◎.10月 楊行密の揚州包囲が続き、秦彥・畢師鐸は飢え揚州を棄てて走った。行密は入城し淮南節度留後を自称した。
◎.11月 東都を棄てて南下してきた秦宗衡・孫儒[黄巣を嗣いだ秦宗權の配下、宗衡は弟]の大軍が淮南に侵攻してきた。秦彥、畢師鐸は合流した。朱全忠と争って不利であった宗權は召還したが、情勢をみた孫儒は従わず宗衡を殺して揚州に迫った。
◎.閏11月 唐朝は宣武節度朱全忠を檢校太尉兼侍中兼揚州大都督府長史充淮南節度觀察等使行營兵馬都統/東南面招討使として兼任させた。全忠は將李璠を留後として淮南に派遣し、行密を節度副使とした。
◎. 朱全忠と対立する徐州感化軍節度使時溥は、李璠の領内通過を阻止した。
光啓四年/文德元年[888]
◎.正月 孫儒は秦彥、畢師鐸等を殺し軍を併せた。
◎.2月 朱全忠は楊行密を淮南留後に推薦した。
◎.4月 孫儒が揚州を陥した。
◎.8月 楊行密は秦彥が去った宣州[趙鍠が拠っていた]を攻めた。
龍紀元年[889]
◎.6月 楊行密は宣州を取った。しかし孫儒は行密の本拠盧州を攻め、刺史蔡儔は裏切って降った。
◎. 楊行密・孫儒・錢鏐は浙西諸州を互いに陥しあった。
大順元年[890]
◎.2月 朱全忠將龐師古は南下し孫儒と戦ったが敗れた。しかしあまり本気で戦ったとは思えない。
行密はそれに乗じて潤州・常州を攻めた。
◎.6月 孫儒は朱全忠に通交を求め、全忠は儒を淮南節度使に推薦したが、すぐ敵対関係に戻った。
◎.12月 孫儒は攻勢に出て蘇・潤州を取った。
大順二年[891]
◎. 孫儒は和・滁州で行密と戦った。孫儒軍は黄巣・秦宗權以来流賊で統治能力がなく、勇戦して諸州を陥すが保持することができず、寇掠できるものが尽きると放棄するしかない。
◎.7月 孫儒は食が尽きて揚州を放棄し、周辺の掠奪に出た。
景福元年[892]
◎.6月 孫儒軍は飢え、儒も疾となり大敗して殺された。残軍は劉建鋒、馬殷に率いられて湖南に走った。
◎.7月 行密が揚州に入った。揚州はすっかり荒廃していたが、行密は再建に努めた。
◎.11月 東都を棄てて南下してきた秦宗衡・孫儒[黄巣を嗣いだ秦宗權の配下、宗衡は弟]の大軍が淮南に侵攻してきた。秦彥、畢師鐸は合流した。朱全忠と争って不利であった宗權は召還したが、情勢をみた孫儒は従わず宗衡を殺して揚州に迫った。
◎.閏11月 唐朝は宣武節度朱全忠を檢校太尉兼侍中兼揚州大都督府長史充淮南節度觀察等使行營兵馬都統/東南面招討使として兼任させた。全忠は將李璠を留後として淮南に派遣し、行密を節度副使とした。
◎. 朱全忠と対立する徐州感化軍節度使時溥は、李璠の領内通過を阻止した。
光啓四年/文德元年[888]
◎.正月 孫儒は秦彥、畢師鐸等を殺し軍を併せた。
◎.2月 朱全忠は楊行密を淮南留後に推薦した。
◎.4月 孫儒が揚州を陥した。
◎.8月 楊行密は秦彥が去った宣州[趙鍠が拠っていた]を攻めた。
龍紀元年[889]
◎.6月 楊行密は宣州を取った。しかし孫儒は行密の本拠盧州を攻め、刺史蔡儔は裏切って降った。
◎. 楊行密・孫儒・錢鏐は浙西諸州を互いに陥しあった。
大順元年[890]
◎.2月 朱全忠將龐師古は南下し孫儒と戦ったが敗れた。しかしあまり本気で戦ったとは思えない。
行密はそれに乗じて潤州・常州を攻めた。
◎.6月 孫儒は朱全忠に通交を求め、全忠は儒を淮南節度使に推薦したが、すぐ敵対関係に戻った。
◎.12月 孫儒は攻勢に出て蘇・潤州を取った。
大順二年[891]
◎. 孫儒は和・滁州で行密と戦った。孫儒軍は黄巣・秦宗權以来流賊で統治能力がなく、勇戦して諸州を陥すが保持することができず、寇掠できるものが尽きると放棄するしかない。
◎.7月 孫儒は食が尽きて揚州を放棄し、周辺の掠奪に出た。
景福元年[892]
◎.6月 孫儒軍は飢え、儒も疾となり大敗して殺された。残軍は劉建鋒、馬殷に率いられて湖南に走った。
◎.7月 行密が揚州に入った。揚州はすっかり荒廃していたが、行密は再建に努めた。
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