・大暦10年[775年]みずから徴兵した10万の兵力の維持に苦しむ田承嗣は
昔の仲間である相衛節度使薛嵩の死を好機として、相衛刑洺の四州を併合しようとした。
・相衛將裴志を抱き込み一旦は相衛四州を制圧した。また唐朝の河陽・陝虢の藩鎭をそ
そのかし軍乱を起こさせることにも成功した。
・しかしその傲慢さを嫌っていた成徳李寶臣、淄青李正己、幽州朱は唐朝側に付き包囲
攻撃を加えてきた。
・配下の諸将が次々と降り、状況は不利ではあったが、仲間である河北藩鎭どうしの戦い
は手ぬるいものであり、唐朝からの軍費を食いつぶすようにだらだらと続いた。
・承嗣は軍費不足と孤立に苦しみ、大暦11年[776年]正月には一時講和を求めた。
・しかし5月汴宋將李靈耀が反乱を起こすとこれを全面的に支援して永平節度使李勉を滑州に破った。
・10月李靈耀は敗北、援軍として送った甥田も大敗して逃げ帰ると、再び講和を求めた。
・唐朝も長く続く討伐の軍費に苦しみ、また藩鎭どうしの戦意のない戦闘の無意味さを感じ、
12年[777年]3月田承嗣は赦された。
・魏博は相衛二州を加えたが、滄瀛二州を失い領州的には得るところは少なく、多くの兵力を失った。
昔の仲間である相衛節度使薛嵩の死を好機として、相衛刑洺の四州を併合しようとした。
・相衛將裴志を抱き込み一旦は相衛四州を制圧した。また唐朝の河陽・陝虢の藩鎭をそ
そのかし軍乱を起こさせることにも成功した。
・しかしその傲慢さを嫌っていた成徳李寶臣、淄青李正己、幽州朱は唐朝側に付き包囲
攻撃を加えてきた。
・配下の諸将が次々と降り、状況は不利ではあったが、仲間である河北藩鎭どうしの戦い
は手ぬるいものであり、唐朝からの軍費を食いつぶすようにだらだらと続いた。
・承嗣は軍費不足と孤立に苦しみ、大暦11年[776年]正月には一時講和を求めた。
・しかし5月汴宋將李靈耀が反乱を起こすとこれを全面的に支援して永平節度使李勉を滑州に破った。
・10月李靈耀は敗北、援軍として送った甥田も大敗して逃げ帰ると、再び講和を求めた。
・唐朝も長く続く討伐の軍費に苦しみ、また藩鎭どうしの戦意のない戦闘の無意味さを感じ、
12年[777年]3月田承嗣は赦された。
・魏博は相衛二州を加えたが、滄瀛二州を失い領州的には得るところは少なく、多くの兵力を失った。
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