唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

宣武の軍乱 李乃・鄧惟恭・陸長源

2023-02-11 08:41:42 | Weblog
宣武節度使李萬榮は自立してまもない貞元12年6月に重病となってしまった。監軍霍仙鳴は押牙劉沐に軍政を委ねた。萬榮の子乃は規律のみだれた宣武軍士を煽動し、沐を追い出し、將伊婁說、張丕を殺させました。萬榮の腹心で重鎮の都虞候鄧惟恭は監軍俱文珍とともに乃を捕らえ京師に送りました。

貞元12年7月
朝廷は元宰相の東都留守董晉を同平章事宣武節度使として送り込み、乃は虔州司馬へ左遷しました。

惟恭は自立を策しましたが、晉が急行したために準備ができず、やむをえず諸将を率いて出迎えました。老獪な晉は惟恭を安心させ当座の軍政を委ねました。

貞元12年8月
硬骨果断な汝州刺史陸長源を宣武行軍司馬としました。晉は硬軟を使い分けて將士を慰撫していったので晉が卒するまでは安撫しておくことができました。

貞元12年11月
都虞侯鄧惟恭は徒党を組み亂しようとしましたが、警戒していた晉に捕らえられ京師に送られ流されました。

貞元15年2月
董晉が卒し、陸長源が継ぐと即日軍乱が起き長源や節度判官孟叔度、丘穎が殺されました。
長源は厳酷で、叔度・穎は軽薄で將士から嫌われていました。
監軍俱文珍は宋州刺史劉逸准[全諒]を呼び鎮定させました。逸准は乱の黒幕で、まもなく節度使に任ぜられました。これにより宣武軍はまた半独立の状態になりました。

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