唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

魏博 田悅の乱 1

2022-11-16 08:24:22 | Weblog
悅は初代魏博節度使承嗣の甥であり、承嗣に代わって軍を指揮していました。
大暦11年には汴宋で自立した李靈耀を支援する為に派遣されたが、淮西李忠臣等に撃破されて逃げ帰っています。

大暦14年2月
魏博節度使田承嗣が卒し、兄の子悅が自立しました。承嗣は11人も子がいましたが、いずれも幼く、まともに継承できるのは悅だけでした。姑息な代宗皇帝の末期でしたので、唐朝はやむをえず正式に留後とし、節度使に昇進させました。悅もまた承嗣と違い恭順を示していました。

建中元年2月
あらたに即位した德宗皇帝は粛軍を行い、藩鎭の兵士達も減らすように命じました。特に魏博は承嗣の時より過大な軍備[7万]を擁していたため、それを3万にするように命じました。悅にとっては財政負担が軽くなるので悪い話しではありませんが、リストラされる兵士にとっては、帰農しても貧乏暮らしが待つだけで大変な事です。悅は兵に唐朝の命令によりやむをえずやっているだけでしたくはないのだと告げ、私財を投じて補助し、なかなか実施しませんでした。兵は悅を徳とし、唐朝を恨みました。

建中2年正月
成德節度使李寶臣が卒し、子の惟岳が自立しました。德宗皇帝はこれを認めず征討命令を出そうとします。寶臣に継承を支援してもらった悅は上奏して惟岳の継承を求めますが、一蹴されます。そこで惟岳と連合して反しました。

神策李晟、河東馬燧、昭義軍李抱真、河陽李芃が征討軍となります。

建中2年5月
悅は昭義軍の邢磁二州が河北領域に入っているのを排除しようとし、

兵馬使康愔に邢州[刺史李共]を囲ませ、別將楊朝光に澤潞からの援軍を遮断させ、自ら大軍を率いて臨洺城[守將張伾]を囲みました。

建中2年7月
河東節度使馬燧,昭義節度使李抱真,神策先鋒都知兵馬使李晟は田悅・李惟岳軍を臨洺に大破しました。
邢州の包囲も解けました。

悅は平盧李納・惟岳に緊急支援を求め、納大將衛俊、惟岳軍兵が来援し、魏博軍とともに魏州洹水で、唐朝軍と対峙しました。唐朝軍には河陽李芃が来援しました。

建中2年11月
馬燧など唐朝軍は悅軍を雙岡に破りました。

建中3年正月
成德李惟岳は形勢不利ととみて降ろうとしましたが、悅に止められ、やがて王武俊に殺され亡んでしまいました。悅は重要な味方を失い孤立していきます。

河陽節度使李芃が衛州に迫り、悅守將任履虛は一旦降り、また反します。

田悅と淄青軍は洹水で唐朝軍に大敗しました。悅は魏州に逃げ戻ります。幸い馬燧と李抱真が不和となり
すぐに攻囲されることはありません。大敗により軍備や志気は崩壊しますが、悅は敗戦を詫び、私財を放出して將士に給しました。

悅は軍使符璘を李納支援に送っていましたが、璘は馬燧に降りました。

李瑤父再春が博州、悅從兄田昂が洺州、將王光進が長橋を以って唐朝軍に降りました。

馬燧等唐朝軍が魏州城を攻め、撃退はしましたが悅は追い込まれてしまいました。

建中3年閏正月
成德李惟岳[恒冀易定滄深趙徳棣州]の滅亡後の処理として、王武俊に恒冀、張孝忠に易定滄、康日知に深趙を与え、幽州朱滔に徳棣二州を加えました。格下の觀察使となった王武俊と、遠隔飛び地の徳棣を与えられた朱滔は不満です。特に滔は深州を強く要望していました。

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