・天寶15年[756年]安禄山の乱に蒲州に河中防禦守捉蒲關使を置いた。蒲州は京師と北都太原を結ぶ交通の
要衝であり、唐朝の財政を支える塩の産地でもあった。呂崇賁が初代防禦使であるが、まもなく賊の支配地となった。
・乾元元年[758年]2月郭子儀はこれを奪還した。河中節度兼蒲關防禦使が置かれ、蒲晉絳慈隰虢同七州を
領した。その後領州は頻繁に変動した。
・上元元年[760年]3月蒲州は河中府とされた。節度使は短期に交替して安定しなかった。
・都統李國禎は絳州に治したが、寶應元年兵糧の欠乏により軍乱が起き殺された。副元帥郭子儀が赴任して
鎮圧が混乱が続いた。
・廣徳2年[764年]宦官程元振等に疎外されていた郭子儀の復権により河中府は朔方軍主力の駐屯地になり、
朔方・邠寧を併せて支配する拠点となった。相次ぐ吐蕃の侵攻には河中からの派遣軍が出動することになった。
河中府には観察使が留守居役として置かれた。
・大暦2年[767年]専横を極めた同華節度使周智光に対して郭子儀が出動することになり、その動きを察した
同華諸将は智光を殺害して帰服した。
・大暦年間[766-779年]河中に都した郭子儀はしばしば入朝し唐朝に忠誠を誓い、
西の奉天城を拠点として吐蕃防衛に努めた。
要衝であり、唐朝の財政を支える塩の産地でもあった。呂崇賁が初代防禦使であるが、まもなく賊の支配地となった。
・乾元元年[758年]2月郭子儀はこれを奪還した。河中節度兼蒲關防禦使が置かれ、蒲晉絳慈隰虢同七州を
領した。その後領州は頻繁に変動した。
・上元元年[760年]3月蒲州は河中府とされた。節度使は短期に交替して安定しなかった。
・都統李國禎は絳州に治したが、寶應元年兵糧の欠乏により軍乱が起き殺された。副元帥郭子儀が赴任して
鎮圧が混乱が続いた。
・廣徳2年[764年]宦官程元振等に疎外されていた郭子儀の復権により河中府は朔方軍主力の駐屯地になり、
朔方・邠寧を併せて支配する拠点となった。相次ぐ吐蕃の侵攻には河中からの派遣軍が出動することになった。
河中府には観察使が留守居役として置かれた。
・大暦2年[767年]専横を極めた同華節度使周智光に対して郭子儀が出動することになり、その動きを察した
同華諸将は智光を殺害して帰服した。
・大暦年間[766-779年]河中に都した郭子儀はしばしば入朝し唐朝に忠誠を誓い、
西の奉天城を拠点として吐蕃防衛に努めた。
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