち太子につくようになった。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 名君という偽装メニュ 太宗... | トップ | 名君という偽装メニュ 太宗... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事