貞元四年[788]
◎.正月 韓遊瓌が入朝する時、軍中は処罰されると思って送るものがなかった。ところが德宗は游瓌の豐義築城提案が気に入り、留任させることにした。そのため軍中は報復を懼れて動揺した。筆頭格の都虞候范希朝は京師に逃亡した。
◎. 游瓌は豐義城を築いたが、軍士は協力せず途中で崩壊した。
◎.5月 吐蕃三萬が寇涇、邠、寧、慶、鄜等州。吐蕃は春には疾病が多いのでいつも冬に来るので諸鎭は警戒していなかったため、多くの農民が捕まってしまった。
◎.7月 游瓌は吐蕃対策として寧州に居たが、既に軍中に人望がないことを自覚して辞任を申し出た。唐朝は渾瑊に邠寧副元帥を加え、左金吾將軍張獻甫を邠寧節度使とし。陳許兵馬使韓全義を長武城行營節度使とした。遊瓌は承継を待たず逃げ去るように京師に戻り右龍武統軍となった。獻甫は山西節度獻誠の從弟の軍人であり檢校工部尚書左金吾将軍。
◎. 軍士は獻甫が厳酷で、自軍の出身ではないのを嫌気し、裴滿等は乱して剽掠し、監軍楊明義に范希朝を節度使とすることを迫った。都虞侯楊朝晟は乱卒二百餘人を斬り、獻甫を迎え入れた。德宗は范希朝に代えようと迷ったが、希朝は辭し寧州刺史節度副使となった。張獻甫が檢校刑部尚書兼邠州刺史邠寧慶節度觀察使となる。
貞元九年[793]
◎.2月 大軍を動員して鹽州城を再築し、吐蕃の侵入を抑えられるようにした。
◎. 獻甫は常に義倉・兵備・烽堡を整備し、夏州城も修築した。
貞元十二年[796]
◎.正月 獻甫に檢校左僕射を加。
◎.5月 邠寧節度使張獻甫が61歳で卒し[贈司空],監軍楊明義は都虞候兼御史大夫楊朝晟[字叔明]を權知留後とし、その後邠寧節度使とした。朝晟は邠寧出身で軍の実力者であったので混乱はなかった。
◎.9月 吐蕃寇慶州。
◎.是年 朝晟母憂,起復左金吾大將軍同正邠州刺史御史大夫。
貞元十三年[797]
◎.2月 德宗は方渠、合道、木波に築城し、吐蕃の侵入を防ぎたいと考え、邠寧節度使楊朝晟に要する兵力を問い合わせた。朝晟は「資財さえ与えてもらえれば自軍だけでできます」と答えた。
驚いた德宗は「鹽州築城には、七万を派兵し、他方面も総動員した。三城はそれより吐蕃勢力圏に近いが」と問うと。
朝晟「鹽州の時は、総動員のために、事前に吐蕃に情報が漏れ、敵も総動員してきたのです」「今回は自軍だけを密かに動員して築城します。三旬もあれば城はできます。城ができれば簡単には落ちません。吐蕃は前回のように総動員するでしょうから来るのに時間がかかります。しかも城の周囲に水も草もないので長期の包囲はできません。まもなくあきらめるでしょう」と答えた。
◎.3月 朝晟は軍を三分して,各一城を築いた。
◎.4月 やがて吐蕃は大軍を派遣してきたが、邠寧軍と睨み合うだけで、まもなく引き揚げた。邠寧も京師も安全になった。
貞元十五年[799]
◎.2月 朝晟 免喪,加檢校工部尚書。
◎.夏 防秋のため移軍寧州。
貞元十七年[801]
◎.5月 邠寧慶節度使楊朝晟は寧州にいたが卒した。
◎.6月 神策軍より定平鎮兵馬使李朝寀を検校工部尚書兼邠州刺史邠寧慶節度使とし、人望のある寧州刺史劉南金を副とした。しかし都虞候史經言等は不満で乱を起こそうとしたが、兵馬使高固が鎮圧した。京師防衛の重要拠点で乱が起こることを懼れた德宗は高固を節度使に代えようとした。軍中はかえって動揺した。留後孟子周が兵器を収納し、士卒を饗応してなんとか抑え込んだ。朝寀は河中渾瑊のもとから神策に入った將であり、邠寧には地盤がなかった。
◎. 高固が邠州刺史兼御史大夫邠寧慶節度使となった。固は宿將であり、寬厚で人望があったのでも上司や同列に妬まれていたが、帥となっても私怨をはらすことなく軍中は平安になった。
◎.10月 鹽州剌史杜彥先が吐蕃に攻められ城を捨てて慶州に逃げてきた。
永貞元年/元和元年[803]
◎. 高固、加検校右僕射
元和二年[804]
◎.? 邠寧節度使高固は入朝して検校右僕射右羽林統軍となった。
◎.12月 檢校司空兼成都尹御史大夫充劍南西川節度副大使知節度事管内度支營田觀察使處置統押近界諸蠻及西山八國雲南安撫等使南平郡王食邑三千戸高崇文が検校司空同平章事邠州刺史充邠寧節度京西諸軍都統に移った。崇文は劉闢討伐の功績で西川節度使となったが、生粋の軍人で文盲であり、大藩の西川で外交もある行政処理に辟易し、早期の転任を求めていた。そこで宰相武元衡が西川に赴任し、対吐蕃防衛の責任者として崇文を遷した。邠寧節度単独の使相ははじめてである。
◎.正月 韓遊瓌が入朝する時、軍中は処罰されると思って送るものがなかった。ところが德宗は游瓌の豐義築城提案が気に入り、留任させることにした。そのため軍中は報復を懼れて動揺した。筆頭格の都虞候范希朝は京師に逃亡した。
◎. 游瓌は豐義城を築いたが、軍士は協力せず途中で崩壊した。
◎.5月 吐蕃三萬が寇涇、邠、寧、慶、鄜等州。吐蕃は春には疾病が多いのでいつも冬に来るので諸鎭は警戒していなかったため、多くの農民が捕まってしまった。
◎.7月 游瓌は吐蕃対策として寧州に居たが、既に軍中に人望がないことを自覚して辞任を申し出た。唐朝は渾瑊に邠寧副元帥を加え、左金吾將軍張獻甫を邠寧節度使とし。陳許兵馬使韓全義を長武城行營節度使とした。遊瓌は承継を待たず逃げ去るように京師に戻り右龍武統軍となった。獻甫は山西節度獻誠の從弟の軍人であり檢校工部尚書左金吾将軍。
◎. 軍士は獻甫が厳酷で、自軍の出身ではないのを嫌気し、裴滿等は乱して剽掠し、監軍楊明義に范希朝を節度使とすることを迫った。都虞侯楊朝晟は乱卒二百餘人を斬り、獻甫を迎え入れた。德宗は范希朝に代えようと迷ったが、希朝は辭し寧州刺史節度副使となった。張獻甫が檢校刑部尚書兼邠州刺史邠寧慶節度觀察使となる。
貞元九年[793]
◎.2月 大軍を動員して鹽州城を再築し、吐蕃の侵入を抑えられるようにした。
◎. 獻甫は常に義倉・兵備・烽堡を整備し、夏州城も修築した。
貞元十二年[796]
◎.正月 獻甫に檢校左僕射を加。
◎.5月 邠寧節度使張獻甫が61歳で卒し[贈司空],監軍楊明義は都虞候兼御史大夫楊朝晟[字叔明]を權知留後とし、その後邠寧節度使とした。朝晟は邠寧出身で軍の実力者であったので混乱はなかった。
◎.9月 吐蕃寇慶州。
◎.是年 朝晟母憂,起復左金吾大將軍同正邠州刺史御史大夫。
貞元十三年[797]
◎.2月 德宗は方渠、合道、木波に築城し、吐蕃の侵入を防ぎたいと考え、邠寧節度使楊朝晟に要する兵力を問い合わせた。朝晟は「資財さえ与えてもらえれば自軍だけでできます」と答えた。
驚いた德宗は「鹽州築城には、七万を派兵し、他方面も総動員した。三城はそれより吐蕃勢力圏に近いが」と問うと。
朝晟「鹽州の時は、総動員のために、事前に吐蕃に情報が漏れ、敵も総動員してきたのです」「今回は自軍だけを密かに動員して築城します。三旬もあれば城はできます。城ができれば簡単には落ちません。吐蕃は前回のように総動員するでしょうから来るのに時間がかかります。しかも城の周囲に水も草もないので長期の包囲はできません。まもなくあきらめるでしょう」と答えた。
◎.3月 朝晟は軍を三分して,各一城を築いた。
◎.4月 やがて吐蕃は大軍を派遣してきたが、邠寧軍と睨み合うだけで、まもなく引き揚げた。邠寧も京師も安全になった。
貞元十五年[799]
◎.2月 朝晟 免喪,加檢校工部尚書。
◎.夏 防秋のため移軍寧州。
貞元十七年[801]
◎.5月 邠寧慶節度使楊朝晟は寧州にいたが卒した。
◎.6月 神策軍より定平鎮兵馬使李朝寀を検校工部尚書兼邠州刺史邠寧慶節度使とし、人望のある寧州刺史劉南金を副とした。しかし都虞候史經言等は不満で乱を起こそうとしたが、兵馬使高固が鎮圧した。京師防衛の重要拠点で乱が起こることを懼れた德宗は高固を節度使に代えようとした。軍中はかえって動揺した。留後孟子周が兵器を収納し、士卒を饗応してなんとか抑え込んだ。朝寀は河中渾瑊のもとから神策に入った將であり、邠寧には地盤がなかった。
◎. 高固が邠州刺史兼御史大夫邠寧慶節度使となった。固は宿將であり、寬厚で人望があったのでも上司や同列に妬まれていたが、帥となっても私怨をはらすことなく軍中は平安になった。
◎.10月 鹽州剌史杜彥先が吐蕃に攻められ城を捨てて慶州に逃げてきた。
永貞元年/元和元年[803]
◎. 高固、加検校右僕射
元和二年[804]
◎.? 邠寧節度使高固は入朝して検校右僕射右羽林統軍となった。
◎.12月 檢校司空兼成都尹御史大夫充劍南西川節度副大使知節度事管内度支營田觀察使處置統押近界諸蠻及西山八國雲南安撫等使南平郡王食邑三千戸高崇文が検校司空同平章事邠州刺史充邠寧節度京西諸軍都統に移った。崇文は劉闢討伐の功績で西川節度使となったが、生粋の軍人で文盲であり、大藩の西川で外交もある行政処理に辟易し、早期の転任を求めていた。そこで宰相武元衡が西川に赴任し、対吐蕃防衛の責任者として崇文を遷した。邠寧節度単独の使相ははじめてである。
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