吐突承璀の成徳討伐は、昭義軍節度使盧従史の非協力もあり敗戦が続いた。
周囲の藩鎭もいつもどおりはかばかしい戦いをせず、賞賜ばかりを要求し成果はろくにあがらなかった。
吐突承璀は盧従史に責任を押しつけ解任したが、結局王承宗を赦すことになり、憲宗の方針は後退することになった。
河北の藩鎭においては幽州・義武・横海などが朝廷側であり、成徳・魏博・淄青が反朝廷側であった。
ところが十月義武軍節度使張茂昭が易定二州を朝廷に獻じて帰服してきた。義武軍は河北の小鎭ではあるが、成徳の西北を直轄で抑えることになり、朝廷は有利な体制を築けることになった。
周囲の藩鎭もいつもどおりはかばかしい戦いをせず、賞賜ばかりを要求し成果はろくにあがらなかった。
吐突承璀は盧従史に責任を押しつけ解任したが、結局王承宗を赦すことになり、憲宗の方針は後退することになった。
河北の藩鎭においては幽州・義武・横海などが朝廷側であり、成徳・魏博・淄青が反朝廷側であった。
ところが十月義武軍節度使張茂昭が易定二州を朝廷に獻じて帰服してきた。義武軍は河北の小鎭ではあるが、成徳の西北を直轄で抑えることになり、朝廷は有利な体制を築けることになった。
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