唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大暦の軍乱15 汴宋李靈耀の乱

2017-10-10 13:25:27 | Weblog
大暦11年5月
[新]汴宋都虞候李靈耀反,殺濮州刺史孟鑒。
[旧]癸巳,以永平軍節度使李勉為汴州刺史,充汴宋等八州節度觀察留後,
時汴將李靈耀專殺濮州刺史孟鑒,北連田承嗣。故命勉兼領汴州。授靈耀濮州刺史,靈耀不受詔。
[通]汴宋留後田神玉卒。都虞候李靈曜殺兵馬使、濮州刺史孟鑒,北結田承嗣為援。癸巳,以永平節度使李勉兼汴、宋等八州留後。乙未,以靈曜為濮州刺史,靈曜不受詔。

[背景]
幽州節度安禄山の反乱に同調しなかった、營州平盧軍節度はやがて追いつめられて、全軍をあげて渤海湾を渡り山東半島へ移動し、淄青平盧軍節度使[侯希逸-李正己]となりました。その分派は淮西節度使[李忠臣]と汴宋節度使[田神功]となり、河北の三鎭に負けない巨大な勢力を形成しました。そのうち汴宋節度使は汴宋鄆曹濮徐潁兗の8州を管轄する大藩鎭でしたが田神功は入朝もし比較的従順でしたが、大暦9年正月に卒し、弟の神玉が留後となりました。しかし神玉も11年5月に卒すると、都虞候李靈曜は魏博田承嗣の支援を得て自立を図ります。

[結果]
唐朝は文官である永平節度使李勉に汴宋を兼領させ、李靈曜を濮州刺史とします。しかし靈曜は従いません。姑息な唐朝は靈曜を節度使にしますが、靈曜は麾下の各州の刺史も任命して完全に自立を図ります。やむをえず唐朝は永平李勉・淮西李忠臣・淄青李正己・河陽馬燧に征討を命じます。李勉は田承嗣の援軍田悦に敗北しますが、李忠臣は激戦の末悅を敗走させ、靈曜は配下の李僧惠の裏切りにもあい捕らえられ誅殺されます。
どさくさに紛れて淄青李正己は鄆曹濮徐兗の5州を制圧し巨大化し、汴州は李忠臣に与えられ。唐朝には宋潁二州が残るのみでした。この乱の鎮定により田承嗣も表面的に帰服し一応大乱は治まることになりました。
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