正月~二月雲南蠻は成都に侵攻し陥落寸前となった。
龐を征討した康承訓は、たちまち宰相路巖や韋保衡達から批判され失脚した。
これにより将軍達に保身が強まり、賊を本気に討伐するより表面上をごまかそうとする傾向になっていった。
依然として武寧軍[徐州]のあとには群盗が横行し、六月には徐濠宿観察使を復置して治安対策にあたることになった。
八月魏博節度使で軍乱が起こり、長く続いた何氏の支配が終わり、韓君雄が自立した。
魏博の牙軍の横暴はさらに強まりこれからの節度使はその傀儡でしかなかった。
同じく八月懿宗とその愛妻郭妃の子同昌公主[韋保衡の妻、その権力の源泉]が亡くなった。
懿宗は狂乱し、治療に当たった医師とその親族三百人を投獄した。
宰相劉瞻や諫官達はそれを諫言したが、かえって左遷・流罪となった。
京兆尹温璋は懿宗の無能に絶望して自殺した。
龐を征討した康承訓は、たちまち宰相路巖や韋保衡達から批判され失脚した。
これにより将軍達に保身が強まり、賊を本気に討伐するより表面上をごまかそうとする傾向になっていった。
依然として武寧軍[徐州]のあとには群盗が横行し、六月には徐濠宿観察使を復置して治安対策にあたることになった。
八月魏博節度使で軍乱が起こり、長く続いた何氏の支配が終わり、韓君雄が自立した。
魏博の牙軍の横暴はさらに強まりこれからの節度使はその傀儡でしかなかった。
同じく八月懿宗とその愛妻郭妃の子同昌公主[韋保衡の妻、その権力の源泉]が亡くなった。
懿宗は狂乱し、治療に当たった医師とその親族三百人を投獄した。
宰相劉瞻や諫官達はそれを諫言したが、かえって左遷・流罪となった。
京兆尹温璋は懿宗の無能に絶望して自殺した。
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