唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成德 王承宗の乱 4

2022-11-15 08:45:36 | Weblog
元和11年10月

幽州節度劉總が使相となりました。本気ではないですが征討に加わっている總への恩賞です。

この時点まで淮西・成德両面ともはかばかしい戦果はなく、莫大な戦費がかかり、唐朝も疲弊していっています。当然成德承宗も領域が荒らされ、戦費に苦しんでいます。

元和11年12月
横海節度程執恭は成德兵を德州長河で破りました。

義武節度使渾鎬は全軍で恒州へ侵攻しましたが大敗し逃げ帰りました。軍乱が起こり鎬家は掠奪されました。張茂昭の甥である易州刺史陳楚が急遽入城し鎮定しました。鎬は渾瑊の子です。

元和12年3月
昭義郗士美兵は趙州柏鄉で敗北しました。

王承宗軍は横海程權[執恭]の領域である景州東光に侵攻しました。程權はあわてて滄州に逃げ帰りました。

元和12年5月
攻囲したはずの六鎮[義武.幽州.横海.魏博.河東.昭義]は形勢不利で、最強の幽州劉總も武強縣を得ただけで進みません。戦費だけが際限なく支出されていく状況のため、宰相李逢吉をはじめ罷戦論が有力となり、対成德戦を止め、淮西に専念することになりました。
承宗も優勢とは言え、外部進出する力はなく、一時休戦という状態になりました。

元和12年10月
唐隋唐李愬が淮西蔡州を奇襲し、吳元濟を捕らえたことから淮西は平定され、情勢は大きくかわることになりました。後は淄青と成德です。淄青は大鎮ですが従来より兵は弱くたよりになりません。

元和13年2月
憲宗皇帝に深く憎まれている承宗は、次は自分だと懼れましたが、前回の違約もあるため交渉の方策がありません。そこで憲宗の親任厚い魏博節度田弘正に懇願して仲介を依頼しました。条件は徳棣二州の献納、実子を人質に、領域内の官員任命権の返上など、全面降伏に近いものです。
それでも憲宗は承宗憎しですからなかなか赦そうとしません。しかし弘正の幾度もの願いを無視することもできません。弘正が帰朝したため成德・淄青が分断ではていたのです。

元和13年3月
ついに承宗の官爵が復されました。

元和13年4月
魏博田弘正は承宗子知感、知信を京師に護送し、德棣二州の領域を唐朝に引き渡す仲介をしました。
出遅れた淄青李師道は孤立しまもなく滅亡します。

元和14年8月
承宗は検校右僕射を加えられます。

元和15年10月
成德軍節度使王承宗は卒します。実子は京師に人質となっていますので、牙軍は弟承元を立てようとしますが、情勢がわかる承元は拒否し義成節度に移ります。代わりに魏博節度田弘正が牙軍を引き連れて赴任しました。



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